「ケア理論」から組織開発を見つめ直す
今日ここに書く文章は、向こう半年間でぼくが探索したいと感じているテーマの仮説のような、非常に曖昧なものです。ただ、「向こう半年このテーマに取り組もう」とふと決意したので、その旨をここに書き綴ります。
そのうえで、ここに書く組織開発や学習理論に関して、ぼくは博士・修士号をもっているわけでも、学術的な手続きをへて先行事例を調査しているわけでもありません。よい先行研究をご存知の方には、ぜひご教示いただけますと幸いです。
ただ、ふと感じてしまった違和感と、それをほぐしてくれそうな手がかりを見つけたので、その勢いで、衝動に基づいてnoteに書き綴ってみます。
組織開発研究に対する違和感
ピーター・ドラッカー、チャールズ・オライリー、野中郁次郎、入山章栄、中原淳…著名な研究者の方々のビジネスに関連する書籍に触れることが多くあります。あるときふと、その著者や参照・引用元の多くが男性のものであることに気がつきます。
組織開発や学習を起点とした経営理論の源流には、ジョン・デューイ、クルト・レヴィン、エトムント・フッサールなど欧米の研究者の思想があるとされています。この3人もまた、男性です。
「組織開発研究は男性的言説だ!」と主張するつもりはないのですが、あまりにも男性が多いようにも思うのです。
経営学やマネジメント理論、組織開発研究などの知見は、ますます私たちのビジネスに欠かせないものになっていくでしょう。しかし、それらが男性(しかもその多くが白人)によって書かれた思想に基づいていることに対して、違和感がふくらんできました。
組織開発における、ジェンダー平等の機運の高まり
世界の経営・組織開発の課題として「女性の活躍推進」「無意識の偏見の問題に取り組む」「人種・ジェンダー・セクシュアリティ・障害にとらわれない個性の活躍」といった言葉が見受けられます。これらの言葉の背景には、「ダイバーシティ&インクルージョン」という言葉の隆盛や、SDGsの目標5「ジェンダー平等を実現しよう」の影響もあります。
例えば、日本コカ・コーラでは、女性の管理職の比率を2025年までに32.7%から50%に引き上げることを目標にしています。また、LGBTへの配慮として、同性パートナーも「配偶者」とみなして育児休暇や介護休暇などが取得ができるようにしています。社内の規定で配偶者の定義に「法的婚姻関係にある者、事実婚関係にある者、同性のパートナー」を加えています
これらの課題と解決目標が明文化されること自体は素晴らしいことだと思っています。そしてその課題解決に向けて、ぼくもあゆみをともにしたいと思います。
男性中心に構築された理論を参照していていいのだろうか?
こうした問題に向き合うなかで、ぼくたちが忘れてはならないことは、その取り組みにおける思想的背景であると考えています。
ぼくはMIMIGURIという会社で、ファシリテーターとしてさまざまな組織課題や価値創出の場に向き合い、学びながら実践をしています。そのなかで、社内の組織開発研究の専門家たちに教えてもらい、組織開発の理論や先人たちの研究を参照し、助けられてきました。
しかしながら、前述のジェンダー平等の実現にむけて組織開発が寄与しようとするとき、男性中心に構築された理論を参照していていいのだろうか?とふと違和感が芽生えます。
上手い言い方が見つからないのですが、組織開発研究が男性たちによって構築された理論だとした場合、その理論には男性優位の無意識がこびりついていないでしょうか。そのこびりついた無意識を批評し、あらたな理論背景の構築をしなおさないかぎり、ジェンダー平等の実現に近づく歩みを遅らせていくような気がするのです。
そう感じていたなかでふと、「組織開発の理論とフェミニズム理論の接合点を見出すことが可能なのではないか?」という仮説が芽生えてきました。具体的には、組織開発における「学習」の理論と、フェミニズムの中で論じられる「ケア/ケアリング」という観点との接合です。
組織開発における学習の重要性
繰り返しになりますが、このテキストは勢いで書く仮説なので、論拠や先行事例の探索が甘いことをご了承ください。(そのうえで、もし該当しそうな先行研究がありましたら、ぜひご教示いただけますと幸いです)
