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「つまらないクルマしかつくれないようなら、ホンダなんて消えてなくなればいい」

現在、日経新聞に掲載されている「ものづくり記 最終章 ホンダ・和光研究所」という連載が面白いです。全10回でちょうど半分まできました。

ぼく自身、日本では(ホンダではない)自動車メーカーで仕事をし、イタリアに来てからも自動車分野に長くかかわってきたので、今でも、なんやかんやいってこの分野の動向が気になります。

さて、正直に言うと、ホンダのクルマ自体にはあまり興味をもってこなかったのですが、企業、特にこの連載が焦点をあてている和光研究所には多大なる関心をもっていました。実際、連載を読んでいると「ほれ!これも和光研究所発だぞ!」というネタがどんどんとでてきます。記事としては、ホンダが今年の5月、5度目のF1への挑戦を決めた決断の理由を理解するところに鍵があります。

浅木泰昭さんというエンジニアは次のように紹介されています。

バブル崩壊後の経営危機からホンダを救ったミニバン「オデッセイ」の開発。風前のともしびとなっていた軽自動車の再建。そして連戦連敗のどん底に沈んでいたF1の復活。2021年シーズンを最後にF1から撤退してからも、浅木は水面下で「クモの糸作戦」と称して再参入を探っていた。その糸がつながったのは皮肉にも浅木が会社を去った直後のことだった。5月、ホンダはF1への再参戦を決めた

ああ、こういう人いるなあ、と思わせる典型のような実績です。

そして彼の台詞がこう。

つまらないクルマしかつくれないようなら、ホンダなんて消えてなくなればいい。異質であること。それこそがホンダの存在意義なんだと、僕は思うんですよ」

これ!これ!という感じですよね。優れたスペックかどうかではなく、おもしろいか、つまらないか、でクルマをみています。逆に、こういう点がホンダの特異性として強調されることが、日本の多くの大企業の問題なんでしょうけど。この浅木さんは80年代のF1における黄金時代を経験し、それが職業人生における自身への確信を生んだと話しています。

「BMWにもフェラーリにも勝って世界一になった。その経験があるから『やってできないはずがない』と思える。その後も、僕はそうやって技術屋人生を歩んできました」

若い時に獲得する自信って大事です。もちろん、若い時の成功体験にしがみついて挫折するパターンもあるわけですが、浅木さんは、そうではなかった。和光研究所のエッセンスを具現化したような人物であったわけです。

そんな研究所の原点は、宗一郎の右腕であり黎明(れいめい)期のホンダの経営を舵取りした藤沢武夫のアイデアだった。自分たち創業世代が去ってもホンダが輝き続けるためにはどうすればいいか――。本社から一人離れて内装が真っ黒の書斎で思考を巡らせた藤沢が行き着いたのが、和光の分離というアイデアだった。和光を「本田技術研究所」として分離独立させたのが1960年のことだ。

本田宗一郎がペアのパートナーとしていた藤沢武夫のビジョンが、80年代に和光研究所で十分に熟成されていたことが、浅木さんの言葉の端々から窺えるのです。この彼がオデッセイの開発時、V6エンジン担当だったのに直列4気筒に変更しようと独断で画策したとあります。

エンジンにカネをかけるくらいならカップホルダーを増やしたほうがいいでしょ」「馬力では絶対に負けない」と豪語する元F1のエンジン屋とは思えない言葉だ。後に浅木にその意図を聞くと「やっぱり車になってナンボ。エンジンなんてただの部品ですから」と答えた。F1で戦ってきたプライドを「異質なるクルマ」にぶつけたのだ。このミニバンがバブル崩壊後に経営危機に陥っていたホンダを救う

いやあ、たいしたものです。これを読んでみても、やはり、スペックではなく、おもしろい、おもしろくないが基準で真正面からぶつかっていく志向がみえます。そして、結果として会社の経営に多大な貢献をしている。その浅木さんの後輩で300馬力のハイパワーエンジンを開発した武石伊久雄さんは、浅木さんを次のように評しています。

