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Zenの発祥地・高浜町で考えた、「まちのマインドフルネス」としてのワーケーションと3つのポイント

(カバー写真 by 島田由香さん)


お疲れさまです。uni'que若宮です。

今週は月曜日から金曜まで、福井県の高浜町で"暮らし"ていました。

というのも、コロナ禍で偶然の出会いみたいなのが減っているので、「#メンターケーション」(mentor + vacation)という企画を超絶思いつきで冷やし中華よりふわっと始めまして。。

泊まれるところ(2畳以上)だけ確保して呼んでもらえたら全国各地どこでも平日一週間泊まりに行き、リモートワークしながらお返しに現地自治体や企業の方の事業相談とかメンタリングをしますよ、という企画なのですが、その流れで今回は福井県・高浜町さんに呼んでいただいたのでした。人生初福井。


「ワーケーション」と「マインドフルネス」

なので個人的にふらっと行った感じだったのですが、ユニリーバの島田由香さんが仕掛けられている「地域 de WAA!」のワーケーション(WAAcation)WEEKがちょうど開催されている週間だったらしく(そして知らなかったのですが僕も実はそれに合わせて呼ばれたらしく)、20人くらいの方が入れ替わり立ち替わり高浜町にワーケーションにいらしていました。

夜には日替わりでトークイベント的なものも企画され、3/9には僕もちょっとトークをし(直前に知りましたw)、3/10にはウェルビーイングの第一人者・前野隆司さんマドカさんご夫妻も高浜にいらして、島田由香さん、高浜町長・野瀬豊さんの4人で、ウェルビーイングとワーケーションについて語る、というトークイベントも開かれました。

前野さんとは以前慶応SDMのシンポジウムに登壇して以来。リアルでのはじめましてがまさか福井でお会いするとは、とご縁も感じ、夜の予定をずらして町役場に行くことにしたのですが、前野夫妻によるウェルビーイングの解説は「Hapinessと幸福と幸せのちがい」や「幸せの4つの因子」など、とても勉強になる会でした。(↓4つの因子についてはVoicyでもちょっとお話しました)


この中で島田由香さんがZenやマインドフルネスの話をされていて、そこからインスピレーションを受けたのが「ワーケーション」と「マインドフルネス」の親近性。実は「ワーケーション」って「まちのマインドフルネス」を目指すべきなんじゃね?と思ったのです。


「マインドフルネス」というワードが高浜町でのワーケーションの体験と結びついたのは、いくつかの符合にインスピレーションを得たからなのですが、

たとえばそもそも島田由香さんが高浜町に関わることになったのって「マインドフルネスNLPⓇトレーナー」でもある島田さんに高浜町から「マインドフルネスプログラムをつくりたい」という相談があったのがきっかけだったり、

もっとそもそもでいうと高浜町って実はマインドフルネスの源流・禅(Zen)の聖地だったのです。世界にZenを広めた方といえば鈴木大拙さんが有名ですが、そのお師匠に当たる釈宗演さんの生まれ故郷なのですよね。ご存知です?釈宗演さん。やべえパねえ人です↓

会場には釈宗演顕彰会の伊藤彰会長もいらっしゃっていて釈宗演さんについても解説いただけたのですが、32歳の若さで円覚寺派管長家に就任(歴史的にも異例すぎてヤバい)、万国宗教会議に臨済宗の代表として出席したりルーズベルトと会見したりと、まあ世界に禅を伝えたガチ端緒の方なのですね。島田さんもおっしゃってましたが、釈宗演さんがいなかったら多分ジョブズが開花してないし、もしかしたらあなたが今これをみているiPhoneとかMacbookとかだってなかったかもしれません。

そして「マインドフルネス」も「世界語としてのZen」の先に生まれたものですから、高浜町は「マインドフルネスの源流の地」ともいえます。

そんな源流を生んだ風土だからか、高浜町に滞在してみるとたしかに「マインドフル」な感覚を感じました。島田さんはじめ他のワーケーションに来られた方もおっしゃっていましたが、高浜町は海が近く、波の音と潮の香りを五感で感じられますし、徒歩で行ける範囲に山やお寺、神社などがあって荘厳さも感じられ、一方道幅が狭い町中や港町らしい家並みからは日常生活のリラックスした空気があり、と、これらをひっくるめて"自然(じねん)"な時間が流れている。こういう環境の中っで「Zen」が育まれたんだな、という説得力があるんですね。

