欧州復興債は「新たな安全資産」の誕生か?
ハミルトン・モーメントを見極める時
1年前、市場を賑わせたEUの復興基金が遂に稼働し始めました。6月15日、欧州復興基金が初の債券発行(10年債、2031年7月満期)による資金調達に踏み切り、200億ユーロの募集に対し1420億ユーロと7倍の注文を集めたことが報じられています:
欧州委員会の計画では2021年末までに800億ユーロ、2026年末までに8000億ユーロが発行される予定です(償還は2058年まで)。なお、復興基金の正式名称は「次世代のEU(NGEU:Next Generation EU)」であり、文字通り、パンデミック後のEUの未来を創生するための財源と位置づけられます。EUの今期多年度予算(2021~27年度予算)である1兆743億ユーロに、NGEUの7500億ユーロが加わり、総額1兆8243億ユーロにおよぶ大規模予算が環境やデジタル化といった分野に投じられます。
直近の経緯を少し振り返っておきましょう。EU経済・財務相理事会(ECOFIN)は5月31日、NGEUの独自財源に関する批准を完了し、6月1日からこれが発効しました。これにより総額7500億ユーロの共同債券(以下NGEU債)発行を通じた資金調達が法的に可能となりました。上述で「8000億ユーロ」の調達計画とされているのは、将来の物価上昇を加味すればその金額が実質的に約7500億ユーロに相当するという話です。ちなみに、NGEUの中でもいくつかの費目に分かれており、中核は7500億ユーロのうち6725億ユーロを占める「復興・強靭化ファシリティ(RRF:EU Recovery and Resilience Facility)」です。このRRFの支援を受けるための復興・強靭化計画が提出され、その承認プロセスを経て必要な加盟国に財源が行き渡ることになります。まず、当面のEUではその承認プロセスを迅速化が求められます。
ちなみに、米国の初代財務長官であるアレキサンダー・ハミルトンが各州の債務共通化(財政統合)に奔走し、今日の米ドルの礎を作ったことにちなんで財政統合による合衆国誕生の瞬間を「ハミルトン・モーメント」と呼ぶことがあります。今後はNGEUの下での債券発行がハミルトン・モーメントに発展して行くのか見極める局面に入ります。NGEU債の誕生がハミルトン・モーメントに相当するかどうかは即断できませんが、長期的な視点に立てば市場参加者にとって一大テーマでしょう。
世界的な安全資産不足への一石
実際、安全資産は世界的に不足しています。だから世界的に金利が消滅しているのです。NGEU債は当然最高格付であり、今後流動性が伴ってくれば米国債に次ぐ「新たな安全資産」になる可能性は注目されてくるでしょう。冒頭で紹介した初回発行の好調な滑り出しは、安全資産市場に一石を投じる存在としての注目度の高さを感じさせるものです。既に欧州委員会はコロナ禍の雇用維持を企図したプログラムである「緊急時の失業リスク緩和のための一時的支援策(SURE:The temporary Support to mitigate Unemployment Risks in an Emergency)」の資金として900億ユーロのソーシャルボンド(SURE債)を発行しています。「社会問題解決のための資金」という時流に叶った発行方式もさることながら、「欧州委員会発行の債券」という事実が評価ポイントされたものと見られます。
NGEU債の発行予定額はSURE債(総額1000億ユーロ)の8倍であり、年限も長期間にわたります。また、SURE債同様、NGEU債も、発行総額の約30%に相当する2500億ユーロが環境債(グリーンボンド)で発行される予定であり、これにより「金融市場における最大のソーシャルボンド(ESG債、サステナブル債など呼称は色々だが、ここではソーシャルボンドと呼ぶ)発行体になる」と欧州委員会は標榜しています。環境分野で主導権を握り、規範を作っていきたいEUとして政治的な思惑を大いに含んだ財政計画であることもポイントでしょう。ESG礼賛ブームへの賛否はさておき、現状を前提とすれば「欧州委員会の発行するソーシャルボンド」は引く手数多と予想します。
