呼吸するイタリアのモダンデザイン
この20数年、特に1950年代ー1980年代のイタリアデザインの製品・作品を定期的に見ています。アンティークショップやそのカテゴリーの倉庫に行くのですが、色々と陳列されているものが変わりました。10数年前までは1960年代から1970年代のプラスチック製品が多かったのですが、この数年、プラスチックがめっきりと減りました。
10数年前までに出回っていたプラスチック製品は、なんらかのノスタルジーを感じさせるものでした。つまり1950年代以降、インテリア商品に樹脂が使われるようになり、そのねっとりとした感じが、1990年代から2000年代はじめの「きれいなプラスチックが全盛の世界」にあって、温かみがあったのでしょう。
それがプラスチック製品が減り、同じ時代、即ち1960年代ー1970年代のモノでも、木製品をよく見かけるようになります。モノは棚や机や椅子などですが、同時に別の変化がでてきます。それは、「誰それのデザイン」に対する関心の低下です。名の知れたデザイナーの「あのデザイン」ではなく、名の知られていない「なんとなくあの時代にあったであろうデザイン」が倉庫の棚に並ぶようになったのです。
皆さんもお気づきだと思いますが、カフェやコ・ワーキングスペースなどに出かけると、アンティークの木製品が多く使われています。そういうとこで、アイコンとしてはっきりしているデザインよりも、ややぼやけたプロフィールのデザインが相応しいと思われているのかもしれません。
一方、イタリアモダンデザインの「顔役」だったデザイナーたちの遺産相続人(つまりは、子どもや孫)と話す機会があり、この数日もそうした人たちと連続して話していて、(時代をつくった)「あのデザイナー」の息吹は遠のくばかりだと感じます。まったく当たり前のことですが、「あのデザイナー」の振る舞いを傍で直接経験した人たちも、この先の時間、そう長いわけではないか、相続人としての役割を自主的に降りるタイミングにきています。
そうすると、「あのデザイナー」がもっていた世界観がだんだんと見えなくなってきます。「あのデザイナー」の本も、直接デザイナーを知らない人が資料をかき集めて書いたものになりますから、オリジナルがなんであったか?は、なかなか分からないことになります。
それは現実として回避し難いことなのですが、リアルに今、このような状況をみている人間からすると、「こういう風に、時代のエッセンスが喪失していくのだな。なんとか、この世界観が息吹を感じられるように伝えられないものか?」と考えるものです。「ぼやけた」なかにも、「あのデザイナー」の存在感を確認するのは意味があるはず、と。
そして、まったく別の観点からデザインについて触れると、コンピューターのUIやサービスデザインあるいはコミュニティのデザインなどなど、「あのデザイナー」がそれと意識していなかったか、意識していたとしても別の言葉で表現していた世界に議論の焦点が向かっています。
言うまでもなく、これらの世界はデザインというキーワードを使いながら、お互いの会話があまり通じない、いや、そもそもがお互いに関心を抱いていない可能性が高い。これは、結構、さびしいものです。
だから、逆に乱暴にひとくくりにしてしまおうとする動きも出るのでしょうが、いずれにせよ、もどかしいものです。