ファシリテーションへの批判を演劇から考える ー『自由が/上演される』(渡辺健一郎)
編集者の武田俊さんとリサーチャーの廣田周作さんがやっているPod Cast「BOOKS CALLING」では、その本を作ってくれて本当に感謝!と感じる本を「感謝本」と呼んでいます。
この2人の感謝のあり方が本当に面白いので、ぜひ聞いてみてください。
そして今日は、ぼくも一冊の感謝本をあげたいと思います。それは渡辺健一郎さん著『自由が/上演される』です。この本の魅力を語り尽くせるほどまだ読み込めていないのですが、今日はこの本への感謝をあげたいと思います。
著者の渡辺健一郎さんは、俳優として活動しながら批評家として執筆し、なにより演劇教育の実践者として小学校から高校の教育現場に関わられているという稀有な実践家です。
本書『自由が上演される』は、第65回群像新人評論賞を受賞された「演劇教育の時代」に加筆されて出版されたものです。
「ファシリテーション」に関して、丁寧に疑問を投げかけ、懸念を洗い出し、批判を重ねてくださっています。これはもうファシリテーションを生業とする私にとって、感謝でしかありません。
「批判的な意見」というと、「否定的な意見」と誤解しがちなのですが、渡辺さんは「ファシリテーション」を否定しているわけではありません。むしろ教育の現場でファシリテーションの技術を用いて、生徒と向き合っているはずです。
そうであるにも関わらず、ファシリテーションの危険性について正面から向き合い、丁寧に言葉をつむいでくださっているのです。その真摯さに、本当に頭が下がる思いで読んでいました。
本書では、ファシリテーションを行う教師が「主体性を促す」のではなく「主体性を妨げる環境を改善する」人である、と描き出しています。
日経新聞の「私見卓見」のslow innovation代表の野村さんの記事でも、「ファシリテーション(=環境づくり)」と綴られており、ぼくもその表現に大きな違和感はありません。
渡辺さんは、ファシリテーションが商品開発など何か目標に向かうときには有効であろうと書いています。しかし、それが「自由の教育」に向かう時に、注意が必要であるとしています。
自由や主体性の教育を目的とするファシリテーションには、「あなたたちの自由を尊重します」と言うメッセージと同時に「常識の範囲内で行いなさい」と言うメタメッセージを発します。自分が自由に振る舞うだけでなく、他者の自由も尊重しなければならない。コミュニティの内側の自由を尊重しあうだけでなく、見知らぬ他者の自由をも尊重する想像力も必要となります。
本書では、このように「自由の条件」を問うことなく自由が達成しているかのうように見せかける権力のあり方を「自由促進型権力」として鋭く批判していいます。
自由の条件を問わないとどうなるのかを想像してみます。
「みんな自由だよ」と言いながら、自己の自由と他者の自由の対立が、本当は存在します。その暗黙の条件のもとに、「自由といわれても、こうするしかなかった」という不自由に人を追いやることになります。でも権力を行使する側(ファシリテーター)は、「自由だと言ったよね」と自己責任に追い込むこともできるのです。
本書では、「参加しない自由」について言及されています。演劇ワークショップのなかで、積極的に参加する男子グループと、消極的な女子グループがいました。その消極的な女子グループにたいして「そういう参加もあっていい」とファシリテーターが言いました。それにたいして著者は、「空気に気圧され、消極的にならざるを得なかっただけではないか?」と疑問を付しているのです。
さらにそこから「演劇教育」に論点が移行していきます。観客を必要とする「シアター教育」と、観客を必要としない「ドラマ教育」の二つのパターンが登場します。
これは私の理解ですが、舞台上での上演発表を目指して稽古を積み重ね、観客に何を考えさせるかを意図しながら演じることを学んでいくのが「シアター教育」で、発表を目指さず、閉じた空間で演劇的コミュニケーションを積み重ねたゲーム的な遊びを通してコミュニケーションの大切さを学んでいくのが「ドラマ教育」であると解釈しています。
私の経験ですが、幼少期に演劇教育のワークショップに参加し、1泊2日で演劇作品をつくり、保護者や関係者に上演しました。上記の定義に照らせば、これは「シアター教育」です。
