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ポスト・コロナと喜ぶ前に

政府は今春から、感染症法の分類上、新型コロナウイルスを季節性インフルエンザと同等の「5類」扱いに移行する予定だ。この措置により、濃厚接触者の待機は自主判断となり、「コロナといっても、まあ風邪みたいなものでしょう?」という楽観が当たり前になるだろう。

経済再開に気をもみ、コロナ明けを喜ぶ気持ちは十分わかるものの、パンデミックを「なかったこと」にすることはできない。特に、自然災害の爪痕とは異なり、一見、傷跡が見えにくいからこそ、これから政府、企業、個人のレベルで注意と養生が必要だ。

新型コロナウイルスによる死者やそのまわりの人々はいうに及ばず、大人から子供まで、私たちは誰しもがパンデミックの影響を受けている。東京でメンタルヘルスの日本語・英語バイリンガルホットラインを設けるTELLの代表との会話によると、昨今の相談では「燃え尽き」型が増えているという。何とか制限続きの3年を乗り越えたものの、誰しも心に余裕がなくなり、ストレス耐性が落ちていることが背景にある。

自分に当てはめてもふに落ちる。私を含めホワイトカラー職は、多くの仕事をオンラインで済ますことが可能な点で、非常に恵まれていることは確かだ。しかし、オンライン会議続きで生産性が極限まで重視され、その結果、ぎすぎすした雰囲気が漂い、一日の終わりには疲れ果てている。

このような余裕のなさは、相手を思いやる気持ちの欠乏に直結する。しかも、コロナ禍の性質上、火種はどこにでも転がっている-世代、文化、職業などによりパンデミックの受け止め方が人それぞれ違うため、自分と異なる相手を許容できず、極端な場合には攻撃にさえ転じてしまう。豪州出身のTELL代表は、日本はそもそも個人よりも全体を重んじる風土があったが、これから分断が進むのではないかと危惧している。

さらに、見えない傷跡の影響は、今よりも将来に大きく表れる可能性があることに注意が必要だ。例えば、コロナ禍の最中に小学校へ入学した子供たちは、勉強の楽しさを身に付けるべき低学年で、集団の学習環境を奪われている。結果、ある教育産業の幹部によると、中学年になったこの子たちの学習意欲は、通常よりも明らかに下がっているという。手を打たなければ、この世代はハンディキャップを引きずったまま、あと10数年後に「コロナ世代」として成人することになる。

2011年東日本大震災の後、内閣には復興庁が設けられた。もし災害の規模として死者数を目安にするならば、大震災は1万6千人に対し、新型コロナウイルスは今日時点で6万6千人とはるかに大きい。ところが、被災地のような目に見える傷跡がないため、パンデミックからの復興は、何か抽象的な概念に思われがちだ。実際は、心のケアや失われた教育機会を取り戻すためにとるべきアクションは無数にある。例えば、一時は「不要不急」と糾弾された芸術を促進したり、ボランティアを企画したりすることもよいだろう。人を助けることで自分の心に余裕と前向きな気持ちが生まれる。

社会の寛容度は、一人一人の心の余裕の総和であり、GDPのように測ることはできない。しかし、この寛容度が落ちていることは疑いない事実だ。ストレス耐性が薄くなれば、次のパンデミックを待たずとも危機に打たれ弱い国となろう。

3年間に及ぶパンデミックを経て転換期に立ついま、経済再開を急ぐ一方で、メンタルのすり減りを充電し、声を上げられない社会的弱者へ配慮することが必要だ。対策を政府に任せるのではなく、経営として従業員のために何ができるか、また個人として何ができるのかを考えるときにきている。まずは、自ら振り返り、心の余裕のなさを自覚することが始点となるだろう。

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