「残酷なコモディティのテーゼ」に立ち向かう2020年代のクリエイターに必要な資質
書き終えたら文字数6000字になったので、最初にまとめ置くことにしました。今日の話は以下が結論です。
1.この世界は人間も含めてコモディティ化の波を避けられない
2.そこで生き抜くためには、常に「未踏の領域」を見出し続けなくてはいけない
3.そのためにはコミュニケーション能力が必要だよ
これだけ。で、本論は 「(3)回避策2「絶対恐怖領域」」以降なんで、本論だけしゃしゃっと読んでいただける方は、下の目次より飛んでください。よろしくお願いします。
(1)残酷なコモディティのテーゼ
先日こんなことをツイートしました。
そして次のツイートで「文字数足りなくて書けなかった部分は分かり切ってる結論だけど、そのうちnoteに書くか。」と書いたら、いつもこういうことを書くたびに僕にメッセージを打ってくる友人Yから「分かりきってる結論ってなんですか!?教えてください!!note書いてください」と、暑苦しいメッセージが来た。こんなこと書かなきゃよかったと思いながらも、書いてしまったからには責任とって続けなきゃいけないので、以下、続きを書こうと思います。くそう。
その前に前提を確認しておきますね。
2020年代においては、全てがコモディティになる。モノも情報もクリエイティブも人間も、全てが「代替可能な存在」として扱われるようになる。
これが人類が迎えつつある「残酷なコモディティのテーゼ」です。もちろん、一人一人の個人は、いつだってオンリーワンで大事です。理念として、人は一人一人大事にされなくてはいけない。でもその理念が残酷に無視される場所があって、それこそが利潤を追求する場所、つまり経済においてです。そこでは物も人も、単なる歯車の一つにすぎない。突出した偉人であるスティーブ・ジョブスやイーロン・マスクでさえも、いなくなったら他の誰かがその「隙間」を埋めるだけです。代理できない人はいないし、代理できない商品もないし、代理できないクリエイティブもない。レオナルド・ダヴィンチが現代に生まれ変わったとして、天才的な創作物を作り出したとしても、その創作物のエッセンスを取り込んだ超高品質で、ほとんど見分けがつかないほどの別の創作物が、数ヶ月後には山のように出るでしょう。何か注目を集め、何かが価値があるとなると、その情報は一気に解体されて流通して、ほぼ同じクオリティのものが出現するようになるんです。しかも大量に。これが現代の超高速情報流通社会が生み出した「コモディティ化」です。そんな状況に対して、あなたは言うかもしれない。
「オリジナルに敵うわけがない!」
その通り、常にオリジネーターの作り出したクリエイティブは、代替不可能な「アウラ(魂)」を有したものとして永遠に生き残り続ける。ところが市場の方は極めて残酷なんです。1億円のオリジナルより、100万円の「ちょっとオリジナルよりは劣るかもしれないけど、ほとんど見分けがつかない高品質な代替物」を選びます。そしてさらにその後は、10万円の「さらにちょっとだけ劣るけど、かなり人を満足させてくれる高品質な代替物」を市場は選びます。こうやって、オリジナルのオリジナリティは神棚に棚上げされ、代替物(コモディティ)の方が我々の生きている世界の周りに溢れかえることになります。
こんな世界になるんですね、20年代は。というより、もうそうなってます。そしてそのような世界で生き抜けるのは、「オリジナルな1個」を作る天才ではなく、「オリジナルとほぼ同等の高品質を100個」作れる集団であり、現在の資本主義経済においては、各ジャンルの一番上を走り抜ける大企業だけです。それが上のツイートで書いたことです。Appleやトヨタのような大企業だけが、コモディティ世界において潰れることなく、ずっと「高品質の100」を作り続けることのできるリソースを維持できるんです。
ちょうど日経でも、まさに今、日本経済の核心的な問題の一つが「コモディティ」であることが、このように指摘されていました。
日本企業の低収益性については様々な要因が考えられる。そもそも一つの産業に参入企業が多すぎること、いまだに一括採用・終身雇用が主流で労働市場の流動性が乏しく人材が高付加価値企業に流れにくいこと、人口減少社会にもかかわらず労使ともに雇用最優先のパラダイムから脱却できないこと、商品やサービスに独自性が乏しくコモディティー競争に陥りやすいこと、などが指摘される。(下の記事より引用)
ある程度大きな企業でさえ、コモティディの泥沼に陥ると一気に苦境になる世界において、「オリジナルの1個」を常に作り続けることを運命づけられた職業であるクリエイターが生き残るのは、一部の天才を除いて、基本的には不可能です。我々は巨人に駆逐される人類のようなもんです。僕らの世界にはリヴァイ兵長もいなければ、エレンもミカサもいないんです、コモディティという巨人と正面から戦えば、僕らの方が全員駆逐される。
だから、回避しなければいけない。でも、どうやって?そこが問題です。That is the question.
