危機を生き延びるために~変化に対して鋭敏な勘を働かせよう
ぼくが日本からヨーロッパに初めて旅行したのは1979年でした。大韓航空で東京ーソウルーアンカレッジ経由でパリに飛びました。アンカレッジから北極圏の上空を経てパリに着き、旧ソ連領空に入ることはありませんでした。この時の航空券は、欧州系航空会社の日本支社に勤める叔父のアドバイスで購入したのですが、そのアドバイスの言葉をよく覚えています。
「大韓航空は殆ど重大な事故を起こしたことがないんだよ。戦闘機を操縦してきた人がパイロットだから腕は確かだ」
自分に無縁だと思っていた政治的な理由で、誰でも人の命は危険に晒される
それから4年後に、ぼくはあらたな現実を知ります。
上の記事にあるように、1983年、大韓航空の旅客機が旧ソ連の上空でソ連の戦闘機によって撃ち落されました。空が政治的な理由で命を危うくする危険な場所であると認識せざるを得なくなった最初の経験です。パイロットの腕ではどうしようもできないことがあったのです。1991年初めの湾岸戦争も同様に「空は自由な場所でない」ことを想起させるに十分であったし、例えば今も、東南アジアから日本に向かう飛行機が北朝鮮の手前で大きな角度で南下するルートをとる時、「これが現実なんだよなあ」と思います。
先日の日曜日、アテネからリトアニアに向かっていた旅客機を反体制活動家のロマン・プロタセビッチ氏とその交際相手を拘束するため、ベラルーシ当局が強制的に首都のミンスクに着陸されたとの第一報を読んだとき、ぞっとしました。FTのジャーナリストが以下に書いている通りに、ぞっとしたのです。民間旅客機のパイロットが戦闘機の経験があるからといって、戦闘機に歯向かうことなんてありえないわけです。
政府に脅されたパイロットがやれるものならやってみろと居直って乗客乗員の命を危険にさらすことなど常識的には考えられない。だからこそベラルーシの事件は極めて深刻だ。どの国の領空を飛んでもその政府から拘束・殺害される危険に遭遇せず、世界中を自由に往来できるという社会通念を覆すことになるからだ。
素材・部品不足で操業停止も出ている欧州の生産事情
さて、二つ目の話題です。
昨年のパンデミック以来、物理的な距離や障害について関心をもたざるをえない状況が続いています。人と人の間のソーシャルディスタンスをはじめ、感染状況によっては国境を超えたい人の往来が当たり前ではなくなくなってきました。昨年の前半は物流にも影響が出ました。だが、モノは大丈夫と言われたのは束の間、今も世界各地で障害が続いています。
今年に入ってからイタリアでも産業用素材・部品不足が大きな話題になっており、樹脂、金属、木材などが不足し、市場は2019年ベースに戻ったにも関わらず、メーカーで生産ができないとの声が盛んに聞こえてきます。企業によっては一カ月の半分は操業を停止せざるを得ないところまで追い込まれているというのです。
要因は複数ありますが、一つには昨年、中国の市場が世界各国に先駆けて復活したので、世界中から素材・部品が中国に集まった。その後に欧州でも回復に向かっているが、投機的な動きもあって中国に素材・部品が集中し、その流れをなかなか逆転させられないとの嘆きを欧州側の人間からも聞きます。欧州の供給メーカーの生産リズムやサイズでは需要に追いつかないのでしょうね。
そこに3月末、スエズ運河でのコンテナーが座礁する事故があり、我々がいかに物理的な制約のもとでビジネスや生活が成り立っているかが白日のもとに晒されました。自宅でアマゾンにワンクリックすることで、いかに多くの人が動き、モノが動いているのかがいや応なしに理解できたわけです。
人やモノの移動には動機があることを忘れてはいけない
三つ目の話題です。
7月23日にスタートする東京五輪について、表も裏も事情を知らないぼくが語れることは限られています。やるのかやらないのかの議論で盛り上がっているのは知っていますが・・・。それでも、来日するおよそ9万4千人に対して以下のような方針で対応すると読んで、「本気でできると思っているの?」と思わず首を傾げました。
選手や関係者ら大会で来日する人には、新型コロナの水際対策として滞在場所などに関する誓約書を提出させる方針。誓約書を順守しなかった場合、政府は国外への退去強制も辞さない構えだ。加藤勝信官房長官は17日、「違反事実や在留状況等について総合的に判断する。退去強制手続きをとることも可能だ」と強い姿勢をみせた。
実際、どのような運用がされるかわかりませんが、どれほどに人の心の動きや行動に至る動機を踏まえているのだろうかと思いました。人とはどんな理由をも作り出すことが可能な存在であり、いざとなったら、それを強硬に主張しそれを押し通すことに全力を傾ける。そうしたケースが一桁ではなく、二桁、三桁、四桁の数で押し寄せてくるとき、どうするのでしょう。ここにおいて「ちゃんと運営する」なんていう表現は、殆ど意味をなさないでしょう。
すべてが変わる時代も何も、はじめから変わらない時代などない
ちょっとやや強引なまとめです。
現代は激動の時代であるとか、変化の時代であるというフレーズがよくありますが、いつの時代も変化は常にあります。例外の連続で世界は成立していると考えるのが真っ当であり、かつ人の想い欲などポジティブであれネガティブであれ、他人にはうかがい知れぬものです(旧ソ連やベラルーシ当局のごとく)。先が読めるわけがない。
だから変化のなかで生きるしかないのです。
「変化を楽しもう!」とか、強がりなのか、あるいは格好をつけているのか不明ですが、現実を見れば変化しかないことを深く知っている人は、そんな気の抜けたセリフを言わないものです。
・・・それでも、特に変化を必要とする領域や地域が何もないわけではありません。基本的な性質として変化がすべてにおいて常態であるにも関わらず、相対的に他の変化に比べると止まってみえてしまうところが標的になります。殊に「止まっていそうにみえること」と「変化が見えること」の間に軋みが生じるとき、後者が変化のスピードを緩めることはなく、前者がスピードをあげるしか、通常、選択肢がありません。あるいは、場合によってはスピードの問題ではなく、変化の方向そのものを意識的に問わないといけないこともあります。
その時、(例えば、来日する9万4千人に及ぶ)人の気持ちや想い、または(サプライチェーンの障害にみるように)物理的な距離や物理的なものそのもの、それらがどのくらい障害として立ちはだかるのか?ということについての勘が、常に鋭敏に働いていることが望まれるわけです。言うまでもないですが、それらが障害として立ちはだかるだけでなく、状況を転換させる鍵になる場合もありますから、この勘の良さはいずれにしても磨くに励んで損はありません。
写真©Ken Anzai
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