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お疲れさまです。uni'que若宮です。

自身もITベンチャーを経営しており、また大企業のアドバイザーをお願いされることも多いので、「これからの企業のあり方」ということをよく考えるのですが、「大きさ」を手放す、という価値観のアップデートが鍵になる気がますますしています。


「大きさ」が呪縛になっている

SDGsという言葉を耳にしたことがある方も多いでしょう。よくご存じない方に簡単にご説明すると、


あっ…これじゃない…


「Sustainable Development Goals」(持続可能な開発目標)の略字で、環境負荷への取り組みやジェンダーギャップその他の差別の解決など、17の目標が定められています。

しかし、政府がジェンダーギャップの目標を先送りしたように、これがなかなかスムーズに進んではいないようです。


「それで、いくらもうかるんだ?」──。持続可能な開発目標(SDGs=エスディージーズ)への取り組みの必要性を説明する社員に、ある日本企業の経営者が発した言葉だ。もう何年もこの状況が変わっていない。

↑の引用のように、その阻害は「もうけ」との背反です。なかには「SDGs」は業績を下げる「敵」とすら捉えられている企業もある気がします。

「また1つ余計なコストが増えた」というのが、ほとんどの日本企業の本音ではないか。
確かに、持続可能な条件を満たしながら開発を進めるには、しかるべきコストが必要となる。その分、利益は減ると考えるのが普通だろう。冒頭の経営者の発言の背景には、こうした裏事情がある。日本では「SDGsで社会貢献する」などと声高に叫ぶと、「なにをきれい事を言っているのか」と、うさん臭く見られてしまう傾向すらあるほどだ。


先日のジェンダーギャップに関する記事の反響もあり、ダイバーシティについて企業から意見を求められることも増えたのですが、そこでも同じような葛藤を抱える企業が多い印象です。「女性を起用していかなければならないのはわかっているが、それで業績があがるのか?業績がさがったらどうする?」そういう不安のために、変革に踏み出せない企業が多いのです。


僕は企業や事業である以上、お金は大事だよーとおもっているので、SDGsがそれを「犠牲」にすべきとはおもっていません。SDGsが倫理的な目標にすぎず利益と相反するなら、それはただのお題目になってしまいます。

企業にとって「利益」は「血液」であり、大事なものです。しかし、血液がそうであるようにその量は多ければ多いほどいい、というものではありません。利益よりも売上の規模が重視されたり、前年比でどこまでも大きくなり続けないと評価されない、という企業がまだまだ多いのですが、それは前世紀的な価値観だと思うのです。

これは本当に呪縛です。企業では「増収増益の右肩上がりの計画」しか許されない、というところが本当に多い。

その結果、大きくなり続ける、という手段が目的と取り違えられ、某社や某生命のように粉飾決算や販売の不正も起こってしまっています。

そもそも、多くの企業が毎年のように新卒を採用し、社員数としても大きくなることを競っていたりしますが、図体が大きくなるから沢山のお金が必要になるわけで、無理に体を大きくした結果、首が回らなくなっているケースも多いのです。しかも人が過剰になると余計な仕事が増えます。

人の気持ちを傷つけ、ぶつかり合い、足を踏むのは、混んでいるからである。十分な空間があればぶつからない。人が過剰な組織では、成果は生まれず仕事ばかり増える。摩擦、神経過敏、イライラがつのる。(ドラッカー)


結果として必要以上に大きさを求めた結果、燃費の悪いアメ車みたいになっている企業も多いのです。20世紀型の事業では規模の経済が効いたため、大きくなることでコスト効率化のメリットもありました。しかしデジタルの力で、コスト効率のパラダイムは変わっています。

つまり、大きくなることで得られるメリットはすでにあまりないのに、思考停止的に「大きい方がいい」という呪縛から抜け出れていないのです。そしてメリットが少ないどころか、「大きさ」には罠もあります。


大きさの罠① 小さいものの消失

先日、とても感銘を受けたnoteがありました。ぜひ読んでみてください。

行動力と筆力に唸らされますが、この中に、「私がインド高校留学を決めた8の理由」というのがあり、

⑦差別される立場に立ってみたかった🚺

ということばが出てきます。

こういう発想を持てることにとても感銘を受けました。あるいは、小川淳也さんのこんな言葉。

「何事もゼロか100じゃないんですよ。何事も51対49。でも出てきた結論は、ゼロか100に見えるんですよ。51対49で決まってることが。政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま」


