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ジャニー喜多川氏の性加害と性同意ポスターへの賛否から「性暴力」と「性同意」について改めて考える

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日は今週目にした2つのニュースから、改めて「性暴力」や「性同意」について書きたいと思います。


ジャニー喜多川氏の性暴力問題

ジャニーズの創業者・ジャニー喜多川氏による少年たちへの性暴力問題がメディアもようやく取り上げるようになってきました。


こちらの記事を読むと、喜多川氏による少年への性加害がいかに、長い間繰り返されてきたかがわかります。(けっこう長いのですが、ぜひ男性にも読んでほしい)

記事では、実に60年間に渡ってジャニー喜多川氏が行っていた性加害、というか端的にいうとレイプについて書かれています。

1960年前後から始まり、何度も裁判になったり問題になりそうになりながらも、もみ消されたり、メディアが口を閉ざしてきた、「公然の秘密」であったとも言えます。少なくとも僕はあおい輝彦さんの時代から加害が問題になっていたことを知らなかったですし、現在のジャニーズファンの方々でもこうしたことを知らなかった人もいるのではと思います。


記事を読むと本当に胸が苦しくなりますが、11歳など10代前半の少年たちは「ジャニーさん」という帝国の絶大な権力者から性暴力を受け、逃げることができず、悩みながらも受け入れてしまう様子が書かれてます。

ジャニーさんの性加害は常習性が極めて高く、「味をしめて」というといいすぎかもしれませんが、最初の何人かが受け入れたことに始まり、芸能界で成功していくにつれどんどんエスカレートしていったのでしょう。恐らくジャニーズ事務所に所属したほぼすべての方が、何らかの性被害にあっていると考えていいのではないでしょうか。


閉鎖性と生殺与奪の権力者による性加害

伊藤詩織さんの時にもそうでしたが、女性に対する性暴力があった際、被害者に対し「セカンドレイプ」ともいえる批判がされることがあります。これは本当に無自覚かつ無責任に、傷口に塩を塗るひどい行為だと思います。

例えば、「嫌がっていたら止められるはず」とか「本当はその気があったんじゃないの?」とか、あまつさえ「露出が多い格好をしているから悪いんだ」といった謎のロジックで、なぜか被害者が過失や責任を問われたりする。

そういう「いや断ればいいじゃん」というのがいかに無理解で想像力に欠けるかということが、ジャニーズの被害者の証言を読むとよくわかります。被害者は何度も証言を迷い、性加害を認めてはそれを翻し否定したりします。そこにどれほどの葛藤があったのだろうと考えると本当に胸が痛みます。

これも勉強。
そう自分に言い聞かせて、毎晩、ジャニーさんの相手を務めていたが、不思議と彼を恨む気持ちはなかったのである。(『ひとりぼっちの旅立ち』1997年、鹿砦社、60-61頁)

でも、逆らえないですよ。やっぱりデビューしたいじゃないですか。それで、しょうがないですね。しょうがないしかなかったんです‥‥‥」(『週刊文春』1999年11月11日号)

https://www.theheadline.jp/articles/815


本当はレイプが「勉強」でなんてあろうはずもないのですが…。
こういった問題は構造的なもので、閉鎖的な環境の中で生殺与奪権をもった権力者がいると、性暴力に対してノーと言うことが難しいのです。

カトリック教会での少年たちへの性暴力や、宗教団体での同様の問題が起こるのも、逃げ場がなく権力者が生殺与奪を握っているからです。

記事中には、性暴力を「儀式」として受け入れる少年たちのことや、それができない人が「芸能界に向いていなかった」と考えたという衝撃的な証言があります。

その後平本氏は、デビューに至らないまま、事務所を退所した。自身では、ジャニー氏との行為を「中途半端」にしたことが「芸能界に向いていなかった」原因だと回顧している。以下は、それに言及している部分だ。
私(*29)が体験したジャニーさんとのベッドの中は結局中途半端で最後までには至らず、当然デビューのお預けを食らったまま、ジャニーズ事務所とお別れをした。
マッサージと誘惑の言葉から始まって、徐々にエスカレートする手の動き。その手の目指す場所は勿論性器だ。時によってはいきなりそこを攻められる場合もある。
私の場合は触られはしたが、何回も作戦を立てて逃げた。十七才を過ぎる頃にはもう誘ってもこなくなった。あのまま続きをクリアしていたら、今頃スターだったかも知れない。それともスターを通過してジャニーズに捨てられているかも知れない。どちらにしてもこの経験が中途半端なままであったということは、結果的には芸能界に向いていなかったのであろう負け犬とも言えるし、断る勇気を持っていたと言うことにもなる。自分では「悪魔の囁きに乗らなかった」と良い方に納得しておかないとジャニーズ事務所にいた経験が悪い思い出として付きまとってくる。(『ジャニーズのすべて』144-145頁)

https://www.theheadline.jp/articles/815(強調は引用者)

