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メタバースに感じる3つの次元拡張の可能性

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日はちょっと「メタバースの可能性」について書きたいと思います。

というのも先日、バーチャル美少女ねむさんの『メタバース進化論』を読み、(単にビジネスバズワードとしてではなく)改めて「メタバース」には、もっとベースのところで人間の活動を変容させる可能性があると感じ、大いに共感したからです。


「メタバース」って?

いまやどこでも聞くようになった「メタバース」。ちょっと広すぎる概念で、定義があいまいというか、なんでもかんでも「メタバース」と呼ばれてしまっているところがあります。

もう一つセットでバズワードとなった「web3」との関係性や境界もあいまいで、暗号資産やNFT、BCG、DAOなどのブロックチェーンベースの分散型ネットワークも一緒にされることもありますが、この記事の「メタバース」は「virtual(仮想的/実質的)現実空間」におけるソーシャル、すなわち「VRソーシャル」のことにフォーカスします。

(物理現実からのオフグリッドと非中央集権な分散・多元的世界という意味では、VRソーシャルと法定通貨や国からオフグリッドされたブロックチェーン経済、DAOなどに親近性はたしかにあり、いずれ接続されて物理現実に出口を必要としない経済も成り立つようになるとは思いますが、少なくとも今のところは別々のものであり経済圏としてもつながっていません)


「VRソーシャル」としての「メタバース」の可能性とそれを定義づける要件については、冒頭に紹介した『メタバース進化論』がとてもわかりやすく、何より「そこで暮らしているメタバース原住民」の目線と実感をもって書かれているのでメタバース・ライフに興味がある方はぜひ読んでみることをおすすめします。

実は僕もいまメタバースの事業を立ち上げています。これまで建築、アート、新規事業/起業、ジェンダー、ダイバーシティなど色んな切り口で活動をしてきて「次はメタバース!」というとまったく一貫性がないように思えるかもしれませんが、実はこれまでの興味や問題関心が全部自分の中ではちゃんとつながった結果の「メタバース」だったりするので、今日は改めてメタバースにどんな可能性を感じているのか、ということも含めて書いてみます。


①「創造」の可能性

まず一つ目は、メタバースでは「あらゆるものを創造できる」という可能性です。

VRChatをはじめとするVRソーシャルの中にはいろいろな「ワールド」や「アバター」が存在し、相互にコミュニケーションし、暮らしています

たとえば今僕はこの記事をシロクマになってVRchatのとあるワールド内のベンチに腰掛け、空間にPCのデスクトップをオーバーレイして書いているのですが、

文字通り目に映る世界のすべて、空の雲や草むらや木も、ほふく前進している軍人もロボットも小さなネコ耳の亜人間も、すべてが誰かにつくられたものです。

そしてメタバースの世界の「つくり手」の大半は住人である個人のクリエイターであり、(ほぼ趣味で)つくりだされたものです。それゆえにカオス。ものすごく雑なものから狂ったような世界、才能の無駄遣いとしかいいようがないハイクオリティのワールドに、個人的こだわりを突き詰めたアバターや様々なアイテムが混在しています。


メタバースはネクスト・インターネット、と言われることもありますが、たしかにこの統御されえないカオス感は、2000年くらいのインターネットの感じを彷彿とします。

インターネット(web)についてはよく

web1.0はread、web2.0はwrite

と言われますが、いまやほぼ全人口の情報空間となったインターネットも2000年以前は、「PCオタクが自己満足の何の役に立つかわからないコンテンツ」をつくっていたような感じでした。テキストサイトやFLASH動画など個人がシュールなコンテンツを自作し、あるいはHTMLを直打ちしたりホームページビルダーを使って(とくに有益な情報もない)自分だけのサイト(場)をつくり、訪問者を数えたり…

その意味では一対多の1way型の「read」になったのは、webに企業コンテンツが増えYahoo!のようなコンテンツ強者が生まれてからのこと。web0.0は1way型マスでも受け身な場でもなかったように思います。


そしてその当時、「外」の世界の人はインターネットをまさに有用性のないニッチな趣味の世界のように見ていたでしょう。メタバースの現在地点も空気感としてその頃に似ていますが、メタバースにおいてはカオス感がもっと上な気がします。なぜならテキストやビジュアルコンテンツのように一次元・二次元の情報や面ではなく、「自分自身」とそれを取り巻く「世界」それ自体をリデザインし、つくることができるからです。

『メタバース進化論』から引用します。

メタバースとは「私たちが生きていく、デジタル世界の新しい宇宙」です。これまで人類は、生まれ落ちたこの宇宙で生き延びるために、四百万年かけてひたすら自分自身を変化(進化)させ続けて来ました。 メタバースがもたらす革命は「私たちが生きる空間そのものを恣意的にデザインできる」ということです。それは、人類と宇宙との主従関係が逆転するということです。私たち人類が、宇宙そのものを、自分たちが暮らしやすいように再設計するということです。それは、言わば神を目指す試みです。

『メタバース進化論』

かつて建築をしていた僕は「ハードや箱」をつくることにあまり興味を持てず、今はソフトウェア側にいます。いずれもそこに乗る人間の行動を設計しているという点では共通しているわけですが、メタバースでは「建てもの」どころか(物理法則さえリデザインして)世界そのものや自分自身をもつくれてしまうのです。

創造の次元の拡大。そこにはweb以上に、個人のクリエイティビティが爆発する可能性があるはずです。これまでアートも含めクリエイターの可能性を信じ応援してきた身として、この「高次な創造性を試し、育んでいく環境」をつくっていきたいと思っています。


②「Be」の可能性

創造の次元の拡大、といっても3DCGデザインはとくに新しい領域というわけではなく数十年前からありますし、なんなら3Dプリンターで現実世界にアウトプットもできます。それとはどうちがうのでしょうか?