ワーケーション参加者で何度か高浜町を訪れている方からは、「心が疲れた時に訪れたいまち」という声もありました。(僕は無神論者で現実主義者ですがw)↓この動画のように「けあらし」(放射冷却で冷え込みが強まった日に海面に霧が発生する現象)が煙る風景とかみると、パワースポット的な土地の力やZen的なゲニウス・ロキをたしかに感じます。



ワーケーションを通じ、まちが「自分」そして「いま・ここ」に向き合う

このイベントには高浜町長(一番右)も登壇されていたのですが、面白かったのは、町長がトークの最後に

「今日は外から来られたみなさんすごい高浜町を褒めてくださったけど、実際に町の中にいる人はそういう良さはあんまりわからなくなってる…」

とか

「"心が疲れた時に来たいまち"って言ってもらえてとてもありがたいんですけど、僕は仕事で心が疲れたらどこにいけばいいんだろう…笑」

みたいなコメントをされていて、なんて率直な(笑)とおもいました。

でもこういう町長のコメントがあるのって上っ面じゃなくて良いなあとも感じました。なんというか、こういう「ワーケーション」施策とか、外の人を呼んだイベントってどうにもまちをみんなでひたすら褒める、というか悪く言えない、みたいなところってあると思うんですよね。けど、そんなに簡単でもないし良いところばっかりなわけがない

美辞麗句を並べてしまうとリアリティが消えてしまうし、そういう風に「いいとこ」だけ言ってしまうこと自体が、やっぱり「外の人」として言っているからというか、無責任さや他人事感になってしまう懸念もある。逆に、都心部から地方都市に行くと「こういうのって東京ではありえない、東京は冷たいのにすごく素敵ー!」みたいについ都心をくさしてしまうのもあるあるなのですが、都心部にだっていいとこもどっちもあるわけで、東京が悪いとこなわけでもない(そんなにいやならじゃあなんで東京住んでんだよ?っていう話ですしねw)。

まちも人とおんなじで、いいとこも悪いところもあるわけです。「住む」とか「暮らす」というのは、いいとか悪いとか割り切れないところにある。そういう葛藤ごと、住んでいるし暮らしてる。だから町長のコメントが綺麗ごとだけで終わらなかったのがよかったなあ、と。


それにしても、

実際に町の中にいる人はそういう良さはあんまりわからなくなってくる

っていうことはほんとにありますよね。僕も地元の青森県八戸市のよさがわかってきたのって超最近です。たしかに高浜町っていい町で5日間からだに馴染むような時間を過ごせたのですが、その良さって外から行ったからこそ敏感に感じられたもので、中の人が「慣れ」てしまい価値に気づけなくなるっていうのはある。

これは本当にあるあるで、まちに限らず人もそうで、自分の価値をよくわからなくなってしまうことってあります。そういう、日常の慣れの中でつい見失っていた自分自身の価値に訪れた人もまちの人も気づく、という意味でも、ワーケーションってマインドフルネスっぽいなあと思ったのです。


マインドフルネスから考える、3つのワーケーションのポイント

「ワーケーション」って「マインドフルネス」なのかも、とアナロジーで考えてみると、「よいワーケーション」のためのポイントが3つくらい見えて来ました。


①自然体である

まず、「ワーケーション」って「観光」とはちがうんですよね。「観光」では、訪れる人は「お客さん」で、きれいなものや歴史的遺産などいわば「外向けのコンテンツ」を観て、まちの日常は見ずに帰ります

これって「ばっちりメイクの顔」しか見たことないみたいなもので、身綺麗かもしれないけど、本当のそのまちらしさまでは見れていない気がします。よく「関係人口」と言われますが、ばっちりメイクしかみたことがない「関係」ってちょっと表層的というか一夜限りとかお金の関係(「お客さん」)に近い感じがします。 一緒に過ごす深い関係になるにはすっぴんもみせられないとちょっと息苦しかったりしますよね。

