「アテンション・エコノミー」の罠 〜「量の呪縛」と「hidden cost(隠れた損失)」
いつもお世話になっております。uni'que若宮です。
今日は「アテンション・エコノミー」の罠について書いてみたいと思います。
「注目」が集まれば正当化される?
先日、こんなニュースがありました。
椎名林檎さんのアルバム特典グッズが「ヘルプマーク」に似ていることが問題に。本当にサポートが必要な方が気付いてもらなくなったり、ヘルプマーク自体の重要性が「ファッションアイテム」的に誤認・矮小化されるなどの懸念の声があがり、ユニバーサルミュージックはグッズデザインを変更するとのこと。
この記事ではデザイン面の議論には立ち入りませんが、そもそものヘルプマーク利用の重要性を考えるとデザインコンセプトの時点での基本的な配慮が足りなかったと言わざるを得ないのではと個人的には思います。ただ、こういうことは後から・外野からはどうとでも言えるもので、今回の制作サイドやデザイナー、椎名林檎さんを個別に批判するよりも「もって他山の石」とし、自分たちの行動や施策において同じ過ちをしないように心がけることが大事だと思います。
配慮を欠いたことにより変更・回収が発生したりイメージが毀損されると経済的損失も小さくはありません。これからのクリエイティブにはこうした配慮がますます求められてくるでしょうが、とはいえすべてのことを事前に検討しきれるわけでもないですから、問題が起こった時にどのように対応するか、というリカバリー力も重要であり、自分ごととして事例や知見を共有しながら積み重ねていくしかないでしょう。
さて、本題に移ります。
今回、提供側の問題点とは別に僕が少し違和感を感じたのは、擁護する意見の中に「まあ椎名林檎グッズのおかげでヘルプマークに関心を持つ人が増えて、広く認知されたんだから結果プラスでは」という意見が見られたことです。
同様のロジックがひろゆきさんの「座り込み」問題の時も見られました。「ひろゆき効果で「座り込み」のことが全国的に注目されたので結果としてプラス」という感じですね。
しかし、こうしたことは「関心」や「注目」によって正当化されうるものでしょうか?
「アテンション・エコノミー」の「量の呪縛」
このように「多くに知られる」ことをプラスに評価しようというスタンスは「アテンション・エコノミー」が現代人の価値観のベースとなってきたことを示しています。
情報過多の海の中で情報が埋もれる時代になってしまったので、「情報の優劣よりも「人々の関心・注目」という希少性こそが経済的価値を持つようになり、それ自体が重要視・目的化・資源化・交換財化されるようになる」。
情報の中身よりも「関心・注目」の方に価値がある。「注目されたんだからよくね?」という意見の背後には「アテンション」こそが価値という価値観へのシフトを顕著に示している気がします。
「ポスト・トゥルース」の時代とも言われますが、「アテンション」を追い求めると「炎上マーケ」や「フェイクニュース」に陥ってしまいがちです。ショッキングな方が「アテンション」を得やすいからです。今回のデザイン自体も「アテンション」を優先してしまったきらいがあるかもしれません。
そしてこれは「アテンション」がしばしば「質」よりも「量」で測られることに大きな原因があります。正しい情報を発信して100PVしか得られないよりは、嘘の情報でも100万PVを獲得したほうがパフォーマンスが高い、というわけです。
パフォーマンスというのは「 質 × 量」で測らなければならないのですが、「質」は目に見えづらいので「アテンション・エコノミー」では「量」のみに意識が行ってしてしまいがちです。マーケティングや広報では本来、そのメッセージによってどのような行動変容・意識変容が起こるか、ということまで評価すべきはずですが、「広告換算価値」や「掲載媒体数」「リツイート数」など比較しやすい「量」だけが「影響力」としてフォーカスされてしまう。
すると結果として、「本当か嘘か」や「情報の質」の吟味に手間をかけるよりも「量」が得やすい方向へと向かっていってしまいます。
「hidden cost(隠れた損失)」
そしてもう一つ、「パフォーマンス」の量が求められると「コスト」も忘れられがちです。
「アテンション」の「量」という「パフォーマンス」の指標は、「売上」成果のようなものです。
大きな「売上」を上げることができても、そのためにどれだけのコストをかけたのか、によって実質的なパフォーマンスは異なります。広告や営業にお金を湯水のように使えば「売上」をつくることはできますが経営的には不健全です。(日本では決算で「増収」が良しとされることもまだまだあり、「みかけの成長」のコストをかけてでも「売上をつくる」ことが良しとされる傾向もあります)
いずれにしても本来、パフォーマンス評価は「売上」だけでなく収支を考慮し差し引きした「純利益」で考えることが重要です。そして「コスト」というのは必ずしも経済的コストに限りません。
たとえばクラシコムさんでは評価において「マネジメント上のコミュニケーションコスト」というのを考慮しているそうです。
高いパフォーマンスを出す社員がいたとしても、その人がルールを無視したり、誰かを攻撃したり、チームの空気を悪化させるような行動をとっているとします。そうするとパフォーマンスは出ているけれども「コスト」も高くなるので、収支を差し引きしたNetのパフォーマンスは実は低いのです。(経済効果や経済再生も大事ですがそれでたとえ大きな成果を挙げるとしても、不正や疑惑について「記憶にない」といって真摯に対応しない政治家は「嘘をついてもバレなきゃいい」というメッセージを国民に発しているわけで、社会的影響として大きな損失になり得ます)
しかしそのコストを考慮せず見かけのパフォーマンスだけを評価してしまうと「どんな手を使っても成果を出せばよい」という文化が蔓延してしまいます。
オードリー・タンさんは「トリプル・ボトムライン」ということを言っています。
先程のクラシコムさんの例と同様、ここではこれまで「コスト」としては認識されていなかったものも「コスト」として捉えられています。
これまで企業は「経済」的なコストしか把握しておらず、「社会」「環境」などにかけている負荷を考慮していませんでした。資源や人の搾取、負荷や汚染の押し付け、などなど。企業が社会や環境に与える「隠れたコストhidden cost」が地球全体としてのサステナビリティを破壊してきた反省から、SDGsへのシフトが求められていますが、そのためにはこうした「隠れたコスト」の見える化が必要なのではないでしょうか。
弱者へのコストの押しつけ
そして問題なのは、この「コスト(犠牲)」はそれによって収益を得る人が負担するのではなく、(声の小さい)弱者や少数派に押し付けられがちだということです。
これもアテンション・エコノミーの「量」の弊害かもしれませんが、「注目されたからいいでしょ」という時、そこで踏みにじられる人がいるとしても「量」として少数であれば許容、とされることがある気がします。ほとんどの人が気にならない、困らないのであれば、少数の人は傷つけられてもよい、ということです。
しかし、傷には重さや深さがあります。たとえ一部の人であっても、多数の「アテンション」のために「コスト(犠牲)」として深く傷つけられたり、時に命さえ奪われるとしたら、それを「注目」でチャラにすることはやはり無責任ではないでしょうか。
企業も政治も完璧ではありえません。しかしだからこそ「注目」の「量」にだけ目をくらまされず、その陰にどのような「コスト(犠牲)」が払われることになるのか、そうした想像力を働かせることが大事ではないでしょうか。
そしてそのためにも「見かけのパフォーマンス」だけに惑わされず、hidden costまで含めた評価を私たち一人ひとりができるようになっていくことが「アテンション・エコノミー」の暴走を止める鍵ではないかと思っています。