2人の言葉は「大きさ」の罠について教えてくれます。それは、「小さいものが見えなくなる」あるいは「小さいものが無かったことになる」という罠です。

企業でもそうですが、大きくなると「自分たちだけが世界である」という幻想に取り憑かれます。望月の欠けたることもないんじゃねえ?とか思うし、おれらの身内にあらずんば人じゃなくねえ?みたいなことを思っちゃうのです。

「大きさ」の幻想に取り憑かれると、大きいものだけが存在として肯定され、少数派は透明になり見えなくなるか、ノイズにみえてしまう。その結果どうなるかというと粛清か取り込みが起こります。「大きい人」の論理だけが「正」とされ、それ以外は「異分子」として排除されるか、洗脳・上書き・同化され、「小さいもの」は消失するのです。

ウイグルなど今でも世界では現に起こっていることですが、「反対する人は異動してもらう」とか「反対する企業には予算を配分しない」という言葉がトップから発せられている国もなかなか危ないよなあ、と思います。

なぜこういうことが是とされるかというと、小さいものを排除すると摩擦が減り、実行が効率化するからです。多様性とは摩擦を受け入れることですが、それをなくし「単一化」することに小さな合理性があるのです。しかし、それは一方向に鉄を研いでいくようなもので、刺しやすくはなりますがしなやかさを欠き、折れやすくなります。あの全体主義のように、このような同質化は盲信へといたり、しばしば大きな事故を起こします。


大きさの罠② 争いによる消耗

また、大きさを求め続けることは、争いを増やし、自分自身をも疲弊させます。豊臣秀吉は天下統一を成し遂げましたが、それに足らずその手を朝鮮まで広げようとし、結果として疲弊し、失脚してしまいました。

企業でもシェアの奪い合いのために、本来の価値提供には全く関係ないところで消耗戦が行われていることが実はたくさんあります。

「大きさ」を基準にしている企業には特徴として「新規」のKPIに重きをおく傾向があります。すると、たとえば新規契約者にだけ大きな値引きインセンティブをつけ、結果として一度他社に契約を切り替えて再契約して戻ると得をする、というようなことになる。これはよくよく考えると、一回チャーンアウトして売上も減るし、インセンティブの費用の分利益が減っているわけですが、「新規」としては+1になる、ということで、まったく本来的ではない消耗戦です。

企業は本来、その企業だけが社会に提供できるユニークバリューを果たすべきと僕は考えていますが、どこまでも大きくなろうとするとユニークバリューをはみ出し、他社の領地まで攻め込むしかなくなります。結果としてメディアアプリがほとんどクーポンアプリになっていたりして、ユーザー数は伸びるかもしれませんが、それは果たして本来の価値提供といえるのでしょうか。


大きさの罠③ 資源の消費

また、大きさを求めつづけると、どこかで生み出す価値よりも破壊する方が大きくなります。地球そのものもそうですが、資源というのは有限です。そこに住む人がどこまでも大きくなろうとしたらどうなるか?あたりまえですが、資源はなくなってしまいます。

本当を言えば、資源は有限とはいっても、減る一方というわけではありません。石油資源でも森林資源でもそうですが、生まれ、増え、溜まっていくものです。しかしそれには時間がかかる。「大きさ」至上主義はそれを待てずに出来た分を全て刈ってしまうので、資源は減っていく一方です。

農業や水産業に携わる方は「これ以上は採らない」というルールを定めています。それ以上を求めると、自分たちの将来の事業を死なせてしまうことを知っているからです。ある程度まで大きくなったら、ここからは大きくならない、と決め、自己の成長よりも資源が育つことを見守り、助けるのです。


「大きさ」がサステナブルを断ち切る

以上、「大きさ」を求める社会のあり方は一見「大きく」なっているようだけれども実は価値の増大ではなく、「消失」「消耗」「消費」によって沢山のものをなくしていることをみました。それは犠牲の上につくられた「はりぼての成長」なのです。