組織開発において、「学習」というキーワードは切り離せないものです。組織開発に期待される機能の一つに、組織の「関係性の改善」があります。
たとえば、とあるECサイトで営業職と企画職が対立していたとします。営業職は効率よく売り上げをあげたい。企画職はもっと思想を込めたプロダクトをつくりたい。このような対立があるとき、営業職と企画職がたがいにあゆみより、互いの立場に「なってみる」ことを通じて気づき合うことで、共通の目的をもつことができるようになります。
このようにして関係性が改善されるとき、互いの中で「学習」つまり認識の変容が起こっていると考えることができます。
学習における「ケアリング」の参照
さて、こうした「学習」の理論のなかで、佐伯胖さんや生田久美子さんといった研究者は「ケアリング」という概念の重要性を持ち出しています。
「ケアリング」とは、ケア研究の第一人者ネル・ノディングスが用いた言葉です。「人は他人をケアするとき、同時にケアされている」として、ケアする/されるという非対称性をのりこえ、相互的関わりを指す言葉として用いています。
佐伯さんは『「子どもがケアする世界を」ケアする ー保育における「二人称アプローチ」入門』という書籍のなかで、この「ケアリング」の概念を参照しています。子どもの発達・学びを支えるうえで「共感」(二人称的関わり)を「情感込みの知」とし、その重要性を指摘しています。
生田さんは『創造的な知を育成する「師弟関係」の研究ー権力からケアリング関係への転換』のなかで、伝統的な上位下達の師弟における権力関係を、「ケアリング」の概念を手がかりに、師匠と弟子のいずれか一方が「創始者(原因)」となるような学びではなく、むしろその相互作用によって可能となる学びおよび「知」の育成メカニズムを提示しようとしています。
このテキストのなかでとくに印象に残るのは、ケアリング関係としての師弟関係において、「師匠と弟子の双方が変容する過程」が生じるとされている点です。
こうした「学習」を定義する言説のなかに、フェミニズムの文脈で研究されてきた「ケア/ケアリング」の理論が息づいているのです。
ジェンダー/フェミニズム研究と学習理論がつながる
興味深いことに、生田久美子さんは、教育学の研究者でありながら、ジェンダーに関する研究にも関わっています。2005年には「ジェンダーと教育 ー理念・歴史の検討から政策の実現に向けて」の編集を担当されています。さらに遡ると、1986年に刊行されたキャロル・ギリガン『もう一つの声』の共訳を担当されています。
この『もう一つの声』は、ぼくは恥ずかしながら未読なのですが、「ケアの倫理」というキーワードにおいて最も多く参照されている書籍の一つです。
池田光穂さんによれば、ギリガンは、道徳性の発達が男性を中心的モデルにしているために、女性の意見すなわち、モデル形成から抜け落ちた「もう一つの声」に耳を傾け、そこから導き出せる倫理観を「ケアの倫理」というかたちで定式化したとされています。
ケア理論から組織開発における学習の定義を見つめ直す
ケア理論をひもときながら、組織開発における学習理論と接合していくことで何が起こるのか。
たとえば、組織開発においても、管理職が部下を育てるとき、伝統的な上位下達の世界観で育成をするか、ケアリング的な世界観で育成をするかによって、部下の育ち方は変わってくるでしょう。
ケア理論から学習の定義をみつめなおすことで、男性中心的に構築された理論モデルのなかに「もう一つの声」を響かせることができるはずです。
さらに踏み込むと、企業労働を支える家庭労働としてのケア(育児や介護など)の問題を論じることとも繋がっていくかもしれません。このあたりの論点を語る言葉をぼくはまだ持ち合わせていないため、これから研究していきたいと思っています。
参考にしたい文献リスト
以下は、読み途中のものも含めた研究のための書籍リストです。ランダムに置いているため、本当にぼくが探求したいこととつながるかは不明です。本を読み、実践をしながら、このnoteにわかったこと/わからないことを綴っていこうと思います。
マイクロアグレッション
人と組織のマネジメントバイアス
Google流ダイバーシティ&インクルージョン
ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたち
ケアの倫理とエンパワメント
ジェンダーと脳