浅木さんは言葉じゃない。行動が刺さるんです。絶対に他社がマネできないところまでやるんだと

そして、このようなエピソードが個人的な次元にとどまるのではなく、開発陣の文化として定着していると説明しているのが、本田宗一郎と現場のエンジニアが対峙したシーンです。

宗一郎も理想のエンジンを追い求める生涯を送った。そのためには現場で怒鳴り散らすことも日常茶飯事だった。そして最後には現場と意見が対立し、自ら社長の座を退いた。エンジンの冷却方法を巡り、「空冷」を主張する宗一郎に反して「水冷」のエンジンを貫いた技術者たちが創り出したのが、ホンダを世界的なメーカーに押し上げた低公害エンジン「CVCC」だった。そこにあったのは、社内の地位を度外視したエンジニア同士の本気のぶつかり合いだった。

このようなエンジンへの本気の情熱があるにも関わらずーーーではなく、本気での衝突があるからこそ、脱エンジンに向かう決意ができたのでしょう。

2021年4月、新社長に就任した三部敏宏が突如として「脱エンジン」を宣言した。40年までにすべての新車を電気自動車(EV)か燃料電池車にするという。三部もまた、大津や武石と同じく研究所で「エンジン屋」としてキャリアを重ねてきた男だ。エンジン屋たちがエンジンを捨てる決断を下したのだ

ホンダの面白いところは、こういう決断をしたうえで、F1へ5度目の参戦を2023年5月に決めたことです。ただ、その前に4度目のF1で苦しんでいるときの話があります。

当時のホンダのF1チームは長い歴史の中でもどん底にいた。15年から盟友の英マクラーレンと組んでパワーユニットを担当していたが連戦連敗。一度も表彰台に上がれないまま関係が瓦解していた。

だから、例の浅木さんが2017年、30年ぶりにF1のホンダを救ってくれないか?と打診を受けます。

F1を見てもらえませんか

浅木泰昭が三部敏宏から唐突に告げられたのは2017年半ばのことだ。二人はV6エンジンの開発で苦楽をともにした仲だ。浅木が先輩にあたる。三部はこの当時、ホンダの研究開発部門である「本田技術研究所」の四輪車部門のトップで、後にホンダ社長となる。

やだよ

浅木はぶっきらぼうに返したが、ここで一通のメールが頭をよぎった

さすがの浅木さんも、定年に近い年齢で泥沼のようなところに足を踏み入れたくなかったようです。部下がF1チームに異動になるとき、次のようなアドバイスをしていたくらいです。

お前が行っても砂漠に水をまくようなもんだぞ。さっさと帰ってこいよ

しかし、若い時にF1の世界で鍛えてもらったのに、このままF1での後輩たちの負けを黙ってみているのが良いのか?と自問します。そこで、定年を延長してもう一度貢献することにします。ただ、負け続ける理由が分からなかった。「他のチームがズルをしているんじゃないかとさえ思った」というのです。

もちろん、浅木さん1人に頼るのではない動きもあります。

ただ、最大の問題に関しては、すでに対策が進みつつあった。浅木が三部からF1復帰を打診される少し前のことだ。

本田技術研究所の幹部を集めて開かれたF1ステアリングコミッティー。当時研究所社長だった松本宜之の陣頭指揮のもと、四輪車の責任者である三部や、Sakuraを管轄するレース子会社トップの大津啓司(現本田技術研究所社長)らが掲げたのが「研究所の総力を挙げてF1を立て直す」だった。

ここでレース会社のトップをつとめていた大津啓司さんは、航空機に載せるジェットエンジンの開発を担う輪嶋善彦さんに協力を求めていました。必ず壊れてしまう部品を何とかしなければならなかったとき、ジェットエンジンの担当に頼ったのです。

