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キッシンジャーが創った時代の黄昏

1972年体制」という言葉がある。これは、1972年の米中共同声明と日中国交正常化によって成立した基本的な枠組みが、現在まで続いてきているということを意味する。

先月、4月16日の日米首脳会談で、菅義偉首相とジョー・バイデン大統領は、共同声明の文書の中で、「台湾海峡の平和と安定」に言及した。これが1969年の佐藤栄作首相とリチャード・ニクソン大統領との日米首脳会談以来、52年ぶりに日米両国の首脳間の文書で「台湾」が言及されたとして、メディアでも注目された。このように半世紀ぶりの政策の転換がしばしば言及されるが、このことをわれわれはどのように考えたら良いのだろうか。

それを考える上で重要となるのが、一人の人物の存在だ。ヘンリー・キッシンジャーである。

この人物の名前は、国際政治学を学ぶものであれば誰もがその存在をよく知り、馴染みがあるものである。また同時に、現在の米中関係や東アジアの国際政治を考える上でも、欠かすことのできない巨大な存在だ。

とはいえ、私の専門は、米中関係でも、日中関係でも、台湾問題でもない。ヨーロッパ外交史である。その私にとっても、「キッシンジャー」という名前はあまりにも巨大な存在であり、私自身もそこから巨大な影響を受けてきた。それゆえ、ヨーロッパ外交史を専門とする立場から、現代の日本の安全保障を考える上で、このキッシンジャーの外交路線が継続していくのか否かということが、なぜ重要な意味を持つのかを考えてみたい。

華麗なる古典外交の時代

ヘンリー・キッシンジャーは、もともとドイツ生まれのユダヤ人であり、ヒトラーの台頭とその反ユダヤ主義的政策を懸念して、家族とともに1938年にアメリカへ移住する。その後、アメリカ国籍に帰化して、戦後にハーバード大学で政治学を専攻して卒業。1954年には19世紀のウィーン体制についての学位論文で博士号を授与された。その後は、ハーバード大学で教鞭を執り、博士論文をもととした単著、『回復された世界平和』を刊行した。この著作は現在でも広く読まれており、邦訳も入手可能だ。

この『回復された世界平和』では、大陸国家としての外交戦略としてオーストリア外相のメッテルニヒ、そして海洋国家としての外交戦略としてイギリスのカースルレイ外相に焦点が当てられている。そして、この二人の外交指導を中心に、巧みな外交交渉を通じて、ウィーン体制としての平和が確立する過程を描写している。外交史研究としてはやや異色な、地政学的、国際政治学的、戦略研究的な色彩がつよい性質の著書であるが、現在に至るまで、英語および日本語で長く読まれ続けてきたことが、本書の時代を超えた価値を示している。

そして、自らの博士論文を基礎としたこの著書を土台として、キッシンジャーは冷戦後の1994年に、『外交』と題する大著を刊行した。彼の主著と呼んでいいだろう。私がちょうど、学部を卒業して大学院に進学するその年に刊行されたこともあり、国際政治学者としての私の知的な土台を創る際に、とても大きな影響を受けたと感じている。今から振り返ると、ヨーロッパ外交史を基礎として、現代の国際政治の構造やそこにおける問題の本質を抽出して理解するというスタイルは、私の場合はあまり強く意識せずにこのキッシンジャーの手法を参考にしてきたのかもしれない。

この『外交』で、キッシンジャーがその外交指導を高く評価する指導者が、博士論文で扱ったメッテルニヒおよびカースルレイに加えて、スペイン王位継承戦争の際のイングランド国王ウィリアム三世、19世紀後半に活躍したドイツ帝国宰相ビスマルク、そして「アメリカの世紀」幕開けとなる20世紀初頭に大統領となったセオドア・ルーズベルト、冷徹に国益を追求したスターリン、さらには自らが大統領補佐官として支えたリチャード・ニクソンである。

これらの指導者はみな、いわゆる「レアルポリティーク」と呼ばれる、軍事力を重視して、国益追求を目的とする、冷徹な現実主義的な外交を展開した。そして、その基礎にある国際秩序観が、勢力均衡(バランス・オブ・パワー)である。そこに、正義や、道徳、倫理といった規範や価値が果たすべき役割は、きわめて限られている。

レアルポリティークに基づく対中外交

そのようなレアルポリティークに基づく外交を展開する上で、必然的にキッシンジャーは、世界政治における軍事力に支えられたパワーの意義を重要視する。いわば、バランス・オブ・パワーとは、「パワー(大国)」の間の均衡を創ることであるから、そこに小国や、軍事的に力が限られた国家の果たすべき役割はほとんどない。とりわけ、キッシンジャーの時代において彼が重要視したのが戦略核兵器であり、だからこそ彼が大統領補佐官、さらにはフォード政権における国務長官として、軍備管理問題に多大な時間を費やしたのである(第一次戦略兵器制限条約(SALTⅠ)などに代表される)。

そこから必然的に導き出される帰結は、アメリカのアジア政策を構築する上での中国の存在感の大きさと、日本の存在感の小ささである。

いわば、ビスマルクが、ドイツ、イギリス、フランス、ロシア、オーストリアというヨーロッパの五大国におけるバランスを摸索したように、キッシンジャーはアメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリスといった諸国の重要性を視野に入れていた。これらは皆、核兵器を保有しており、また国連安保理の常任理事国である。とりわけそこで重要なのが、アメリカ、ロシア、中国という三つの大国である。

それまでのアメリカ外交は、「自由」という規範を重要視して、民主主義諸国、あるいは同盟国を守るための軍事介入を行っていた。それは、1950年に勃発した朝鮮戦争、さらには1960年代に泥沼となるベトナム戦争に象徴されていた。

