見出し画像

縮尺のない世界を楽しむ テラリウム・茶道具・石庭

僕たちの日常生活では、縮尺という概念が常に存在しています。建築模型、地図、さらにはフィギュアなど、さまざまなものが縮尺を基にして作られています。

縮尺は物の大きさを比較するための基準であり、私たちが物事を理解するための重要な要素です。しかし、この縮尺の概念をあえて取り払ってみると、新たな視点で物事を楽しむことができるのではないでしょうか。

縮尺の自由

記事にある苔テラリウムやアクアリウムのように、限られた空間の中に動植物を配置し、世界をつくる楽しみ方があります。

僕は、植物だけが配置された作品を見るとと、その空間は無限の広がりを持つことができるように感じます。これは、盆栽や石庭が私たちに見せるミニチュアの世界と同じではないでしょうか。

植物だけの水槽では、縮尺を決めずに見ることができ、見る者の想像力が最大限に引き出されるように感じます。

しかし、魚が入ると、その世界のスケールが魚の大きさに依存するようになります。魚が泳ぎ回ることで、水槽内の空間が具体的な大きさを持ち始めるように感じます。

良し悪しはそれぞれだと思いますが、僕は、前者の空間の広がりのようなものが大好きです。

茶道具と石庭の景色

以前、茶道に少しばかり触れたことがあります。その際にも、同じようなことを感じました。

茶道具の中に広がる景色を楽しむとき、その道具が持つ物理的な大きさに囚われず、心の中に広がる風景を感じることができます。

同様に、石庭もその石や砂の配置を超えて、広大な景色を私たちに見せてくれます。

空間の自由な大きさ

生き物がいることで、その空間は具体的な大きさやスケールを持つようになります。生き物がいない空間は、その大きさを自由に変えて認識することができます。空間の大きさは無限に広がります。

これは、想像力を刺激し、自由な発想を促進する要因となるのではないでしょうか。

世界の変化と主体の変換

世界を変えることと、世界が変わること。

前者は、僕たちが直接的に世界そのものを変えることを指し、後者は、僕たち自身の認識が変わることを意味します。

生き物のいない世界に向き合うことで、僕たちは自身の変化をより明確に感じることができます。これは、尺度の話だけではなく、生き物という短時間でうつろう対象が存在しないことで、短時間では大きく変化しない対象を眺めることで、心に浮かぶさまざまなことの変化を、見る側の自分の変化として感じられるということでもあります。

この心に浮かぶあれこれが、空間的に自在に変化できる対象であることで、より大きく、深く、広く思い描けるということかもしれません。

こうしたことは、枯山水の禅僧やカントのような哲学者まで古今東西にわたり古くから言われてきたことかもしれません。

それでも、改めて、縮尺のない世界を自分の感覚で楽しむことは、日常生活に新たな視点をもたらしてくれるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?