「アート思考」について学ぶときに気をつけたいこと
こんにちは、臼井隆志です。今月からCOMEMOにて記事を書かせていただくことになりました。
ぼくは子どもとアートに関わるワークショップデザインの仕事を10年ほど続けてきました。決して世の中心ではありませんが、アートに関わりその恩恵を受けてきた身として、アートや教育のトピックについて記事を書いていきたいと思います。
今日は、昨今話題になっている「アート思考」についてです。
2019年のビジネスのトレンドとして「アート思考」を挙げる人も多いはずです。不確実で変化が速く複雑な時代の中で、他者からの依頼や市場のニーズだけでなく、”アーティストのように”自分を起点にゼロから1を生み出すことと提唱するのが「アート思考」と呼ばれているようです。
各所で様々な講座が開催されており、そこに参加した人たちの感想ツイートで「アート思考を使ってゼロイチを生み出すぞ!」とか「デザインもいいけど、これから大事なのはやっぱりアート。定期的に美術館に行って刺激を受けよう」といったものを見かけます。
しかし、こうした「アートを使う」とか「刺激を受ける」といった言葉にぼくは、ちょっとざらっとした気持ちというか、一抹の違和感を抱いてしまいます。
アーティストの考え方を「使う」ために美術館に行くのでしょうか。アートを見て「刺激」を受ければ、あなたの中の何か変わるのでしょうか。そのようなビジネスへの有用性のためだけにアートを見ることは、そもそも本当に可能なのでしょうか。
今ぼくたちが見ることができるアート作品は、人類がこれまで積み重ねてきた創造性の歴史の賜物だと思います。そして、アーティストたちはその歴史へのリスペクトを持って新たな作品を生み出しているはずです。
そんなに簡単に「使う」ことができるでしょうか?作品から視覚的な刺激を受けたあなたの身体は、どのようにその刺激を解釈したのでしょうか。そのことを簡単に言葉あるいは別の媒体に変換して表現することができるでしょうか。
この「アート思考」ブームを横目に見ながら、一過性で終わり、「アート思考」を学ぼうとしていた人たちが「結局よくわからなかった」といって、アートをないがしろにする未来が見えてしまうようで、辟易としているアート関係者の方も少なくないでしょう。
アーティストのように考えたいと思うことは自由ですし、素晴らしいことだと思います。多くの人が今「使おう」としているアートは、アーティストだけでなく、学芸員や芸術祭のアートマネージャー、設営を担当する技術者など、様々な人々の不断の努力とその歴史の上に成り立っているはずです。
テッド・チャンのSF小説『息吹』の中で、こんな一節が出てきます。
「願わくは、あなたがたの探検の動機が、単なる貯蔵槽として使える他の宇宙を探すことだけでなく、知識への欲求、宇宙の息吹から何が生まれるかを知りたいという切望であってほしい」
単なるビジネスに有用なリソースとして使えるものを、アートだけでなく、デザイン、マインドフルネス、遊びといったものから搾取してしまうことを望んで行う人は誰もいないでしょう。
しかし、無自覚に搾取し、土壌を荒廃させることだけは、気をつけなければなりません。
ぼくも、一人のアートファンとして、アートという宇宙の息吹から何が生まれるのかを知りたいと切望し、人類の創造性の歴史に参加したいという衝動から、アートの周辺でできることを考えていきたいと思っています。
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アート思考の実践には、例えばこんな事例があります。
講師に、現代アーティストの長谷川愛氏、キュレーターの高橋裕行氏の他、特別ゲスト講師としてメディアアーティストの藤幡正樹氏が参加するという豪華な顔ぶれのなかで、レクチャーとワークショップを交えて3日間で「アート作品」を作ることを目指したプログラムです。
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写真は東京都現代美術館MoTアニュアル「Echo after Echo 仮の声、新しい影」展より。
ヘッダー:鈴木ヒラク
文中 :吉増剛造プロジェクト|KOMAKUS + 鈴木余位