教えるために、教えない。 ~ 一言切り抜きfrom日経#147
ちょっと訳あって、教育関係のプロジェクトだけのプロフィールを整理した。数えてみると、この10年で、学校、大学での授業、企業研修、トークセッションを200回くらい、させてもらっていたみたい。
そのほとんどは、この1枚のスライドから始めている。
それに続く、
次の1枚はこれ。
呼ばれたのに「自習」と言って始める。
それは2つの理由があって、
まず1つは、学校で一番自由を感じた瞬間は、先生が来なくて、5分くらい経った時に代わりの先生が来て、黒板に「自習」って書かれた時。だから、なるべくこの言葉を大きくたくさんの人の目に触れるところに書きたいから。
もう1つは、ちゃんとした理由で、
人は本当にたくさんの時間、何万時間と授業を受ける。しかし、なんと覚えていることが少ないことか。。と同時に覚えていることがあるから、仕事をしたり、生きていける。好奇心が湧いたからとか、自分の人生に関係がありそうだったからとか、雑談が面白かったからとか、先生がカッコよかったからとか、いろんな理由で覚えていることがある。つまり、自習じゃなくても、自分で選び取って学んでいる、つまり、人生は全て「自習」なんじゃないかと。
「だから、今日、皆さんに1つでも何か役に立つように話しますが、選びとる、学ぶのは皆さん側なので、ここから先は自分で学んでくださいね。(つまり、ここから先は、僕に責任はありません!皆さん次第です!)」
と言って始めます。
ほんと、すべて、自分で学ばない限り、意味はないと思うんですよね。
実は日経で、これと同じ「教えない」という考え方が、ここ2ヶ月で何度も何度も出てきていました。
それをここに貼っておきます。
>かつて、奥田東・京都大学総長の祝辞に多くの新入生が驚いたそうです。「京都大は諸君に何も教えません」という趣旨のあいさつをしたからです。大学の役割というのは学生が考え、学ぶことを手伝う場であること。何かを教わるという受け身ではいけないことを考えてほしかったのだろうと思います。
さすが京大。好きだなあ。
2つ目は、
こちらはマサチューセッツから。
>上田 「池上先生とも米マサチューセッツ工科大学を訪れた際、ロケット技術など最先端の研究をされている先生が貴重なアドバイスをくれたことがあります。『学生には先端的な技術など教えない。卒業するころには技術的には陳腐化しているかもしれない。むしろ研究分野の課題をみつけ、その答えを考えぬく経験を積ませることが大事』というのです」
上の人が言うことを聞いていても、時代遅れだし、それを上の世代も言うと言う。
3つ目は野球界から。
このゴンドウ=権藤監督。
>心の新鮮さを保つ秘訣は?「いつもハッとする瞬間を探していることかな。指導の勉強で米国のマイナーリーグに行ったとき、学校を出たての子が、何回練習してもできないのをみかねて、教えたんです。すると向こうのコーチに言われました。『ゴンドウ、教えてくれるのはありがたいが、ヤツのためにならないからやめてくれ』と。人に教わったことは忘れるが、自分でつかんだことは忘れない。だからオレは選手が自分で気づくのを待っていたんだ、と」「ハッとしましたね。教えるだけがコーチじゃない。あれ以来、ハッとする瞬間との出合いが生きがいになりました」
最後に1枚、たまに若者向けに話す時に出すスライドを見せてこの記事は終わりにしよう。
この先の正解は誰もわからない時代。
そう言うくせに大人は答えを求めたがる。
そしてその大人たちは、不安だから、すぐ海外のモデルやコンセプトを輸入して、鵜呑みし、二匹目のどじょうを狙い、自分たちの幸福観を勇気を持って追求しない。
政策も、海外ものを真似した日本版〇〇ばかり、で、そう言う記事をみるたび、やれやれ。と思うのは僕だけじゃないでしょう。
「教えない。」「正解はわからないと心の底から思うこと。」「そして、自分たちに必要なものは、自分たちで追求する。」
そう言う大人が増えないと、もう日本は終わると思う。
一緒に戦い続けてくれる人募集〜。
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