そしてそこで犠牲になり、しわ寄せを受けるのは「弱くて声の小さいもの」です。

こういう話をすると「弱肉強食だろ」「弱いものが淘汰されるのは自然道理」という声があがりますが、それは明確に間違っています。

たとえば赤ちゃんはとても小さく弱い存在ですが、淘汰されていいものでしょうか?未来はつねにその時点においてはか弱いのです。強いものが残ればいい、という論理で小さいものが消えていくことは、未来を淘汰してしまうことになります。

(下記はコロナ禍以降の自殺者に20歳未満の女性が多い、というデータです。このデータは、「大きさ」を重視する社会の中で、現状では「若い人」そして「女性」が社会的に弱者であり、そこにしわ寄せが起こっていることを示していると思います)


未来はか弱く小さい。「大きさ」だけを求めるとそれを殺してしまう。

これが「大きさ」至上主義が「サステナブル」を断ち切り、その阻害になると僕が考える理由です。SDGsには環境に関することだけでなく、ダイバーシティや平等に関する目標もたくさんあります。

1.貧困をなくそう
2.飢餓をゼロに
3.すべての人に健康と福祉を
4.質の高い教育をみんなに
5.ジェンダー平等を実現しよう
6.安全な水とトイレを世界中に
7.エネルギーをみんなに、そしてクリーンに
8.働きがいも経済成長も
9.産業と技術革新の基盤をつくろう
10.人や国の不平等をなくそう
11.住み続けられるまちづくりを
12.つくる責任、つかう責任
13.気候変動に具体的な対策を
14.海の豊かさを守ろう
15.陸の豊かさも守ろう
16.平和と公正をすべての人に
17.パートナーシップで目標を達成しよう

なぜ、環境の項目と同列にジェンダー平等や対差別の目標があるのでしょうか?これらの項目は「これまで大きさの犠牲になってきたもの」を守るためのものであり、小さく弱い「未来の赤ちゃん」なのです。それが潰えることなく育つことが「持続的な社会」につながるのです。


とはいえ、僕は「成長」がわるいことだとは思ってはいません。成長は大事です。しかしもっと大事なのは、その年齢を知ることです。

事業は生き物です。成長期には大きくなることも大事で、いつまでも赤ちゃんでいていいわけではありません。しかし、何歳になっても身体の大きさを競っていても仕方がないのです。

しかし、グローバル企業ではたとえば「アジア」とくくられた時に日本と他のアジア諸国を同列のKPIで評価していたりする。これらの市場の年齢は明確にちがいます。日本市場は「大きさ」勝負ではないフェーズにはいっているのです。

成長そのものを目標にすることはまちがいである。大きくなること自体に価値はない。良い企業になることが正しい目標である。成長そのものは虚栄でしかない。(ドラッカー)
多くの企業は適切な規模を知らない。規模にふさわしい戦略や構造については、さらに知らない。事実、成果と業績に関係のない分野で、費用のかかるスタッフを抱えている小企業は多い。あまり意味のない活動、製品、市場に自らの資源を投入している中企業も多い。トップマネジメントが自社を幸せな一家と錯覚している大企業も多い。企業は自らの規模を知らなければならない。同時に、その規模が適切か不適切かを知らなければならない。(ドラッカー)


「企業は自らの規模を知らなければならない。同時に、その規模が適切か不適切かを知らなければならない。」

身体の大きさというのはそもそも人それぞれちがいます。「でかいほうがいい」わけではありません。それぞれの企業で、またそのフェーズによって、適切な規模は異なります。自らの「適切な規模」を知ること、これはこれからの企業にとって非常に重要な問いだと思います。どれだけの企業人が「この企業はどこまで大きくなり、どこからは大きくならないのか」について明確に答えられるでしょうか。

SDGsの根本的な思想は「共存共栄」です。しかしそれを掛け声にしつつ、「大きさ」に相変わらず取り憑かれたまま「消失」「消耗」「消費」をし続けている企業がまだまだ多い。

これからの経営には、「大きさ」の呪縛を手放し「規模」を適切にマネジメントしていくことがこれまで以上に求められてくるのではないでしょうか。

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