この点、先程「その中に入り、暮らす」と述べましたが、このことがとても重要だとおもっています。いかに精巧につくられた3Dのモデルがあろうと、そこで実際に生きる/暮らすことがなければ、単なるモノObjectであり、「舞台装置」にすぎません。

この点メタバースではその中に「Be(いる/なる)」ということが現象として起こっているところが面白いと思っています。

インターネットにも「居場所」はありました(「サイト」や「ホーム」ページなどというメタファーがそれを示しています)。それは時に現実社会に居心地の悪さを感じている人たちにとって新しい拠り所になりました。

2chなどでは「棲む」「住人」という言い方もありました。しかし一方で「板」に「張りつく」という言い方もされるように、それは自分の外にある対象でもあります。そしてwebにおいてはそこでなんらかアクションを発火させた時だけ、その平面に信号として存在が刻まれるのです(なにも書かなければいないのと一緒)。なんというか、やはり自分が「Beいる」のは現実世界であって、webに自分の痕跡を「書き込む」という感じでしょうか。


しかしメタバースではただ「いる」ということができます。(ちょうど今、記事を書いていたため無言勢で座っているだけの僕の「存在」が気になった「バターの人」が話しかけてきました)

そしてまた、色々なものに「なる」こともできます。アバターは「見た目」が変わるだけ、と思われるかもしれませんが、実際になってみると体感は随分ちがいます。

衣装のような外的装飾やメイクのようなテクスチャの改変にとどまらず、それになってしまう、という感覚があります。(↓昨年『よそおうのこれから』展を開催して考察したように衣装やメイクによっても存在として「なる」体験もありえますが、やや特殊なケースです)


③ダイバーシティの可能性

そしてここからもう一つ、ダイバーシティの可能性が開けてきます。

前述のとおりメタバースでは、その中の存在に「なる」ことができます。ただ、その「なるBe」は、自分ではないなにかに「化ける」というよりも、もっと自分自身「である」という感じがするのです。Be the self的な


『メタバース進化論』の中に「分人主義」の話が出てきます。

「分人主義」というのは平野啓一郎さんが提唱する概念で、「複アカ」をもって生きるようなものでしょうか。個人In-divisualというのはもともと「分けられないもの」という意味ですが、実はわれわれは一たる統一的identityではなく、「分人」であるということですね。インターネットによって加速したかもしれませんが、そもそもオフラインでも人は複数のソーシャルに所属し、人格を切り替えながら生きています。


「分人主義」が進むと都度都度別の人格にスイッチすることで自分が分裂してしまいそうな気もしていたのですが、『メタバース進化論』の中にある「洞窟の比喩」を引いたこの喩えがすごくしっくり来ました。

『メタバース進化論』より図を引用

プラトンの考え方を借りるなら、今日まで私たちが 「自分自身」だと思っていた現実世界における私たちの姿は、本質である私たちの「魂」が物理現実というスクリーンに落とした一つの影に過ぎなかったのではないでしょうか(プラトン自身はイデアを魂に適用してはいませんが、プラトンの概念を拡張して考えていきま
す)。いま、高次の宇宙であるメタバースでは、いくつもの現実、スクリーンを作り出すことができます。これまで意識することすらできなかったあなたの「魂」に、いろんな角度から光を当ててみてください。美少女のかたちの影ができるかもしれ
ん。 人のかたちをしていないかもしれません。きっと思いもよらぬ「あなた」のかたちがみつかるはずです。「魂」が立体物であるなら、一つの光だけでその全貌を捉えることは不可能だったのです。 複数の光を、表だけでなく裏からも当ててみる必要があったのです。

『メタバース進化論』(強調引用者)

ジェンダーやダイバーシティについて語るとき、男性/女性や障害の有無で分類し、そこに対立が生まれてしまったりします。僕たちは「見た目」それも「物理世界の見た目」に囚われ過ぎなのかもしれません。それは四次元立体物をある三次元世界に投影した単に一つの現れにすぎないかもしれないのです。(ただ僕はどちらかというと本質が先立つというより投影的現れが先立ちイメージに焦点化する感覚をもっています)

この「複数の光」によってメタバースが解放する多様性は「自分の中にある多様性」でしょう。自分は一面的ではなく超立体的であり、多様性は外にあるのではなく内にある。でもそれを忘れて、あるいはフタをして、「ひとつの投影」だけに囚われて生きている。それが対立や分断を生んでいるのかもしれません。メタ的な多次元的世界で自分であることができれば、少なくともたまたま与えられただけのこの物理身体による制約や閉塞感への救いになるでしょう。(一方で「制約」は創造性や面白みの源泉でもあるので、物理身体もまた完全に無化されることはないでしょう)


メタバースではより高次元のクリエイションが可能であり、自分自身や世界そのものをつくることができます。ページやスクリーンを外から引っ掻くだけではなく、その中に入ることができます。そしてそれによって「物理身体」というたった一つの三次元世界だけでなく、複数の世界投影の中で多面的に自らの多様性と出会い直していけるかもしれません。そのことが人間の社会や倫理、経済をどう変えるかはまだわかりませんが「異次元の」変化をもたらすにちがいないと考えています。

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