強者のバイアスによるコンサバ全体主義の危険
お疲れさまです。uni'que若宮です。
すでに5本もCOMEMOを書いているので今月はのんびりするつもりだったのですが、ちょっと↓の荒川和久さんの投稿を読み、思うところがありまして書くことにしました。
いわゆる「反論ポスト」ですので、荒川さんの記事を読まれたことがない方は、リンク先のプレジデントの記事も含めてご一読ください。
荒川さんとは実際にお会いしたことはないのですが、同じ日経COMEMOのキーオピニオンリーダーとして何度か記事を拝読しています。荒川さんのオピニオンは他にはない視点で書かれていて好きなのですが、ちょっとどうにもこの記事はミスリードであり、アンコンシャス・バイアスを強化し、女性活躍に関する議論を捻じ曲げてしまう危険性があるとおもったので、以下に反論をしたいと思います。
ただし、これは荒川さん個人への批判ではなく、その意見に潜む「見えざる不平等」や「アンコンシャス・バイアス」について指摘する意図です。この記事を読んで共感された方も反感を持たれた方も、ぜひ個人攻撃ではなく自分たちが参加している日本社会の問題として議論やアクションを考えていただけたらうれしいです。
荒川さんの主張を認める点
まず、僕は荒川さんの主張の以下の点については異論ありません。
1)WEFの「ジェンダーギャップ指数」には評価方法に問題があり、こればかりを短絡的に取り沙汰するのはおかしい
2)少子化や出生率の低下など、何でもかんでも男女格差のせいにするのはおかしい
3)「家事」を価値が低いことのようにいうのはおかしい
まず、僕もGGI指数については改善が必要だと考えており、総合順位で短絡的に一喜一憂してもしょうがない、というのは同意です。
また、「ジェンダー」の問題はその論争的性格と原理主義的な対立構造から、ほとんど関係ない問題まで「諸悪の根源」のように無理に結び付けられたり、ほとんど代理戦争のネタにされているところもあるとも感じます。そうした行き過ぎた議論はかえってジェンダーギャップの議論を本質から逸れてしまっていて、残念に感じることがあるのも事実です。
女性がもっとのびのび仕事をできてもよい、というのはよいですが、原理主義が高じて「仕事を持っている女性が専業主婦をバカにするのも当たり前」というように(これを投稿したのが女性か男性かはわかりませんが)かえって対女性の差別にさえ陥ってしまうのはあまりにも残念です。
上記荒川さんの指摘はもっともであると思うものの、以下の点はミスリードだと思うので反論いたします。
反論1)男女格差の分析がバイアス的であり、実際の格差が「見えないもの」にされている点
荒川さんはプレジデントの元記事で「男女格差が本当に存在するのか」という検証として平成29年就業構造基本調査のデータに当たり、独自に集計までされています。
既婚女性は非正規労働比率が高いため、総数で見ると女性の賃金が低くなってしまうのは当然です。一概にあのデータをもって男女で賃金格差があると言えるでしょうか?
この疑問に答えるべく荒川さんは、男女のうち「正規」で「未婚」の労働者の所得のみを抽出して比較し、ほぼ所得にちがいがないことを示し、結論として「男女には絶対的な所得格差があるわけではな」いと言います。
しかし、これはかなりミスリードというか、アンフェアな分析だと考えます。その理由を述べます。
まず、
・「正規」に限ることで生存者バイアスに陥り、こぼれ落ちた人が見えなくなる。
という問題があると思います。
同調査のデータによると、15-69歳の労働人口はざっくり8,500万人、うち有職者数は6,000万人なので、有職率は約70%です。
この中の男女の内訳を見ると、男性では4,300万人中3,500万人で約80%に対し、女性では4,300万人中2,700万人で65%です。
さらにこのうち、男性の3,000万人が被雇用者ですが、うち「正規」は2,300万人、「非正規」は700万人しかいません。一方女性では2,600万人が被雇用者ですが、「正規」は1,100万人にすぎず、1,500万人が「非正規」です。
各性別の労働人口はほぼ等しいのですが、そのうち男性の「正規」が50%以上いるのに対し、女性は労働人口の25%程度しかいません。「正規」だけのデータだけをもって比較して「平等」といっても、その時点ですでに女性の労働人口の4分の3が切り捨てられた比較になってしまっています。
コロナ禍の影響でも特に女性の貧困が問題になっていますが、「正規」になるハードルは男女で相当なちがいがあるのです。女性のうち、「正規」になることができた人はある意味で”格差を乗り越えた人たち”であり、この人達同士の所得を比べて「男女格差はない」というのは、生き残った人だけを分析する典型的な生存者バイアスではないでしょうか。
さらに、荒川さんの分析では(「条件をそろえてみると」、という理由で)「未婚」に限っていますが
・「未婚」というごく一部の比較に限ることで、男女間の条件の非対称性が抜け落ちてしまっている
という問題もあると思います。
荒川さんは「50代の未婚」で比較していますのでその年代のデータでみてみると、50代における未婚男女は
有職者のたった1割程度にすぎません。これをもって「男女平等」を代表させるのはちょっと無理があると思います。また、「未婚男女」同士ではたしかに就労環境もあまり変わらないかもしれませんが、家事や育児の負担が大きく男女で偏っている今の日本ではむしろ男女格差が大きくなるのはむしろ「既婚男女」の方です。
未婚の男女のみを比べて男女格差がない、とするのは、差分が少ないところを選んで比較しているため、ここでも格差の実態が消えてしまうのではないでしょうか。
まとめると、
荒川さんの分析では「正社員」に限ることで、その手前でふるいがかけられてしまっている男女の格差が抜け、さらに「未婚」に限ることで結婚による男女間の影響の非対称性が消え、一部の特殊なセグメントのみの比較しかできていない
と考えます。
これはたとえるなら、日本における外国人の就労格差を調べよう!といって、まず正社員として就職できている外国人だけを抽出し、中でも外資系企業のような国籍のちがいによる仕事影響がすくないセグメントだけに限って比較するようなものではないでしょうか?
