ケン・ローチと小島秀夫から教えてもらったラストワンマイルの分断と連帯。
前回のエントリーに続いて、少し年末年始に見た映画の話を続けたいと思います。
ここ1〜2年に生まれ、話題になっている傑作が、どれも社会の分断にフォーカスを当てて何かを掬い取ろうとしているという共通点に関して深く考えざるを得ないと思っている。
そんな中、この分断を連帯に変える”つなぐ”という行為について、とある作品を見て考えされられた。これが「分断から連帯へ」という社会課題に対してMOTIONGALLERYが取り組むことが出来るのではと考えるに至った出会いであった。
次回のエントリーはそのことについて書きたいと思う。
あの映画はどこいった?
前回のエントリーで、年末年始に見たお薦め映画を列挙しましたが、
分断という並びなら、あの映画が無いとおかしいだろ!と思った人。そうなんです、その話をしないと終われないのです。
声をを大にして、見に行ってほしいと思う映画。
それは、敬愛するケン・ローチの新作『家族を想うとき』です。
去年の12月13日に公開した映画について、1ヶ月以上経った今更書いても遅すぎると恥じ入るばかりですが、嬉しいことに結構ロングランしているみたいで、まだまだ全国で上映中でした!まだ見てなくて、このエントリーを見て、観に行こうかなと思う人が1人でも増えたらとても嬉しいです。
ケン・ローチという監督の作品は近年では、この映画で知っている方も多いと思います。「小さい国家」を主導したイギリスで起きている福祉・社会保険の緊縮が、”普通”に働いて来た人をどれだけ厳しい環境に追いやる可能性があるかについて描き、カンヌ国際映画祭のパルムドールを獲得した作品です。
こう書いてしまうと、「はいはい、ヒューマニズムね」「思いやりを持てとか言うんでしょ」とか思われる人もいるかもしれませんが、実は全然そんな甘ったるい映画ではありません。もっと冷徹な眼差しでイギリス社会を切り取っています。決してありがちなヒューマニズム映画ではく、もっとグローバル社会の構造を分析している映画なので是非見てほしいです。あとイギリス人らしい皮肉も散りばめられているので意外に笑えます。
ちなみに、私のケン・ローチのオールタイム・ベストは『麦の穂をゆらす風』。
911後のアメリカの動きに対するメッセージとして、IRA(アイルランド共和軍)から見たイギリスを描くというものすごい事をやってのけた作品です。
家族を想う時間が無い!!
話を『家族を想うとき』に戻します。
年始に見て、めっちゃ暗い気持ちになりました。
もはやケン・ローチ特有のイギリス人らしい皮肉なんてものもなくなっていて、ただただ辛い現実に肉薄し、見せつけられる感じ。もっというと映画を面白くするための演出や脚色すらない気がしてくるストイックさでした。前回のエントリーで書いた、コメディアンだったジョーダン・ピール、『ハングオーバー』などのお馬鹿コメディー映画を監督してきたはずのトッド・フィリップスがもはや笑えない映画を撮り始めたのと本当に同期しているかのよう。
今回も、まずもって傑作で、そしてもう冷酷なまでに淡々といま社会を取り巻きつつある現状を示したような作品でした。
作品を見終わってまずふと思い出したのが、このニュース。
真面目に働いていたけども不慮のアクシデントで解雇された主人公が、なんとか家族の生活を守るため、若手ではない人が得られる数少ない働き口である配達事業者になるところから始まります。そこには、配達や運転などの仕事をギグ・エコノミーにすることで、企業が負担すべき様々なコストの削減を成功させている職場が待っていました。正にAMAZONやUBERによる”イノベーション”が生み出した世界。
相対している会社が雇ってくれるのではなく、自営業者として独立”させられる”主人公。仕事に必要は配送車両は会社は用意してくれないので、自分で買わなくてはいけません。(だから奥さんが職場への移動で必要だった車を売り払って現金をつくります。奥さんは職場への移動の負荷が高まり、家族はどんどんバラバラに。)リスクは自分に乗っかり、でも契約は独占契約なので会社の命令はひたすら守らなくては行けない。ノルマ未達になったら即罰金(だから不在で荷物を渡せなかったら、それだけで死活問題!)そんな働き方のなかで、もはや家族のアクシデントに対応することが、仕事の損失を拡大するという状況に追い込まれていきます・・・。
