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「子どもらしさ」がゆさぶる性差の概念ーGUCCI Fall2020 Men

こんにちは、臼井隆志です。ワークショップデザインやファシリテーションの仕事をしています。COMEMOでは、教育やアートについて投稿していきます。

さて、今日はファッションの話を書こうと思います。

といっても、ぼくはいわゆるファッションや自分の服装への意識が高いわけではありません。むしろファッションには苦手意識があります。

サイズが合わないと嫌だからネットでうまく服も買えないし、「これだ!」と思う服に出会うまでものすごく時間がかかるという苦痛もあり、素朴に服を楽しむことができません。

ですが、ひとたび「これだ!」と思える服に出会うと、とても嬉しい気持ちになります。また、ファッションに関わる人たちが生み出すムードによって時代が作られていることへの、深いリスペクトもあります。

そんなスタンスで、時々YouTubeでファッションショーの映像を眺めたり、VOGUEやWWDといったウェブメディアでいくつか気になるブランドのルックを眺めたりしています。その中で、先日行われたGUCCIのFall 2020のショーに深い感銘を受けました。

今日はこのGUCCIの服が持つ意味について、ファッションの素人なりに考えてみたいと思います。

GUCCIのショーで対話型鑑賞

みなさんは、GUCCIと聞いてどんなイメージを思い浮かべますか?ルイヴィトンやプラダと並ぶ、ラグジュアリーの象徴であると感じるでしょうか。ぼくはそんなステレオタイプとともに、GUCCIのロゴと財布ぐらいしか思い浮かびませんでした。

しかし、今回のショーの写真をみて、今のGUCCIがつくろうとしている世界のムードを感じ、それまでのイメージは一変しました。

まず、今回のショーの写真をみてください。

こちらのサイトから、1枚一枚フリックして見ることができます。全部で59枚写真があります。できれば一枚ずつ、じっくり見てみてください。

みました?

みていてどんな気持ちになりました?どんな気づきや考えが頭に浮かびましたか?

そして、それらの気づきや考えは、服やモデルのどんな様子から思い浮かんだものでしょうか?

自分自身に問いかけ、自分の頭の中で対話しながら、もしよければもう一度見てみてください。

いかがでしょう。

装いを見ることから生まれる戸惑い

ぼくは、このショーを見ていて、まず戸惑いました。

なぜなら、これが「メンズ」なのか「レディース」なのかがよくわからないからです。スカートも出てくれば、女性のような髪型をしていたり、ワンピースやスカーフなど、女性が身につける(と思い込んでいた)アイテムが次々と出てきます。

でも、「ただ女性の服を男性が着ているんだな」という感想だけでは終わりませんでした。写真をみながら「あ、これだったらありかも」という気持ちで見ている時もありました。

「あり」というのは「自分でも着られる/着てみたい」という意味です。

ただし、それは「女性装をしてみたい」という願望とはちがいます。「男性らしい服装」なるものから開放されていく感覚への期待です。

ゆさぶられる潜在意識

個人的な話ですが、ぼくは「男性らしさを装いたい」という願望が乏しく、シュッとした服装よりも、こっそり丸く、ファニーな装いがいいと思っていつも服を選んでいます。

ただ、服を買うことにそんなに熱心になれず、必要に駆られて「まあこれならいいや」と手軽に手にとれる服を買う、というのが日常で、だからなんとなくファッションが苦痛で退屈なのです。

しかし、GUCCIのコレクションから感じたのは、そんなぼくのこそこそした願望がくすぐられる感覚でした。

たとえるなら、まるで服の下から手を入れられて肌を直接くすぐられるような気持ちよさと不快感の混在です。これまで「男性らしさ」を逸脱しないように装っていたぼくの意識の内側に深く入り込んでゆさぶるような、つよい体験でした。

「男性/女性らしさ」を超える未来

もしかしたら、ぼくと似たような感じで「男性/女性らしさ」の身振りを求められて、真綿で首を絞められるような緩やかな苦痛・退屈を感じている人は少なくないのかもしれません。

GUCCIのコレクションからは、性差を超越したより自由で混沌とした魅惑的な未来を予感します。

主に女性に向けられたファッション誌でも「男性らしさ」を取り入れた「ジェンダーレスファッション」が流行して久しいです。一方、フェミニズムへの内省から生まれた「男性学」が周知されてきていることや、性自認も性愛対象も男性だが、装いが女性に近い「トランス・ヴェスタイト」といった言葉の流通も、時代感をつくっているといえます。

こうした潮流のなかで、装いとして新たな自由を提示したGUCCIおよびクリエイティブディレクターのアレッサンドロ・ミケーレの手捌きには、感動を禁じ得ません。

「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」というのは科学者アラン・ケイの言葉ですが、ファッションの世界ではまさにその発明が日々行われているんだと感じます。

創造性を下支えする「子どもらしさ」

もう一つ、今回のファッションショーを見て感動したことがあります。それは、このショーのコンセプトには「男性/女性らしさを超越する」ということではなく、「子どもらしさ」があったことです。

YouTubeでショーの映像を探してみてみると、タイトル「Gucci Fall Winter 2020 men's collection」が、子どもの字のような書体で現れます。さらに、砂の上を大きな振り子が揺れています。まるで、子どもの遊び場である砂場に時が戻った夢を見るかのようです。

モデルの装いは、大きすぎる親の服をきたり、小さすぎる子どもの服を大きくなっても着ているような、子どもらしさを感じます。子どものおもちゃの缶のようなバッグや、伝統的なGUCCIのバッグの上にプリントされた"FAKE"の文字からは、玩具性を感じます。

Instagramでは、招待状の封があけられる映像が公開され「あなたは私の5歳の誕生日パーティーに招待されました」とあります。

ぼくたちが子どもの頃、多くの人が大人の服を着てみたいと思ってみたり、年齢にそぐわなくなっても愛着あるものを持ち続けたりしたことがあるでしょう。instagramの投稿からは、GUCCIが子どものこっそりした欲求やこだわりを模倣したことで、今回の性差を超えたコレクションを創造したのだと思わせます。

ぼくたちはやっぱり、子どもから学べることがある。この確信がぼくの心を震わせました。

着替えと対話のワークショップ

最後にもうひとつだけ付け加えさせてください。このショーがぼくに与えたインスピレーションは、「これらの服を着てみて、対話するワークショップをしてみたい」というものでした。

「ジェンダーレス」として設えられた服たちに袖を通してみて、自分が考えていた「らしさ」がゆさぶられる体験をします。そのゆさぶりや戸惑いの体験を振り返りながら、自分が選んでいる「らしさ」について、改めて考え語り合ってみるような、いわば「着替え」と「対話」のワークショップです。

ジェンダーについてのバイアスは、ぼくたちがわかりやすく抱いている「思い込み」であると言えます。そのバイアスをゆさぶり、戸惑い、葛藤しながら新しい意味を模索するような場がつくれたら、思い込みを外して世界を見つめ直すことの魅力と困難さに出会うことができそうだなと思っています。

Text:臼井隆志

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臼井 隆志|Art Educator
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