たしかに「外資系企業の正社員」だけで比べれば在日外国人の年収はあまり変わらないかもしれません(むしろ多いかもしれません)しかしそれをもって、だから日本の中では外国人への差別や格差はない、といえるでしょうか?
反論2)多数性をもって正当性を主張している点
荒川さんは、ヤフコメに賛同と共感が多いことをご自身の記事の正当性の裏付けとして挙げています。
どうした?ヤフコメ。らしくないじゃないか、と言いたくなるほど今回は賛同及び共感の声が寄せられています。
人は賛同や共感した時はあまりコメントをするという行動はとりません。何かを書くという行動の原動力は大抵不快な感情です。そして、その不快さが大きければ大きいほど長文の否定文になります。なので普通は、否定的なコメントが並んで当然なのですが、珍しいこともあるものです。
しかし僕は、これこそ危ういのではないか、と思うのです。「多数性」=「正」という考え方では、ダイバーシティの議論はできません。なんとなれば、そこでまさにマイノリティの苦しい声が切り捨てられてしまうからです。
大勢が賛同・共感するオピニオンが正しいのであれば、どこまでいっても少数派の意見は「間違っている」ということにされてしまいます。ジェンダーやダイバーシティの問題は多数の賛同があるから「正しい」のではなくむしろ逆で、少数の苦しみに耳を澄ますことこそが重要ではないでしょうか?
例の選択的夫婦別姓についての議論も同様の構図だと感じます。合憲違憲判断でも違憲が少数派であればおおむね合憲、とされてしまう。「困っていない」人が多数だから合理性がある、変えなくていい、という評価は、実際に苦しんでいる人々の声を圧殺してしまいます。
「民主主義」を多数決主義としてしまうと、強者やマジョリティが非常に有利であり、マイノリティの権利や環境の改善機会を潰してしまいます。小川議員がいうように、多数派は「勝てば官軍」と謳歌するのではなく、勝ったときこそ少数派を切り捨てずにすくい取るべきものだと思うのです。
政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま
さらにいえば、ヤフコメは「賛同及び共感の声」ばかり、とのことですが、賛同コメントをしている人の属性に偏りはないのでしょうか。働きたくても仕事を断念していたり、能力を十分に発揮できない状況に追い込まれている女性の当事者の声はどれだけ含まれているのでしょう。
人は賛同や共感した時はあまりコメントをするという行動はとりません。何かを書くという行動の原動力は大抵不快な感情です。そして、その不快さが大きければ大きいほど長文の否定文になります。なので普通は、否定的なコメントが並んで当然なのですが、珍しいこともあるものです。
といいますが、本当にそうでしょうか?セクハラもパワハラも「いやだったら言うはず」という強者側の考えがどれだけの声を殺してきたでしょうか?人は「大義名分」というきっかけさえもらえれば賛同や共感でもめちゃくちゃ気軽にコメントします。むしろSNSでの吊し上げやリンチのほとんどが賛同や共感で成り立っている気すらします。
反論3)「全体主義」という言葉を使っている点
最後に、僕が最も反論したい点です。
それは、こうしたマイノリティの権利や環境の改善を求める対する声に対し、「ポリコレ全体主義」というレッテルを貼ったことです。
2)で述べたように、マイノリティーやその苦しみに対する訴えこそ、丁寧に扱わなければ気をつけていなければすぐに消されがちな繊細なものです。
荒川さんはおそらく「男女格差はいけない」を押し付ける、さらには「女性も仕事するのが正義」を押し付ける、一部のアクティビストを指して「全体主義」という言葉を使っていらっしゃるのでしょう。僕も、「専業主婦は不幸」と決めつけ見下したり「女性はすべて働くべき」と主張するのはちがうと思いますし、荒川さんのいう
夫婦それぞれいろんな事情と価値観と合意に基づいた役割分担を、なぜ統一的な枠にはめたがるのか
という意見には同意します。
ただ、「夫婦それぞれいろんな事情と価値観と合意に基づいた役割分担」が担保されているのか、というとそれは疑問です。
「性的同意」だってそうですが、現状では圧倒的に男女「それぞれ」の「合意」には非対称性があるのです。女性と男性がともに自身の希望を十全に伝え合って、個人同士の判断の上で、役割分担を決められているでしょうか?制度や社会通念、親や家族の圧力によって、「本当はそうしたくはないけれども仕方なく役割分担させられている」ということはないのでしょうか?