「ワーケーション」を「まちが自分らしさに出会いマインドフルネス」だと考えれば、お化粧した顔を見せようと考えるのではなく、「まちのすっぴん」みたいな「自然体」であることが大事でしょう。そしてまちがそんな風に自然体であるからこそ、訪れるひともまた自然体であることができる。なので、ワーケーションにおいては「観光」のような取り繕われた関係を超えて「暮らす」という息づく感じがだいじだとおもうのです。(そういう意味で高浜町の民宿文化はとてもフィットしました)


②呼吸を意識する

マインドフルネスの導入で大事なのは「呼吸」への意識です。「呼吸」とは「吸って、吐く」、つまり出入りがあること。この「出入り」がけっこう大事なのかも、と思っていて、なんというかやっぱり流れが止まると淀むんですよね。

息を止めてしまうと緊張でからだは固くなるし、自分が見えなくなる。だからこそ今回のイベントのように、外から来た人と呼吸する(ただし外向けの「観光」ではなく自然体で)ことで、やっと内なる自分に目が向いてくるっていうことってある気がします。

逆にいえば、「なにか観光の目玉をつくらなきゃ!」と考えてるまちって多いんですが、それって「外面」ばかり気にして自分から意識が逸れてしまっていて、「マインドフル」と真逆のマインドレスな状態なのかなと。


③いま・ここに集中する

以前、東邦レオの吉川稔さんが隈研吾さん、齋藤精一さんとやっていた「地球OS書き換えプロジェクト」で古川秘馬さんと対談した時、

「これまでの観光は過去をみせて人を呼んでいる。しかしいま、特に過去の遺産がなくてもこれからなにか面白いこと始めていこうとしている場に人が集まり始めている。これからの観光は未来をみせることが大事」

という超名言をされていました。これって「過去」だけで食っていこうとするのではなく、かといって一足飛びで未来を考えるのでもなく、まずは「いま・ここ」に集中してみることが大事ということではないでしょうか。

マインドフルネスでは「いま・ここ」を意識することで過去や未来のことに囚われる状態を脱します。まちも過去の遺産にだけ頼ったり、2050年ビジョンとかをぶちあげて再開発をしたりするよりも、まずはいまあるもの、そしてここに集まってくる人を大事にするべきなのかもしれません。


ワーケーションは「誘致」ではなく「マインドフルネス」だと思ってみる

「ワーケーション」という言葉は昨年くらいからちょっと流行っています。

でも、ワーケーションって、「誘致」とか「観光コンテンツ」として考えるのはちょっと違うのでは、と思うです。小綺麗さとか快適さとかエンタメを求めるのなら「観光」でいいわけですが、ワーケーションを観光の一施策と考えてしまうとうまくいかない気がします。

あるいは逆に、まちの人の中には「ワーケーション」に対して、「よそものを呼んできて盛り上げてどうする」とか「住む気もない一過性の人と交流しても意味ない」と斜に構えるケースも多い気がします。

これはどちらももったいないし、「ワーケーション」の本質ってそういうことではない気がするんですよね。それでは「マインドレス」なワーケーションだという気がします。


外面を飾ったり過去や未来に囚われることから解放され、お互いに「自分」になるきっかけ。それがマインドフルなワーケーションではないでしょうか。

訪れた人も(「観光」では意識は外に向いてしまいますが)自然体のまちの「中」で暮らすことで「自分」になれる。「まち」自体にとっても、外との出入り=呼吸を感じることによって、忘れていた自然体の「自分」の価値に気づき、「いま・ここ」に改めて向き合うきっかけになる。

そういう二重の意味で、ワーケーションは「マインドフル」を重視すべきではないかと、この5日で思った次第です。


ワーケーションを「関係人口施策」として企画しているまちのみなさんはぜひいま一度、「外面ばかり整えてないか」「呼吸を止めてないか」「過去や未来ばかり考えていないか」という観点で施策を見直してみてはいかがでしょうか。




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