閉鎖的な環境において権力者は、その人に気に入られるかどうかでどうとでもなる生殺与奪権をもちます。ジャニーズ事務所の中では、ジャニーさんに気に入られようと性的な行為に積極的だった少年すらいたという話も書かれてますが、こうしたことが起こるのは「本人の自由意思」などでは決してなく「狡猾な権力者の強制」であることを忘れてはいけないと思います。

閉鎖性が高く生殺与奪の権力者がいる時、性暴力は簡単に起こる、ということを、社会として認識しみんなでそうした構造自体をなくすように動いていくことが大事です。

同様の問題は、映画、演劇の世界をはじめ、企業の中でも程度の差はあれ起きてきたし、起きていると思います。閉鎖性が高く、拒めば「干される」とか評価やキャリアに対して生殺与奪を握っている権力者がいると、セクハラや性暴力が起こりやすい。

性暴力の被害者が声を上げることは本当にとても勇気がいることですし、こうしたことを被害者だけの力で止めることはほとんど不可能です。だからこそ、私たち一人ひとりがこの問題を正しく理解し、対処方法を考え、権力者による性暴力やセクハラをなくそうとすることが大事だと思います。


性同意ポスターへの批判への批判

もう一つ、Twitterなどで話題になっていたのが、こちらのポスターです。

あなたがイエスでも私がノーなら性暴力」というメッセージに対し、なぜか多くの批判が集まりました。


このポスターは「若年層の性暴力被害予防月間」の啓発ポスターとしてつくられたもので、(正直僕はなぜこんなに批判されるのかよくわからないのですが)男女共同参画局がつくったポスターということで、いわゆる「アンチフェミ」的な言いがかり的批判も多かったように思います。


「その日はイエスと言って同意したのに、後からノーだったと言ったら、全部性暴力にされちゃうじゃないか」とかはまあ、気持ちはわからなくはありませんが、中には「少子化対策をやってる時にこんなポスターを作るのはおかしい」なんていう批判もありました。(おいおい、少子化対策のためには性暴力での妊娠も容認しなきゃいけないの?だから緊急避妊薬も認めないの?それが少子化対策なんだとしたら異次元というかもう、異常だよ?


でも、もう一回よくみてほしいのですがこれ、「若年層の性暴力被害予防月間」のポスターなんですよ。

まだ小さくて性の知識もなく、拒む力もない非対称な状況での性暴力に対して、社会全体で気を付けようというメッセージなんです。だから「こども家庭庁」がツイートしている。

先程「閉鎖性」と「生殺与奪権」について書きましたが、家庭はまさにそれです。家庭の中で親が子供に対して性暴力を行う場合、子供は拒むことができません。また、そしてジャニーズ事務所の記事にもあったように、11歳とかでは性の知識もなく、何が起こっているのかすら分からない状況で被害にあっているのです。

初めてジャニー氏からの行為にあった時期について、自身が「11歳」だった「30年も前のこと」と述べている(これが正しければ、1950年代末に該当することになる)。そのため、性の知識もなく「いかがわしいだとかいった感情」すら抱くことはなかったと振り返る。
今からもう30年も前のことですから。そのころは現代のような情報社会ではなかったので、性の知識とて子供の耳に入るはずはありません。
(略)
そんな少年に、この青年と抱きあっている形がいやらしいだとか、いかがわしいだとかいった感情を持てるわけもないのです。

https://www.theheadline.jp/articles/815

性同意というのはたしかに難しい問題です。相手の本当の気持ちをわかることはできませんし、「雰囲気」というのもあるので行為の前に明確な同意の証跡を残すのはパートナー同士ですら難しいところもあるでしょう。また、あとから「NO」だったと言われたらなんでもありになりそうで困る、というのもまあ、わからなくはありません。

しかしそれは最低限、成人同士の場合であり、かつ、権力的に非対称性がない場合に限られます。そうでない場合には「同意」というのは必ずしも明示的にはできないので、だからこそ「大きい側」が丁寧に慎重に扱わなければいけないと思うのです。


