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意思ファーストの経験を重ね続ける。それが私の勉強法。

「実践している勉強法」というお題を見た時、まず思い浮かんだのは、幼い頃、勉強がとても嫌いだったということだ。中学生くらいまでは算数や数学が好きだったが、決してそれらが勉強だと感じたことは無かった。当時は、ただただ問題を解く楽しみを満喫していたと思う。でも、答え合わせはするが、解き方をみることはなかった。大事にしていたのはスピードで、圧倒的なスピードで解く方法論を生み出すのが楽しかったのだ。今から振り返れば、自分が生み出したと思えた方法論も既に世の中には存在していたのは間違いないが。。。

高校から大学にかけては兎に角、色々なことに挑戦していた。多種多様なバイトだ。中でも印象に残っているのは、引越しと会場設営の仕事だ。肉体を酷使する仕事でとても辛いのだが、どうやって体力を温存しながら最初から最後まで活躍できるかを常に考えて作業をしていた。もちろん、気合いや集中といった類のものも鍛えていたが、合理的な方法論を同時に模索していた。例えば、激重(げきおも)なエアコン室外機の入った大きなダンボールは、ズボンのベルトに角の一つを乗せて、腰で運ぶといった具合だ。両手とベルトの3点で運ぶことで、手への負担は大きく軽減されたのを覚えている。

要は、常に何かをやる時、先にありたい姿を考えていたように思う。「その華奢な体格の割に頑張るな」なんて言葉をもらいたい。その為にはどうしたらいいかを試行錯誤しながら、実現方法を見出していたのだ。バイトの種類が多様だったので、色々なありたい姿を構想した。なるべく物に触るタッチポイントを減らす、引き継ぎに掛かる時間をゼロにする、楽しそうに辛い仕事をする、呼吸を常に整えておく。やりたいと思ったものなら何でもよかった。もちろん、簡単に実現できるものばかりでは無かった。そんな時はネットで調べたり、プロに話を聞いて、やりきろうとした。コツを見つけた時はとても嬉しかったのを覚えている。

自然科学者として論文を書いている時も同じだった。まず登場人物(論文では多数の原子や電子だったが)を洗い出して、それがどんなメカニズムを紡ぐのかを描くことから始めた。こんな実験をすればこんなメカニズムで登場人物が動く。そんなシーンを妄想しながら実験を組み立てた。まあ、合っていることも、全く外れることもあった。一見、合っていると思えたが、そのあと違うことがわかったことも沢山あった。でも、いわゆる仮説を持っていたことで、登場人物に関する解像度がどんどん上がっていくのを実感していた。

なにより面白かったのは、仮説をもって、その仮説を検索エンジンに入れて検索すると、仮説の進化が断然速い。同様な考えを持っている世の中の人に出会えるのだ。教科書を見ていても見つかることはない同類が見つかるのだ。そして、その人の仮説がどんな顛末になったかが判る時もある。また、別の仮説を持った人が、私の仮説を否定しているのが見つかることすらある。そうなったら一気に仮説の進化が進む。これまで紡いだメカニズムでは考慮できていなかったファクトがピンポイントで見つかるからだ。

経営コンサルタントになった後も基本的には同じだ。お題をもらった瞬間に答えを出す癖を磨き続けた。間違っていてもいいので常に現時点での答えを持ち、言葉にして周囲の人に伝えることに拘った。通常は、現状分析の既存フォーマットに当てはめる形で一連の調査を進め、その後、調査で集まったファクトを整理整頓して論理的な解を導き出すのだ。でも私自身はこれが大嫌いだった。答えの仮説を先に持って、それが正しいかどうかを検証する中で、現状分析の既存フォーマットを必要な分だけ埋めていく。間違ったらそれを証明したファクトを含めて答えを練り直す。何回も何回も検証して仮説を進化させる。そんなやり方を好んだ。

無謀にも思えるこのやり方だが、拘って続けていると、既存フォーマットの数々も仮説検証を効率的に進める為の武器として活用できることも分かってきた。なにより圧倒的に解に近づくのが速いこと、一緒に考えている人との連帯感が高まることが嬉しかった。「私だったらこうやりたい、これが答えだと思う」という対話を続けていると、最初は変な顔をされても、次第に引き込まれてきてくれる。逆に周囲の人が引き込まれてこない場合は解の筋が悪いことが多い。そんな解は往々にして実行に移った時に大きな問題が発生するのだ。

まあ、あまりにも奇抜に思われると先に進まないこともあったが、プロジェクトが終わってから、もしくは数年経ってから「もう一度一緒に考えて欲しい」と言われると、とんでもなく嬉しかったのを覚えている。おそらくだが、今になって当時の解を奇抜ではなく、本質の一つと捉えてくれたからだと感じている。

人はそれぞれ過ごしてきた人生の中で、異なる経験を積んできた。それが故に常識も異なる。解を見出す時に使うファクトの種類や量も異なる。誰が出した解だけが正しいということはない。それぞれの出した解はそれぞれ正しい。でも、それなりの数の人がいいねと思う解を見出すなら、自分の考えを持ち、一緒にやりたいと思う人の持つ解と付き合わせ、みんなの解に仕立てていくことが重要だ。WILLがあれば、意思があれば、熱量のあるみんなの解を見出すことができると思う。

あなたのWILLはなんですか?という日本特殊陶業・川合尊社長の記事を見つけた。WILLが溢れている若者が沢山いるではないか。こうした若者には是非これから、それぞれのWILLを具体に落としていく旅をぜひ初めて欲しい。WILL実現の具体を10個やると、WILLが近づくだけでなく、巧みな近づき方や一緒に追い求めてくれる仲間が見つかるはずだ。これは真に、主体性に満ちた勉強の旅のように思う。続ければ続けるほど、WILLに資する経験が積み重なり、抜け漏れや勘所が一瞬でわかり、解の進化のスピードが上がる。

「自分の意思のままにという"At Will"という言葉が好きだ。何事も個人の意思が尊重される仕組み、社会であってほしい」という丸紅の國分会長の言葉に、大きく賛同する。意思をもって、意思にのめり込む。そんな日常を日本に溢れさせる。ぜひとも実現したい未来だ。


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