原題が本当に優れていて、『Sorry We Missed You』。
ご不在で届けられません(ごめんなさい。あえなくて)という意味になるのですが、これは、宅配業者が届け先が不在だったときに置いて置く、不在票の文言であり、そしてこの配達先が不在のため、宅配する人の業務時間が切迫して労働時間が引き伸ばさざるを得なくなり、自分の家族に対して(ごめんなさい。あえなくて)と言う状況が生まれてしまうということが現れています。
『家族を想うとき』なんて全然ないのです。家族を想って、学校に呼び出された息子のお向かいに行こうものなら即罰金になるわけです。
でもしょうがないでしょ、あなたは自営業者なんだからさ、自己責任だよ、と会社に言われて追い詰められていく主人公。もう病院にすら行けなくなっていきます・・・。
描かれているのは格差というよりも分断なのではないか
これは映画の話ではありますが、全く誇張がされていないところが、更に見ていて迫るものがあります。
それもそのはず。。
ドン・レーン(Don Lane)氏という配送会社DPD(DPDgroup)のフランチャイジーをしていた方が、糖尿病を患っていたにもかかわらず、1日休むと£150(2万円強)の罰金を支払わなくてはならないことから通院を怠り、病状を悪化させて2018年1月4日に亡くなったという、実際の事件をベースにして作られている映画なのです。
これまで、グローバルになっていくことで、格差が拡大するという警鐘が鳴らされつづけていましたが、この映画を通して現実を見つめると、格差という言葉の様な「差がある」という話ではなく、相手の事を想像しない・できない様な圧倒的に分断された立場の違いというものが生み出されている気がしてなりません。
より優秀な者が富み、生産性が低い人の給料が低い、みたいな話ではなく、
社会がデジタル化するなかで生まれるグレーゾーンにフルベットしてイノベーションを起こしたもの勝ちであり、そのイノベーションで発生する社会全体の不利益や貧困についてはまったく無視した方が勝ち。つまり「もし自分が逆の立場だったなら」という想像からの分断が起きている気がしてなりません。
トラビス・カラニック(UBER創業者)の数々のスキャンダルを観ると、そんな想いが確信に変わってしまいます。
社会の貧困や不公平の是正は国家の仕事なのに、民間企業がそれを求められるのはおかしい。そういう反論も出ると思いますし、それには私も同意見です。
しかし、「小さな国家」を標榜し、「規制緩和」を推進させ、国家の再分配機能を縮小させて企業活動の自由度を極大化させて来たわけなので、国家の持つその力を弱めた結果であることも考えなくてはいけません。
「配達」というラストワンマイルは分断の象徴
将来はロボットに置き換えられるのが運命付けられているが、まだ現時点では人でしか対応できない、配達や運転というラストワンマイルの仕事。
それは、有る意味で撤退戦の仕事であるが故に、『家族を想うとき』で描かれている様な自己責任の名の下の搾取構造までがインストールされていることに、地獄を感じざるをえませえん。
そして、私も当然、その搾取構造の中にいるわけで、恩恵も受けているわけですよね。。
そんな鬱々とした気分の中、気分転換に正月はこれをやり込むぞ!と久々にテレビゲームを買いました。その名は『デス・ストランディング』。
何故かSEGAの大ファンになり、SEGAサターンしかやっては行けないという謎ルールでゲームに没頭していた中学生だった私としては、ドリームキャストが廃止になり、SEGAがプラットフォーム事業から撤退したのを機に、ゲームは殆どしなくなってしまったのですが(どんだけSEGA好きなんだ・・・)、『シェンムー』に胸踊らせていた自分にとって、その基盤を使って製作されたと聞いた『龍が如く』はやらなくては行けない!とプレステを初めて社会人になって購入しました。
