日本は「待ちぼうけの歌」状態
「日本は戦後、猛烈に働いて急速な経済成長を遂げた。本来は危機的状況における臨時措置だったはずだが、短期間に富をもたらしたことで普通の働き方として定着してしまった。画一的な商品を安価で実現するにはこの働き方は理にかなう」(宮嶋勲氏)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27849760Y8A300C1SHE000/
この働き方は、今は時代に合わなくなったのに、成功体験が抜けなくなっているのが、日本の今の姿である。国民全体が、一種の生活習慣病にかかって、ガンになりかけている状態である。
一律のルールを決めて、これを厳密に守る。どんなにコストをかけても、ルールを守ることを優先する。
先週、新車を買ったのだが、納車まで短期間、車をリースすることにした。そこで保険の担当者から、保険の新規契約が必要で、高額の負担が必要だという。長年事故も起こしていない私が、車を変えるだけなのに、車種変更ではだめだという。ディーラーと保険屋と私と何度も電話やメールをやりとりしたあげく、リース契約を一年にして、新車の納車時に、契約を途中終了すれば、新規契約はいらないという。そういうルールだという。
まさにこれは人々がルールの奴隷になって、何も生産しないルールを守るだけの仕事にコストをかけている状況である。日本ではこんなことばかりやっているので、当然生産性があがらないわけである。標準化された画一的なことを繰り返す時代にはうまくいったやりかたを、複雑な状況や多様性が必要な時代に今でもつかっているのである。
これは「待ちぼうけのうた」を思い出させる(北原白秋作詞)。木の根っこでウサギが転んでしとめたことをみて、いつまでもウサギが転ぶのを待つ人の愚かさが歌われている。
待ちぼうけ、待ちぼうけ ある日せっせと、野良稼ぎ そこに兔がとんで出て ころりころげた 木の根っこ
待ちぼうけ、待ちぼうけ しめた。これから寝て待とうか 待てば獲物が驅けてくる 兔ぶつかれ、木のねっこ
特定の状況でうまくいったことを普遍的なことと勘違いして、やりつづけることは愚かである。今の日本は、大量生産時代にうまくいったことを普遍的に正しいことと勘違いしているおろかな状況になっている。そこに「モノづくり」を神聖化する見方などの様々な病気が併発している。昨日、多数の企業の役員があつまる場講演した。「標準化と横展開は良いことだと思いますか」と問いかけるとほぼ全員が手を挙げた。標準化は人を思考停止にし、柔軟な対応をできなくするという負の側面にほとんどの人が気づいていない。このイタリアと比較する本記事も参考に、日本は「ルールへの信仰」や「標準化と横展開への信仰」から解放されて、柔軟性や多様性へと視点を大きく変えなければならない。
人工知能は実はこのルールに頼らず、データと目的により柔軟な判断を可能にするものである。このままでは、杓子定規なルールにこだわらない海外勢が人工知能を武器に、時代遅れなルールにしがみついている日本の産業界を破壊していくことになることが懸念される。このためには、本稿で論じているような本質的な「働き方改革」の議論が必要だ。
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