しかしながらキッシンジャーは、そのような十字軍的な軍事介入が、アメリカの国益を利するわけでもなく、またアメリカにとって有利となる勢力均衡を形成するわけでもないと考えていた。それゆえ、アメリカはそのような泥沼化していた軍事介入から撤退するべきである。また、グローバルな勢力均衡を根本から変えない場合には、アメリカは必要以上の防衛義務を負うべきではないと考えていた。それが、いわゆる、1969年に発表される「グアム・ドクトリン」であった。

それゆえ、キッシンジャーは自著の『外交』の中で、グアム・ドクトリンに関する三つの特徴の三点目として、次のように論じている。

核兵器によらない侵略の場合には、アメリカは「防衛のために兵力を提供するという基本的な義務は、脅かされている国家自身に期待する」だろう。

すなわち、もしもその国が軍事的な侵略の脅威にさらされていたとしたら、アメリカに守ってもらうことを期待するのではなく、まず自らで防衛することを想定するべきであり、そのための努力をするべきだという論理だ。そこから導き出される論理的な帰結は、台湾や日本の尖閣諸島が軍事的な侵略に脅かされたとしても、まずは自国で防衛することを想定せよ、ということである。

キッシンジャーは、同盟国に対するアメリカの防衛義務を遵守するべきだとも述べている。しかしながらそれは、政府のなかでの公式な見解としての指摘であって、彼の戦略思想から導き出される帰結とはいいにくい。やはり、アメリカの国益を追求することと、グローバルな戦力均衡を自らに有利なものにすること、という論理がキッシンジャーにとっては最重要なのだろうと思う。

アメリカは台湾を防衛すべきか

このグアム・ドクトリンを台湾に応用する場合は、どのようになるか。

まず、ニクソン政権の時代に対中接近をして、アメリカは台湾の国民政府との国交を断絶し、北京の毛沢東主席が指導する中華人民共和国の共産党政府と国交を結ぶ方向へと舵を切った。それとともに、条約上のアメリカの台湾防衛義務は失われる。いわば、「曖昧戦略」として、アメリカの台湾防衛への関与は、「一つの中国」という大きな枠組みの中での、「台湾海峡の平和と安全」を中国が尊重する、という大きな前提のなかに位置づけられることになった。

1972年の沖縄返還は、そのようなグアム・ドクトリンに基づいたアメリカの対日防衛関与についてのそれ以前からの方針の修正という大きな文脈の中で実現されたものであった。また、米中接近もまた、アメリカの東アジアへの軍事的関与が後退することによって、中国共産党政権に対する、平和を求める「友好的なメッセージ」と解釈することも可能であった。そのような、大きな前提の中で、最初に述べた「1972年体制」と呼ばれる東アジア秩序が形成されたのである。

そこでは、民主主義的な価値を共有する諸国が結束するというような、理念や規範の領域が限りなく縮小している。「十字軍」的にアメリカがこの地域での軍事関与を行わないだろうという前提と、この地域の平和と安定はあくまでも米中協調という大きな構造を損なわない中で行われるだろうという前提は、基本的には、冷戦後の北朝鮮の核開発をめぐる「六者協議」などでも持続している。

そこでは、次のような重要な問いに対する明示的な答えは示されないことになっている。すなわち、中国が台湾に対して武力統一を行う場合に、アメリカは台湾をはたして防衛するかどうか、ということである。

その可能性がかつてなく増している現在、アメリカ国内では従来の「曖昧戦略」から、より明示的で明確な台湾防衛関与の政策へと転換すべきだという声も聞こえる。それは、従来の政策の大きな転換となり、必然的にこの地域の秩序の構造全体にも不可避的に影響を及ぼすであろう。

キッシンジャー路線の黄昏

このようなキッシンジャーの外交路線、さらにはそれを基礎とした「1972年体制」を支えてきたのは、いわゆるキッシンジャーの「弟子たち」であった。それは、アンソニー・レイクや、ブレント・スコウクロフト、コンドリーザ・ライスらであり、1970年代から現在に至るまでのホワイトハウスや国務省の中枢で、対外政策を立案してきた責任者たちである。

現在、彼らの影響力が大きく後退しているということが指摘されている。そのことと、「1972年体制」の動揺、そしてアメリカの従来の台湾政策の修正とが、連動しているのである。

しかしながら、必ずしもバイデン政権は、そのようなキッシンジャー路線を完全に葬り去る決意があるかどうかは分からない。バイデン政権は、トランプ政権から続く対中強硬路線、そしてより深い台湾防衛への関与の姿勢を示唆しながらも、他方では従来の米中協調路線を維持したいという思惑も感じられる。

しかしながら、キッシンジャーが模範としたのは、メッテルニヒ時代のハプスブルク帝国、ビスマルク時代のドイツ帝国、そしてスターリン時代のソ連という、現代のアメリカのような民主主義が巨大な声として外交に影響を及ぼす時代とは異なる時代の、異なる政治体制の下での対外政策であった。それゆえ、SNSが拡散し、世論の影響力が拡大し、職業外交官による合理的な「国家理性」の実現というものが必ずしも完全に保障されるわけではない時代においては、キッシンジャー路線は自ずとよりいっそうの限界に直面するであろう。

われわれは、これから、キッシンジャー路線を守っていくのか、あるいはそれを手放す時がきているのか。その判断によって、東アジアの将来、さらには日本の安全保障も大きく左右されるのではないか。

#日経COMEMO #NIKKEI

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