以来、『龍が如く』以外ほとんど使ってないPS。ですが数少ない例外が『メタルギアソリッド』でした。すごい世界観、すごい緊張感、と熱中しました。
『シェンムー』が発明した「オープンワールド」ゲーム。舞台となる仮想世界を自由に動き回って探索・攻略できるように設計されたこの新しいゲームジャンルを、更に拡張したゲーム。戦場で戦う兵士を操作しながら、敵から身を隠し、射殺してたおしていく内容でした。特筆すべきは自分の操作するキャラの人間性。三國無双の様に自キャラがすごく強くて敵キャラは基本怖くないみたいなのではなく、2〜3人に囲まれたらゲームオーバーになりやすいという、「弱さ」にリアリティがありました。なので敵兵を殺すゲームではありつつも、自分の命に対しても他のどのゲームよりもセンシティブになり、めっちゃ敵から隠れる事を頑張るというこれまでにない体験でした。
そんな『メタルギアソリッド』を生み出した、小島秀夫氏がいろいろ大変な目に会いながら、独立して初の作品となる『デス・ストランディング』。
しかも、このお家騒動で、中止になってしまった『サイレントヒル』の新プロジェクト『P.T.』で協働するはずだったギレルモ・デル・トロ監督、主演するはずだった俳優ノーマン・リーダス(ウオーキング・デッドのバイク姿でお馴染み)、が『デス・ストランディング』に再結集とのことで、胸熱な展開すぎてこれはやらなくては行けない!!!と奮い立ち久々にゲームを購入しました。
そしたら、なんという事でしょう。
『家族を想うとき』だけでなく、この『デス・ストランディング』も”配達”が題材であり、そしてテーマが”分断”でした。なんという偶然・・・。
荷物を運ぶって大変
『デス・ストランディング』の舞台となるのは、そう遠くない未来のアメリカ。“デス・ストランディング”と呼ばれる現象によって人々や都市は引き裂かれ、分断されてしまった世界です。
そんな中、我々がプレイするのは、主人公である配達人、サム・ポーター・ブリッジズ。アメリカ再建のために活動する組織“ブリッジズ”から、テロリストに捕らわれた次期大統領候補アメリの救出と“カイラル通信”と呼ばれる超大容量通信設備の起動を依頼される。各地に遺されたカイラル通信設備を起動させ通信をつなぐ事で、“デス・ストランディング”によってバラバラになっていた都市と都市とが再び繋がり、情報が共有しなおされ、そして支援物資の相互の運搬が可能になります。
サムは、“ブリッジズ”の指示に従って、都市や人々へ支援物資や荷物を運び、人々をつなぎながら西海岸を目指していくのです。
ただ、今回も”普通の人間”みたいに弱いサムを操作する以上、その道は平坦ではありません。
普通のゲームだったらスライムとか敵が出てくることが進路の障害なのですが、『デス・ストランディング』では、荷物の重量と歩くのが大変な起伏の激しい土地が敵になります。雪山で吹雪かれて死にそうになったり、崖から滑落して命を落としたり、ちょっとした起伏にバランスを崩して荷物を破壊してしまったり・・・。
なので、配達の際には、荷物以外にも梯子やロープといった道具も持っていけます。それらを駆使して、道なき道を進んでいきます。
人を殺してはいけません
そうやって、東から西へアメリカをつなぎ直していくと、他の敵も現れてきます。
・BTと呼ばれる幽霊のような存在
天変地異「デス・ストランディング」以降に出現するようになった。通常の人間は感知できず、サムのようなDOOMS(能力者)や、BB(ブリッジ・ベイビー)を装備した人間にのみ見える。人が見つかると接触され街一個が消滅する爆発を起こされてしまうので、普通の人は都市と都市を行き来できなくなった。アメリカが分断され続ける原因。
・ミュール
もともとはサムの様に、普通の人では移動できない都市間を移動し必要物資を届ける配達人だった人たち。しかし「自分たちの配達技術こそ世界のシステムを支えている」というプライドが、病的に肥大化し「配達依存症」に罹ってしまい、ゲーム中何度もサムの荷物を狙って襲ってくる。目に見えないBTとは違い、ミュールは目に見え、殴打や武器使用で気絶させることができる。
・テロリスト