喫緊の課題は誰の目にも明らかだった。レースで走るたびに壊れる部品があった。エンジンからの排熱を電気エネルギーに変換して出力を高める「MGU-H」という部品だ。

そして、このジェットエンジンの開発チームは、即座に問題点を見いだします。このエピソードは抜群に面白いし、いろいろなことに参考になる事例です。

大津から渡されたMGU-Hの図面を持ち帰り、和光研究所(埼玉県和光市)に陣取るジェットエンジンの研究者たちと議論を始めると、すぐに声が上がった。「軸の支持構造がおかしい。これじゃ、壊れて当然ですよ

こうして、F1を通じてジェットエンジンのチームのエンジニア育成が推進されると並行し、F1のチームもターボチャージャーの空力設計に関し、ジェットエンジンの開発チームがもっているノウハウなどを取り入れていきます。じょじょに目にみえるかたちで実績がでてくると、関係が悪かったマクラーレンチームの次に、19年よりレッドブルとの参戦というチャンスを掴みます。

その最初のシーズンである19年6月、オーストリアでのグランプリ決勝でついに13年ぶりの優勝を果たした。浅木は「うれしいというよりホッとしましたよ」と振り返る。結局、その年は3勝、続く20年は2勝を挙げた

このように上昇気流にのってきた20年9月、21年のシーズン限りでF1を撤退するとの研究所トップだった三部さんの決断を聞かされるのです。その理由は、「これからホンダはカーボンニュートラルに全力で取り組まなければならない」です。そこで、浅木さんは、F1チームの仲間たちに何と言って良いか大いに考えます。そして、最後まで闘いたいと宣言します。

「俺がF1に来なければ、もっと早くに部下を解放してあげられたんじゃないか。エンジニアとして脂が乗った数年間を無駄に使わせてしまったんじゃないか。こんな結果になることが分かっているんだったら……」
(中略)
三部のスピーチが終わると、浅木が全員の前に立った。
「みんな、聞いた通りだ。残念ながら撤退が決まってしまった」
言葉に力を込めたのはここからだった。
でも、我々には1年間の猶予が与えられた。ここから何をすべきか。最後の1年で技術者の意地を見せるんだ

最後の21年のシーズンは、開幕戦から快進撃が始まりました。そしてアブダビでの最終戦でレッドブルのフェルスタッペンがハミルトンを抜き、ドライバー部門でチャンピオンに輝いたのです。ホンダにとっても、アイルトン・セナを擁した1991年以来、30年ぶりの快挙でした。

室内で歓声があがった。肩をたたき合って抱き合う者、涙を流す者。その様子を、浅木は無言でじっと見つめていた。目に涙はない。

それから1年余り――。浅木は定年退職を迎え、ホンダを去った。ホンダが5度目となるF1への参戦を決めたのは、その直後の23年5月のことだった。

F1は単なる金食い虫ではなく、F1の経験は量産車に生きる、というのがホンダの考え方です。本田宗一郎がエンジニアに道を譲った低公害エンジン「CVCC」も、「レースを経験してきた自分たちだからできる」とのエンジニアの強い意見があったからです。だからこそ、電動化とカーボンニュートラルをコアとするF1の世界がもつ潜在力を無視できず、常にレースの現場に身をおくことに賭けるのです。

ただし、このように「異質」を重んじ、つまらないクルマを拒否し続けることをアイデンティのベースとしてきたホンダが、現在、その姿勢に相応しいクルマを出せているか?と、この記事を書いている杉本貴司さんも問いを発しています。

以上が連載3回目までの内容で、4回目、5回目と自動運転やソニーとの提携などに展開していきます。要は、エンジニアは情熱を注ぎ込む対象がクルマそのもののおもしろさではなくなった、という見方があるようにも見えるのですが、連載の最後まで読まないと連載の意図は分かりません。

しかし、この連載を読む限り、「競合他社」と同じレベルで張り合うのは避けたい、との生理的な感性はまだ生きているようにみえます。「たまたま、今のホンダがおもしろいクルマを市場に出せていない」ことを批判するよりも、そちらの企業文化の維持に注視した方がよっぽど大切だと思います。

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