少なくとも僕は、夫婦別姓ですら「選択的」ではなく「強制的」な日本ではまだまだ自由に「それぞれ」がやりたいことを選べているとは思いません。
サッカーのチームで夫が点を取るフォワードだからと、自分もフォワードをやっていたら、チームは機能しません。片方が選手なら、片方はマネジメント側として支えるという視点もあります。平等ではなく、支え、支えられという対等の関係性が夫婦にとっては大事で、それは個々の夫婦がそれぞれ築き上げればよい話だと思います。
これは、一見正論に思えます。しかしそれは自分が「選べる立場」にいるから「自由選択」のように思っているだけだったりしませんか?姓を変えることを強いられたり、仕事をやめることを強いられたりした時、うん、チームだから、と言えますか?そもそも「点を取るフォワード」は「夫」という例えにバイアスがないでしょうか?
生まれたときから君はDFしか無理。君はマネージャーね、と一方的に決められることを「チーム」の「支え合い」や「平等」として求めるのは、それこそ「全体主義」ではないでしょうか?
全体主義(ぜんたいしゅぎ、イタリア語: totalitarismo、英語: totalitarianism)とは、政府に反対する政党の存在を認めず、また個人が政府に異を唱えることを禁ずる思想または政治体制の1つである。(wikipediaより)
強者や多数者が、少数者に異を唱える機会を与えずに、自分たちにとって都合がいいように従わせることこそが「全体主義」です。現状その権利をもたず抑圧されているマイノリティーが選択肢を求めるために声をあげることを「全体主義」と呼ぶのはこれはやはりおかしいと思うのです。
まとめ:
今回、特定の方への一方的な「反論」記事を書くべきか、正直迷いました。冒頭でいったように荒川さんの指摘は半分くらいはその通りだとも思いますし、荒川さんが「専業主婦」の価値を尊重しており、キャリア女性がマウントや自分たちの価値観をおしつけたり侮蔑することへのお怒りもあるのだと思います。
しかし、それでも、自由な選択肢がとれず困っている当事者が訴える声に「全体主義」のレッテルを貼るのはどうしても間違っていると思いますし、もともと小さな声をさらに聞こえないものにしてしまいます。
再三申し上げますが、ダイバーシティのほとんどの問題は、「見えざる不平等」や「アンコンシャス・バイアス」によるのだという感を強くしています。「差別ではなく区別」といって現状肯定したり、森さんの発言やマスメディアにみるような「なにが問題なの?」という反応もそうですが、問題なのは、本人が本心から「差別をしていないと思い込んでいる」ことなのです。無意識だからこそ根が深い。
荒川さんはデータを分析し論を張るスキルもお持ちで、社会的に大きな影響力もあり、そして何よりも自分の選択ができる「強者」です。そうした強者の声には「賛同及び共感の声」が多数寄せられます。
一方女性にはまだまだ、(職場でも飲み会の場でも、下手したら家庭ですら)自分の本当の意見が言えない方も多くいらっしゃいます。そして勇気を出してちょっと意見をするだけで「フェミが!」とたくさんの罵声じみたクソリプが飛んでくるのです。
こうしたことを書くと、「弱いものの味方とか正義のヒーロー気取りか」とか「モテたいからだろ」というような意見もいただきます。しかし逆に聞きたい。どうしてこんなに発信しているのにもっとモテないの??!これだけヒーロ―気取ってもモテないのは何故なの??!じゃあもう、どうやったらモテるんですか!ねえ!
取り乱しましたがとにかく、こうして反論を男性が男性にすることの意味もあるとこの一年で感じたので書きました。なにより我が家には娘がいて、20年くらい経った時の未来のために、いまを再生産したくないな、と思う。
そのためなら、モテなくたっていい。(太字でアピール)
荒川さんと同じく、僕は「全体主義」が嫌いです。「全体主義」とは強者によって行われる思想や言論の粛清です。そして「全体主義」は悪意ではなく、ほとんど「無意識のバイアス」によって起こります。それほどに見えないものや価値観の死角に気づくことは難しいのです。
それと闘うということは、(強者に生まれたのも偶然ではあるのですが)「社会的強者の側」がつねに自分の偏見や非対称性に気をつけ、「小さな声」や「声なき声」を聴く想像力を持ち続けようとすることなのではないでしょうか。