ミュールが深化(?)してしまい、もはや荷物ではなく、荷物を運ぶ人を襲ってくるようになってしまった人々
こんな敵が荷物を運んでいると襲ってくるのです。
しかも大体大変な状況のときに・・・。
しかし、この敵との対峙のときにこのゲームの面白さが出てきます。
それは「たとえ敵であっても人を殺してはいけない」というルール。
ミュールであろうとテロリストであろうと、人を殺してしまい48時間以上経過するとBT化してしまい、世界がまた一つ分断されてしまう。そんな実利的な理由と、そしてどんな時でも人を殺しては行けないというサムの司令官の理念から、やたらと「殺しちゃだめだ!」と怒られます。
自分は1人で移動しているのに、敵はものすごい数で襲ってくる訳で、のんびりしていると自分がやられてしまうのに、間違っても殺さないようにとても丁寧に気絶させてあげなくてはいけません。楽だからと車で弾いたり、アサルトライフルに実弾を設定して撃って倒すことは厳禁です。
ゴム弾を装填しているつもりで間違って実弾で撃ってしまったときは、もうめっちゃ怒られたし、発生してしまうBT化を防ぐためにものすごく大変な思いをしました・・・。
基本的に都市と都市をつなげる事ができるのは自分だけで、人が自分しかいない様な環境をずっと荷物をもってうろうろしていて、世界には自分しかいないのではないか位な孤独を感じながらゲームをしているのにも関わらず、たまに出会う人は襲ってくるし、襲ってくる人にも丁寧な対応をしなくてはいけない・・・。
いやあああ・・・。果たして歴史上こんなゲームて今まであったでしょうか・・・?
人はつながる事で強くなるって、こういうことだったんだ。
そんな中で、もっと安全に大量に荷物を運んでアメリカをつなぎたい!と思うようになるわけですが、それを実現する手段があります。それは、インフラを建設していくこと。シムシティみたい。
国道を敷設したり、橋を建設したり、様々なインフラをつくり都市をつなげていけます。建設にはいろんな重い資材を現地に運ばなきゃいけないので、とても大変。でもインフラができるだけで、かなり楽になります。危険を犯し時間を掛けてインフラを構築するか、とっとと目の前の運搬指令をこなすか。悩ましい選択です。
そんな時、なんとそこに人との繋がりが生まれる機能が登場・・・!
本作には、直接的なマルチプレイ要素は存在しないので、相変わらず世界にはほぼ自分だけという孤独感は変わらないのですが、このインフラ建築物に関して世界中のプレイヤーと間接的に繋がる要素が取り入れられているのです。ほかのプレイヤーが使用した道具や建設した建物などが“痕跡”として自身のフィールドに表示され、利用できるようになるという新しい協力プレイの形。これ、本当に助かるんですよね。このときに生まれる感謝の念といったらありません。信じられないほどに。多分主人公が普通の人間の様に弱くて、坂道歩くだけでも緊張しながら操作しているから、橋とかハシゴとかのありがたさの重みが半端ないんですよね。
逆に、自分が使用した道具や建設した建物なども、ほかのプレイヤーのフィールドに表示されます。ここに橋を掛けておくと、他のプレイヤーにも喜ばれるかなとかそんなことも考えてプレイする様になっていきます(笑)。
ほかのプレイヤーがそれらを利用すると、“いいね”が送られてくる。こころがほっこりします。
分断した世界で、人と人がつながる事のありがたさや大切さが身に染みるゲームです。協力する事で、特に競争できたりマウンティングにつながったりしない、本当に純粋なサポートだけの協力。でもその有り難さが身に染みて、自分も人の役に立ちたいと思わされる。SNSでの繋がりで起きている諸問題やエコチェンバーの問題など、人と人が繋がることは良い事だと思ってたけどそうとも限らないのかなと思わされる様な話が昨今多いですが、そんな人への回答でもあるような気がしてしまう設計に感動。
あの松坂桃李さんのツイートに、膝を打った次第です。
自分が今歩いている道は、どこの誰が敷いたのか。