本書では、まず「シアター教育」への批判が投げかけられます。
プラトンは、観客たちが快楽のままに上演演目を賞賛したり非難したりすることを「観客支配制(シアトロクラシー)」と呼び、批判したことが描かれています。
観客の反応が、俳優の主体性を変えてしまう力をもつことは、私にも経験があります。私は子どもながらにタバコを吸う演技がしたくて、探偵役になってタバコに火をつけてひと息ふかす身振りをしました。これが上演中にドッと笑いを起こしました。これによって私は、「大人しかしない仕草をやればウケる」という単純な学習をしたことが記憶に残っています。
観客の反応によって、学習をしてしまう。ウケればウケるほど、ウケる行動をしようと努力する。観客にはそのような教育意図はもちろんないでしょう。にもかかわらず、演者の方向性をつくってしまう。これが「観客支配制」だと私は解釈しています。
「観客支配制」は、現代の文脈で言えば、SNS上で見られるでしょう。若者が過剰な表現によって、観客(フォロワー)の反応を煽るのも、刺激を求めるが故かもしれません。しかしながらこのとき観客の多くは、真面目に指摘をする大人を除いて若者たちの過剰表現を面白がるか、攻撃するかに二極化していきます。
ただ、フォロワーという存在がなければ彼らがそのような行動をしたのかというとどうだったのでしょうか。SNSによって観客とダイレクトに常時接続できる社会において、教育的意図を持たない観客の賞賛もしくは避難によって子どもが「どのような行動がより多くの反応をもらえるか」を単純に学習していくプロセスは、現実的に大きな問題を孕んでいると言えるでしょう。
では、上演を目的とせず、観客を入れず、演劇的なコミュニケーションゲームを積み重ねていく「ドラマ教育」こそが重要なのか?
渡辺さんはここにも大きな問題があると、丁寧な批判を積み重ねていくのです。
ごっこ遊びにルーツを持つドラマ教育は「遊び」の活動の延長にあります。コミュニケーション遊びのなかに教育的意義を見出しているとも言えるでしょう。
しかしながらそうした遊びの延長で「いじめ」が起きた事例として、「葬式ごっこ」を取り上げています。弔う対象として遊ばれた少年が、それを苦にして自ら命を絶ってしまったという、1986年の事件です。
この問題の責任の所在を問うのは非常に難しく、場がひとりでにエスカレートしていったという中動態的なあり方があったのではないかと、渡辺氏は指摘するのです。
中動態とは、受動でも能動でもない動態です。たとえば、人がものや他人を好きなるとき、「好きになるぞ!」という意志による能動でもなければ「好きにさせられる」という強制による受動でも難しいですよね。そうではなく、「好きになる」という現象がどこからともなくやってくる。これが中動態です。
ごっこ遊びの延長で、誰からでもなく行為のエスカレーションがやってくる。中動態的な様相で「いじめ」が生まれ、続き、人を死に追いやることが起こります。
そこにさらに、教育的なケアの難しさを重ねます。「ケアはニーズに応答する」ものであるとしたうえで、「明示的なニーズ」と「推察されるニーズ」に分類します。
「明示的なニーズ」は、お腹が空いたからご飯を食べたいというもの。「推察されるニーズ」は、それでも野菜を食べたくないお菓子だけでおなかいっぱいになりたいという子どもに対して、将来必要になる栄養素だからと食べさせようとするものです。
後者の「推察されるニーズ」は、厳密に言えば思い込みでしかない。ケアであっても、子どもと大人の間に亀裂が生じると言います。葬式ごっこにおいても、確かに大人の側に責任があったはずです。ですが、どのようにごっこ遊びに介入するべきだったのか、野菜のように必要な栄養を彼らに対してどのように提示し、対話をするべきだったのか。遊びとは自由ではないのか。
こうしたわかりあえなさに向かいながら、それでもなお教育の可能性を問い続けるしかないと渡辺さんは主張されます。
ここまで、第二章です。本書は第4章まで続きます。
まさに、教育、ファシリテーションを巡って答えのない問いを突きつけられ続ける本書には目が回る思いですが、さらに読み込んでいきたくなる、これから何度も読みたくなる本に出会えたことにまず感謝です。
渡辺さんやこの本を出版するために尽力された方々に、心からお礼を言いたい気持ちです。