(2)回避策1(読まなくてもいい回避策。ダメな例)
最初に思いつくのは「コモディティ化を避けるクリエイティブをすればいい」です。確かにそれがコモディティの荒波に立ち向かうための究極の選択の一つです。でもこの選択には、一つ重要なファクターがあって、それを守らない限り、この選択肢は取れないんです。そのファクターとは何か。
「インターネットに繋がないこと」
です。作ったものを絶対にインターネットに発表しないこと。コモディティに必要な素地というのは、情報の超高速大量伝達なんですが、そのような情報流通を可能にする基盤こそがまさしくインターネットなわけです。だから、コモディティを避けたいと思うなら、インターネットに自分が作り出したものを絶対に発表してはいけません。もし友人や家族がネットに繋いでいたとしたら、そういう人たちに見せてもいけません。これから我々が進んでいくのは、ネット or dieという世界です。ネットにほんの少しでも繋がった部分があると、全てはネット上に共有される世界がくるんですね。だから本当にインターネットを避けてクリエイティブをするには、家族や友人たちにも見せては行けないんです。
はい、無理。無理ですよね?絶対無理。ていうか、そもそも作ったもの、クリエイティブをネットに載せずに、どうやって価値を生み出したらいいのでしょうか。もちろん、歴史上の大クリエイターたち、たとえばヴァン・ゴッホに倣って、死後に価値が生まれることを期待するという手法もありかもしれませんが、ちょっと流石にそれは本末転倒です。僕らはできる限り、幸福な人生を生きたいわけで、そのためにはこの酷薄な経済システムを、何とか乗りこなさなきゃ行けない。そしてインターネットはもはや経済の核心そのものでもあります。情報が流れるところに価値が生まれるわけですから、まさしくそれは経済そのものです。今なら天空の城ラピュタのシータだって、こういうことでしょう。
「どんなに恐ろしい武器を持っても、 沢山のかわいそうなロボットを操っても、ネットから離れては生きられないのよ!」
シータ、それはきつい。いやでもそうなんです、自分の一部を情報としてネットに流通させることなしには、弱い個人のクリエイターが生きることなんてもはやできないんですね。そしてほんの少しでもネットにつながれば、いずれ全ての情報は、全員の目に晒されることになる。隠れてようが、匿名だろうが、逃げることなんて不可能。そして自分の作ったもの、発想、意見、文章、感情、存在。全てコモディティと化して、代替物の海の中に埋没してしまうことになる。
だから、「インターネットに繋がない」という策はだめです。それは問題解決にならない。
(3)回避策2「絶対恐怖領域」
僕らは、諸刃の剣であり呪われた魔法の杖であるインターネットを使うしかない、これはもう動かせない命題。では、その状況で実際に何をやるのか。それはいつも言ってることなんですが、価値の生まれる「場所」を新たに探すか、作るしかない。そう、「まだ誰も歩いてない未踏の獣道」を見つけるしかないんです。そしてそれを広げて、「未踏の大地」を切り開くしかない。すでにあらゆる領域がレッドオーシャンなら、まだ、共食いの血が流されていない青い海を探していかなければならない。
その辺りはこのあたりに詳しく書いたんで、ぜひ見てください。
で、今日一番伝えたいのは、そのような「未踏の大地」を作るためには何をしなきゃいけないかという話。これが大事!!前置き長い、ここから本論がやってくる、ヤァヤァヤァ!!
=*=
これまで、クリエイティブの能力は、当たり前ですが「自らの作品を創り出す力」であると考えられてきました。それはもちろん、間違いないです。でも20年代のクリエイターたちは、その自ら作ったクリエイティブの価値を、再定義し、再発明し続けといけない。そのためには、自分のクリエイティブの価値が多面性を持つような、「別の場所」を探し出す力がなくてはいけないんです。逆にいうと、一義的に自らのクリエイティブの価値を限定してしまうと、どこかで息が続かなくなる。
たとえば写真なら「写真的美しさ」だけで勝負していると、たった一つの評価軸だけでクリエイティブが完結してしまう。それをもしかしたら、別の側面、たとえば「商品広告としての可能性」「本の表紙としての可能性」「アニメクリエイターとのコラボの可能性」「ミュージシャンとのコラボの可能性」、自分の写真に多面的な解釈の余地を見出してあげること。そこに自らの「クリエイティビティ」を発揮するんです。その力とは、まさに「価値の再解釈の力」に他なりませんし、そのような解釈によって、未踏の領域へと第一歩を繰り出す「探検家の資質」でもあります。
でも、それだけでは足りない。自分の写真自体の価値を再定義するだけでなく、その価値を適切にまとめ上げる力、ディレクション的な才能も必要になります。自分がこれまでいたところと違う他のジャンルに繰り出していくということは、そのクリエイティブに関わるステークホルダーの数が増えるということです。それだけではないです。たとえば写真家と、動画クリエイターと、ライターと、ミュージシャンが集まって一つのクリエイティブを作るなんてこともあるかもしれない。そうなってきた時に必要なのが、まさに「ディレクター」としての側面。利害を考えて、適切に情報を配置して、クリエイティブをまとめ上げる力を培っていくこと。そしてそのような力は、未来の可能性を信じて、適切にリソースを配分する「投資家の資質」でもあります。