こんな感じで、いろんな敵から隠れ、そして戦いながら、アメリカを再び繋ぎ直していきます。最後にはサム自身の出自やアイデンティティーとも向き合い、この世界の様々な衝撃的な事実を知る事となります。松坂桃李さんもツイートしていたように、重厚な洋画を見ている様な、すごい展開に打ち震える次第です。一体自分が何のためにこのゲームをしていたのかを教えられる感覚とも言えるほど。
まるでアメリカの開拓史をなぞる様に、アメリカ大陸を東から西へつないでいく作業は、困難で怖さも感じ、なにかアメリカのフロンティアスピリットを体感した気分ですが、自然や敵にビクつきながら隠れて逃げて闘って、最後に世界を分断から救った後に、サムは自分の出自と向き合い、そして大きな決断をするエンディングを迎えます。
それは、最後のエンディングでサムが突きつけられた判断と、これまでの配達作業がリンクした瞬間であり、
「自分が今歩いている道は、どこの誰が敷いたのか。」
という、またこれまでとは違う、見落としがちな”繋がり”について突きつけられた瞬間でもありました。
今自分は車で大量の荷物をガンガン運んで「伝説の配達人」としてヒーロー扱いされているけど、車で走れているのは、この道路をオンラインの誰かが設備を起動し、大量の素材を運搬し、完成させてくれたお陰であり、その事を認識しなくてはいけないと思わされる。日常生活ではなかなかそこに気づきにくい、でもとっても重要な視点ですよね。
ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』で描かれていた分断が起き、そしてそれが放置されてしまっているこの世界をつなぐ為に、まさに必要な視点ではないかなと思います。『家族を想うとき』に出てくる配送事業者が、主人公たちフランチャイジーたちに酷薄に自己責任を押し付けている姿は、「自分は安全圏にいる権利がある」「自分はそれにふさわしい努力をしてきたわけで、彼らとは違うんだ」という考えがあるからできる行為であり、それは、まさに自分の力だけでそこに立っているのだという勘違いが引き起こしている、他者への想像力の無さであります。
”運ぶ”事が題材であり、そしてテーマが”分断”であるというすごい偶然な共通点がある『家族を想うとき』と『デス・ストランディング』。
現代では分断の象徴として描かれた「配達」が、未来ではもはやリプレイスを期待されていたテクノロジーも崩壊し、「配達」が人と人をつなぐ連帯の象徴になるかもしれない。そんな「配達」という観点から現代や未来を捉えることで見えてくる世界の解像度の高さを考えると、芸術祭のしごととかでテンパってるにも関わらず、中学生だったときの様に熱中して100時間もプレイしてしまったことの罪悪感も消えました(笑)。
騙されたと思って102時間をください!
『デス・ストランディング』は、「荷物を運ぶ」という昔のRPGであればミニゲーム扱いだった遊びを軸にしているので、「おつかいゲー」とも最初言われていましたが、ミニゲームどころかゲーム史を塗り替えるゲームでした。
小島さんが、どこかのメディアのインタビューで、如何に人を殺したり倒したりする様なゲームの本能的なアクションを排除した上で、熱中できるアクションゲームを成立させられるかという挑戦だったと言ってました。戦争ゲームである『メタルギアソリッド』をつくっているときから感じていた課題感、そしてゲームを通じて伝えいたメッセージと言う話に凄みを感じていました。そして、それを完全に実現した『デス・ストランディング』。本当に革命的です。他にも”臍帯”というのがキーワードとなっていますが、そこで考えさせられる姓名やら母性・父性やら。本当に深い。
ゲームとして単純に熱中してしまうくらいの面白さ、バランスとゲーム性と設計の妙を感じさせられる神ゲーでありつつも、映画『家族を想うとき』と併せて考えると、深い社会批評としての価値も十二分にあり、2020年から始まる次の10年を捉える視座がどっしりと座る、そんな作品たち。2つ併せてざっくり102時間。騙されたと思って、是非この2作品に触れてください!!!
しかしやっと『デス・ストランディング』をクリアし、これでしばらくまたゲーム離れできるなと思っていたら、知らぬ間に、『龍が如く7』が発売されていることを知ってしまった・・・。これはやはりやらなくてはならないのだろうか・・・。