「Web3」はバズワードなのか、それとも次のメインストリームになり得るのか

ここ数か月、Web3ということばが急速に流行ってきています。基本はビットコインで有名なブロックチェーンまわりのテクノロジーの総称なのですが、単に新しいテクノロジーの出現というだけでなく、現在のインターネットの構造そのものが変化するかどうかという議論になってきているようです。

ウェブはふたたび「非中央集権」を取り戻せるのか?

その構造変化の可能性をひと言で説明すると、こういうこと。「ウェブはふたたび非中央集権になり得るか」

かんたんにおさらいしておくと、2000年代なかばにWeb2.0ということばが流行ったことがありました。1990年代に社会に普及したインターネットは、当初はいわゆる「ホームページ」であり、単にコンテンツを消費者に送り込む方法が紙媒体からウェブに変わっただけでした。しかし2000年代初めにブログが普及してだれもが発信できるようになり、さらにその後のSNSの登場で情報の伝達が完全な「双方向」に変わった。この構造変化を指して2.0と呼んだのです。

しかしWeb2.0には、隠された地雷がありました。情報が双方向になり、自由に流通するようにするためには、情報が流れるための基盤(プラットフォーム)が必要であり、このプラットフォームがいずれすべてを覆い尽くして巨大化していくという時限爆弾です。

2000年代の夢「Web2.0」はビッグテック支配を招いた

儲かりそうもない検索エンジンを開発するだけのスタートアップだったグーグルは、地図やメールなどのさまざまなアプリを開発し、スマートフォンのOSも支配し、個人間でやりとりされるあらゆる情報を握るようになりました。最初は大学内の友人関係を円滑にするためだけのアプリだったフェイスブックは、今や世界中の社会資本の基盤になり、今後は仮想空間も押さえようと躍起になっています。

ビッグテック(巨大テクノロジー)と呼ばれるようになったこれらの企業は領域国民国家をも逸脱して世界のプラットフォームになりつつあります。中国には米国のGAFAは入り込めていませんが、アリババやテンセントなどの独自企業群があり、最近では中国共産党政府がこれら中国ビッグテックを支配下に収めようとする動きも出てきています。

「監視資本主義」批判の高まり

ビッグテックの中心的なビジネスは、莫大なパーソナルデータをネット上で集め、それをAIで解析することによって的確なターゲティング広告を配信するというものです。これに対しては強い批判がヨーロッパ、続いてアメリカなどで起きてきてます。最大の引き金になったのは、フェイスブックの広告が2016年の大統領選挙に介入したというケンブリッジ・アナリティカ事件。最近では「監視資本主義」という書籍もベストセラーになり、米国世論のビッグテック批判は日増しに高まっている模様です。

このビッグテック批判とブロックチェーンまわりの技術が結びついて、Web3のバズワード化が起きているのだとわたしは見立てています。実際、ブロックチェーンは少し前まではビットコインなどの(仮想通貨あらため)暗号資産やデジタル通貨の話が中心だったのですが、最近はDAO(非中央集権・自律型組織)やプラットフォームを介さない自律型のクリエイターエコノミーなどの話が増えてきている感があります。

上記の記事では、DAOのひとつについてこう説明しています。「企業や組織のように代表者がおらず、メンバー同士で自主的に運営されるのが特徴だ。管理者が不在だが、改ざんされず透明性の高いブロックチェーンを使ってお互いを監視し信用力を担保する」

非中央集権・自律型組織「DAO」はどこまで有効か

こういうフラットな組織形態については、以前からホロクラシーやティール組織など同種の概念がありました。これにブロックチェーンを差しはさんだのがDAOの特徴ということになるのでしょう。

ブロックチェーンの有無は別としても、このようなフラットな組織はメンバーの能力が平準化され、目的が明確になっていればうまく運用されるケースもあるようです。優秀な人たちが集まった少数精鋭のスタートアップをイメージすればいいと思います。しかし人数が増え、能力にばらつきができて、メンバー個人個人の見ている方向がそれぞれ異なってくると、組織にはどうしてもマネージメント(管理)が必要になってくる。

この記事では、そのあたりの問題について触れています。そしてこの「非中央集権」の課題はスタートアップのみならず、社会全体にも当てはまるのではないでしょうか。

「非中央集権な社会」は成立しうるのだろうか

社会にはたくさんの人がいます。優秀な人もいれば、仕事ができない人もいる。やる気のある人もいれば、意欲などかけらもない人もいる。しかしだからといって後者のような人たちを放置してもいいわけではありません。そもそも「多様性」というのは、いま現在は一見して「できなさそうな人」「無能の人」でも、どこかで何らかの役割を発揮して、ひょっとしたら社会を救うかもしれないという可能性を考え、あらゆる多様な人を包摂しておこうというものです。

ビジネスジャングルで生き抜ける人だけを重用するというのは、社会にとっては健全ではありません。そのバランスを調整するのが企業においてはマネジメントであり、社会においては政治なのです。

わたしはWeb3の困難な課題は、ここにあると考えています。もちろん、プラットフォームを経由せず音楽や動画などのクリエイターがファンとともに価値を高めていけるようなクリエイターエコノミーはWeb3の中でも大きな可能性を秘めていると思います。しかしWeb3的な構造が、いまやリアル社会と同一になりつつあるネット全体に広がっていくためには、非中央集権でマネジメントが不在の世界でどうバランスを保つのかという課題を乗り越える必要があるのではないでしょうか。

SNSはつねに「衆愚化」し罵詈雑言の嵐になる

ビットコインは当初「仮想通貨」と言われていましたが、金の採掘と同じで発行量がまったくコントロールされない自律型のマネーであることから、価値が乱高下しました。発行量のバランスをとるために現代の国家が金本位制から管理通貨制度に移行し、中央銀行によってコントロールするようになった歴史を考えれば、ビットコインが現代の通貨になり得ないのは当然のことでした。

プラットフォームに支配されないSNSというものもイメージされています。参加者が少なくリテラシーの高い人が大半であれば、初期のパソコン通信や初期のツイッターがそうであったように、楽しい会話が成立するでしょう。しかしSNSはマス化すると、悪い用語ですが必ず「衆愚化」が起き、罵詈雑言がたくさん飛び交うようになります。これを非中央集権のWeb3がどうコントロールするのかという問題も生じてくるでしょう。

「中央集権打破」というのは気持ちの良いスローガンですが、私たちはともすれば悪に陥りがちな自分たちをコントロールために政府を持ち、警察を運営し、中央集権という「必要悪」を許容しているのだということも忘れてはなりません。

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