車の「過失割合」

こういう時の批判はやはり男性サイドから多いものですが、性被害はかならずしも男→女には限りません

ポスターに対する批判でも、男性から女性だけなのがおかしい、というものもありましたが、これはその通りだと思います。ジャニーズ事務所でのように男性から男性もあるでしょうし、女性から男性もありえます。(ただポスターで全場合を載せたら大変なので、実務上一番多いケースで警鐘を鳴らすというのは、致し方ないところもあると思います。あと、こんな女性→男性ケースの啓発動画もあります)

今回の批判の中にも、「女性がNOならNO」ってそれ男女平等じゃない!という(ややアンチフェミ的なルサンチマン臭のする)ものがけっこうありました。これはセクハラとか痴漢とかでも一定ある詭弁だとおもうのですが、こういう時に、現に非対称性がある中で、都合よく公平とか平等を引き合いに出すのはちょっとちがうんではないかなと個人的には思っています。


それはまさに力の非対称性の問題
だからです。


例えば交通事故を考えてみましょう。

道路交通法上で車と歩行者の事故があった時、過失割合は均等ではありません。それは歩行者が弱いからですよね。

車を運転している強い側がより気をつけなければいけないというのことが過失割合で示されているのです。NOをいう権利は平等だ不公平だとかいう前に、持っているパワーによって相手を傷つけてしまう危険がある時にはパワーがある側が非対称な責任を持つべきだと僕は思います。

いや歩行者が信号無視して飛び出してきたんだよ、ということもありえます。それでも、それを予測して気をつけて運転しないといけないのは車の方なのです。より大きく、よりパワーがあるからです。そしてそうした責任を引き受けることとセットではじめて、便利さを享受することができるのではないでしょうか。

「性同意」というのはたしかにわかりづらいですし面倒に思うかも知れません。しかしパワーの非対称性がある時には、「車」側こそ気をつけすぎるほど気をつけてよいのではないでしょうか。「だろう運転」ではなくて「かもしれない運転」、習いましたよね?

性同意年齢の引き上げの時にも、「真剣な恋愛」や「純愛」があるから捕まるのはおかしい、なんていう議論がありました。しかしそう言っているのはだいたい「車」側です。パワーがあり、便利さを享受した上で、自分は便利さを手放すのも責任をもつこともしたくない、と言っているのです。駄々っ子かな?


本当に真剣な恋愛であれば、たとえ相手がそれを望んだとしても、大人の側が「まだ君は若いから」と言って待つように説得するべきだと思います。それが「真剣」ということであり「純愛」ということでしょうよ。娘を持つ身として、それすらできず性欲に負けているくらいの真剣さしかない大人と付き合うのはやめておいたほうがいいよ、と全力で止めますけど?


再生産されないように社会みんなで考えたい

ぜひジャニーズ事務所の記事も読んでいただいた上で、今回のポスターが「若年層の性暴力被害」の予防としてつくられ、それを「子ども家庭庁」が発信しないといけない状況の深刻さについて(とくに男性に)考えてみていただきたいです。

ジャニーズの記事の中では、被害に遭った方が言い出せずに長い間黙ってしまったり、裁判所で発言を否定してしまったことで、その後ずっと自分が言わなかったせいでたくさんの被害者を生んでしまったんじゃないかという罪悪感を抱えていたことが書かれています。これ被害者が責任を感じているというの、本当につらくないですか。

被害者よりももっと責任や罪悪感を感じるべき人たちがいるのではないでしょうか。メディアも本気でその責任を考えた方がいいと思います。ちゃんと報道していれば防げた被害だったわけですから。

そしてそれは僕たちみんなのことです。いじめと一緒で、傍観者もいじめに加担しているのであって、被害にあってつらい思いをした人だけが罪悪感を抱えなきゃいけないのかというのは、僕はやっぱり間違っていると思います。

既に述べたように「性暴力」には非対称な構造があり、される側が防ぐことは難しいところがあります。そしてこうしたポスターがあっても、加害者がみて「あ、いけないことだったんだ」と気づいてやめるというのも難しいかもしれません。

だからこそ、周りが注意してあげることが大切です。当事者が困っていても声をあげられないとき、周りの人が「大丈夫ですか?」と声をかけてあげる。こうした被害を再生産しないように、社会全体としてみんなで責任を分有して考えていけたらいけたらいいなと思います。

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