でも、これだけではまだ足りない。さらにその作り上げたものを対外的にストーリーとして的確に伝えることのできるPRの才能が必要です。この記事では、インターネットこそがまさにコモディティ化の核心的な領域であると同時に、我々クリエイターが生き残るために使わざるを得ない諸刃の剣として規定しています。そのコモディティの湧き起こる源泉であるネットに対してATフィールドを展開しながら、同時にネットの中においてクリエイティブの独自性を適切に「見える化」し、そして可能な限りコモディティになる瞬間を後へ後へと押し戻すためには、PRの力が必要なんです。そしてそのような資質は、コンサルタントの資質でもあります。物事のリスクを早々に摘み取りながら、それが世の中においてどのような位置を占めることになるのかを適切に見抜いて、理解し伝達する力です。
こんなふうにまとめると、20年代の写真家も含めた今後のクリエイターには、すごくたくさんの能力が必要に見えます。世界を解釈する目を持ち、その目で未知を発見する探検家の要素、その未知にリソースを適切に配分する投資家の力、同時に未知を的確に仲間内に伝えて価値を形成するディレクター的要素、さらにはようやく作り上がったものを「外」に向けて目に見える形にするPRと、リスクマネージメントも含めた対外的なストーリー戦略を創り出すコンサルタント的能力、これらを要求されるようになる。何だこれ、めっちゃ大変じゃん!となりますよね。でも、安心してください。実はこれらは、ある一つの根底的な資質が、別々に発露しているに過ぎないんです。その「一つの根底的な資質」とは、それぞれの段階において、人々を説得するために必要なストーリーを構築して共有するための要素、言葉の力、すなわち「コミュニケーション能力」なんです。
(4)全てを統べる「一つの指輪」としての「コミュニケーション能力」
言葉は、もちろんクリエイティブにおいて単体で現れる媒体でもあります。詩や小説のように、言葉だけで構成されるクリエイティブもあります。一方、僕のいるビジュアル領域においては、言葉がなくてもクリエイティブも成立する場合もあります。そのどちらにおいても、作られたクリエイティブの「周囲」に、言葉が必要になってくるんです。そう、クリエイティブと他者を結ぶための言葉、すなわち、「コミュニケーション能力」です。これこそ、全てのクリエイターが20年代において絶対的に獲得しなければいけない能力です。「指輪物語」で言うならば、全てを統べる「ひとつの指輪」です。
例えばその能力は、言葉で展開されている小説でさえ、その小説を語るための別の「言葉」が必要になるということを意味します。たとえばかつて、ほとんど表に出てこなかった作家、村上春樹のような作家でも、自らの「言葉」を読者と共有するコミュニケーションを始めました。
村上春樹はそもそものスタートが自らのバーのマスターだったわけで、おそらくは独特の親密なコミュニケーションが得意だった人物だったと思うんです。小説を読んでるとそんな想像ができちゃうんですね。でも、そのような力を長らく自らのクリエイティブである小説とは切り離してキャリアを展開していらっしゃった。
でもこの数年、かつてはカーテンの向こうに秘されていた「作家・村上春樹」が、カーテンのこちら側に随分と出てきてくれるような、そんな印象を持ち始めるようになった時、ああ、そうかと得心したんです。村上春樹でさえ、やはり「コミュニケーション」を必要とする時代なんだと。村上春樹は、もはやコモディティさえ打ち砕くほどの強度のある創作をされている、日本では唯一無二の作家です。その彼でさえ、時代が強制する物語の希薄化に抗うかのように、これまで使うことのなかった極めて直接的なコミュニケーションを行う姿が見られるようになったと言うことは、今最前線で戦うクリエイターにとっては、大きな示唆となるものです。つまり「作って終わり!はい評価してね!」の世界では無くなったんです。
と言うわけで、今回も割と絶望的な見通しを語ってるんですが、毎回毎回同じことを言ってます。まとめると。
1.この世界は人間も含めてコモディティ化の波を避けられない
2.そこで生き抜くためには、常に「未踏の領域」を見出し続けなくてはいけない
3.そのためにはコミュニケーション能力が必要だよ
以上です。でもこれ、何度も何度もいう必要があると思うので、今回も話し方を変えて書きました。多分また別のトピックを、この論旨で展開すると思います。そして、そうやっていつも同じ話を、別の形で展開することもまた、「残酷なコモディティのテーゼ」へ立ち向かうための重要な身振りの一つだと思ってるんですが、それはまた別のどこかで書きますね。
今日はこの辺で。アテブレーベ・オブリガード!