まだ米国債市場の半分以下という現実
もちろん、世界で最も流動性に優れ、格付けも高い米国債と、生まれたばかりのNGEU債を比較するのは時期尚早です。政府債務残高(2020年、IMF)をラフに国債市場の規模と見なして比較した場合、ドイツ、フランス、イタリアの3大国にNGEU債の発行総額(8000億ユーロ≒9760億ドル、1ユーロ=1.22ドル)を乗せても約10兆ドルです。これは米国の半分以下であり、日本と比べても小さいです。ユーロ圏GDPに対して60%程度の金額であり、単一通貨導入のためのマーストリヒト基準から逸脱していないことが分かります。安定・成長協定のような財政出動に関する制約がユーロ圏経済および単一通貨ユーロの発展を妨げているとの論調は根強いですが、ユーロ圏として「国債を発行させない」仕組みを整えることに執心してきた歴史が、こうした国債市場の規模の違いにも表れていると言えます(それが良いことか悪いことかは色々な議論があると思いますが、ここでは避けます):
また、信用格付けで言えば、ドイツ国債は最高格付けですが、イタリア国債はもちろん、フランス国債も最高ではなく、「ユーロ建ての安全資産」と言った場合、ドイツ国債くらいしか存在しないという現状があります。そうした「信用力の分断」が、投資家にとってユーロ建て資産の運用を難しくしている面は否めません。「第二の基軸通貨」という大仰な言い方をするかどうかはさておき、欧州委員会がユーロの利用を一段と促し、外貨準備などにおける保有・運用も期待するのであれば、NGEU債の継続的な発行と保有主体の多様化は追求すべき1つの道でしょう。
実際のところ、今後米国債に次ぐ安全資産が登場するとすれば、それはNGEU債以外に考えられないのも事実です。過去のnoteへの寄稿『世界の外貨準備運用でドル離れが進んでいる各国政府の準備資産はどこに向かっているのか』で詳しく議論しましたが、外貨準備のドル離れ並びに運用多様化は四半世紀の潮流であり、NGEU債の安定した発行が軌道に乗ってくれば関心を持つ海外金融当局は少なくないでしょう:
なお、何かにつけて「買うものがない」という窮屈な状況に直面しやすいECBの金融緩和においてもNGEU債の存在は重宝されるのではないでしょうか(欧州委員会発行の債券をECBが購入するという構図が健全かどうかはさておき)。
気の長い話となる恒久化議論
もちろん、NGEUという名称はあくまで現行の多年度予算における用語であって、あくまで時限的な枠組みです。当然、NGEU債も時限的な資金調達手段にとどまるので、それゆえに「復興基金合意はハミルトン・モーメントではない」という主張もあります。しかし、既存の危機対応基金である欧州安定メカニズム(ESM)も欧州金融安定ファシリティ(EFSF)という時限的な存在から発展したものであり、これが債務危機の最中に恒久化されたという経緯があります。危機が仕組みを変えたのであり、今回もパンデミックがなければNGEU債など到底実現していないでしょう。結局、ハミルトン・モーメントかどうかは事後的にしか分からないと思います。
現行の多年度予算が終わる頃、次の多年度予算(2028~34年)を検討する際に、債務共有化は正式に議論されることになるでしょう。筆者は共同債券市場の拡がりは結果的に域内資本市場に厚みをもたらし、通貨ユーロの価値安定にも繋がる有用な動きだと考えています。もちろん、その道のりはいつも通り、非常に多くの内輪揉めを乗り越え、折衷案に折衷案を重ねる必要があるのでしょう。それでも完成形に至るかどうかは確証が持てません。域内共通の財務省を作り、共通予算の下で共通債券を発行して共通の財政政策を運用するという欧州合衆国への大きな一歩は「今世紀中に可能かどうか」というくらいの超長期的目線で進展を見守る必要があると思います。
P.S
このnoteの表紙写真は筆者がEU本部勤務時代に撮ったもので、欧州理事会(EU首脳会議)をやる場所でもあります。
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