美徳・美談に気をつけよう 〜宝塚問題で改めて思うこと
お疲れ様です。メタバースクリエイターズ若宮です。
今日は「美徳・美談に気をつけよう」という話を書きます。
宝塚の過酷な環境
先日宝塚劇団員の方が亡くなり、劇団側の体質の問題がニュースで話題になっています。
宝塚の問題は大きく言って、①パワハラやいじめと②過重労働の2つが原因だと言われています。
パワハラについてはこちらの記事で、
元劇団員の東小雪さんが証言をされています。
僕は基本的に、人間は閉鎖的・同質的な環境に置かれると容易に狂う、と思っています。そしてこれは個人の人間性だけの問題ではなく、社会心理学的な環境や構造の問題です。
自ら当事者であった時に証言をすることは勇気がいることですが、真摯にも東さんが語っているように
加害は再生産されます。
僕も学生の頃に覚えがあります。自分の経験を振り返っても、昭和の部活動やいわゆるヤンキー文化的な上下関係の中で、似たようなことがありました。「やられる側」だった時にはつらい思いをしたにも関わらず自分が先輩になると「やる側」になる。今でいえばパワハラに当たるようなことに自分は与しなかった、とは言えません。
もう一つの問題である過重労働についても、(「24時間働けますか?」というCMが流れていた時代でしたから)僕自身若い頃には100時間くらいの時間外労働をしたことがあります。しかし時代は変わり、大企業での過労死などを機に働き方労働が言われ、労働を取り巻く環境も大きく変わりました。
亡くなられた劇団員の方は残業時間が月118時間以上でしかも適正な報酬もなかったとのことなので、令和の時代とは思えない、違法なほど劣悪な「ブラック」な職場といえます。
変革に対しての抵抗や批判、旧態の擁護が再生産を生む
昨今の某事務所の件なども含め、問題があった時に名前の出た個人や特定の団体を叩くだけで終わるのではなく、業界や社会全体として変革を考える機会にすることが大事だと思っています。
過去にメディアや広告業界でも過労死があり、それをきっかけに企業では労働環境の改善が行われました。本当は何かが起こる前に改善できたらいいのですが、人間はあまり賢くないのでこうした痛ましいことが起きてからしか変われないのが残念です…
とにかく今回のことをきっかけにして、宝塚はもちろん、演劇などのエンタメやアート業界で、また他の業界でも今のやり方が適切かどうかを見直し、改善されることを望んでいます。が、変革しようとするとそれに対する批判や従来のやり方への擁護が出てくることがあります。
例えばパワハラや体罰について。僕らの時代には学校での体罰が日常茶飯事でした。今はパワハラや体罰についてはだいぶ社会の目が厳しくなりましたが、今でも上の世代から「自分たちの頃はあれくらい当たり前だった」「なんでも体罰とかいうから軟弱になるんだ」「厳しくしないから子どもがつけ上がる」などパワハラや体罰を擁護する意見が出されるのを耳にしたことはないでしょうか。
また過重労働についても、調査結果によると宝塚ではそれが常態化していたようで、宝塚の歌劇は現状、劇団員の長時間労働や搾取の上に成り立っていると言っていいと思います。すると、これを変革し時間外労働を減らすと劇の準備などが回らなくなったり練習時間が減ったり、あるいは労働コストを吸収するために派手な演出がカットされたりすることもあるでしょう。
そうなった時、古参のファンからは「昔の宝塚はよかった」「命を削ってつくりあげていたから美しいのだ」「厳しい下積みがあってこそよい俳優が育つ」と変革に対する批判や過去の擁護が出てきがちです。
日本には「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という諺があります。これは一定真実だとは思います。自分自身を振り返っても若くて体力があるうちに色々やっておけばよかったなと思うこともありますし、その頃のガムシャラさや無茶が今に繋がっているところもあります。
僕はアートも好きなので、作者が本当に心血を注ぎ命を削るようにしてつくった作品の強度というか凄みみたいなものもよくわかります。
こうした若い頃の苦労話は武勇伝になりがちで、作品を作るために命を削ることも美徳や美談になることが多いと思います。しかし、こうした環境をそのままに再生産してよいものでしょうか?
作品はもちろん大事ですが、人の命を犠牲にしていいかというと僕はそうは思いません。もちろん、人命を犠牲につくられた巨大な宗教建造物にため息をつくこともあれば、自ら命を絶った芸術家の絵が時代を超えて人の胸をつくこともあります。そうした作品を否定するわけではないですが、それは結果論だし、だから人が犠牲になってもよい、と開き直るべきではないと思うのです。
東さんの証言には「ある種の文化として罵倒するというのがあった」とあります。「罵倒する」のが「文化」でよいのでしょうか?
そもそも、いい作品をつくるために過酷さを許容するか?/作品を諦めるか?という二択になっていることがおかしいと思うのです。作品や文化を大事にするなら、環境を改善しつつ良い作品を作るべく知恵を絞るのが本当にすべきことではないでしょうか。
美徳の衝突が変革を妨げる
なぜならこれまでの状況をそのまま正しいとして続けるのは、サステナブルではないからです。SDGsというのは、内部に搾取や無理を内包したこれまでのやり方では健全に続いていけないので、そのやり方を見直していきましょう、ということなはずです。
一方で、こうした変革を進めるのは簡単ではありません。そこに「美徳の衝突」があるからです。
たとえば、昭和生まれの僕にとっては「大黒柱として稼ぐ」「女性を守る強さを持ち弱音を吐かない」「口説くのは男から」「小さなことは気にせず粗野に」みたいなのが「男らしさ」の美徳でした。
こうした美徳の中で育ってきた男性にとって、たとえば仕事で女性に負けることは「男らしさ」に反します。あるいは「男子厨房に入らず」といわれ家事をすることや小さいことに気を使うのは「女々しい」ことで、「口説くなら男から」とか「粗野」が染み付いた振る舞いがセクハラやパワハラにつながってしまったりします。
これは何も男性だけのことではありません。家庭を守り男性を立てることが「女らしさ」の美徳だった世代との間で、女性同士でも美徳の衝突があります。
文化や美徳というのはどれがよいというものでもありませんし、不変・普遍でもありません。場所や時代が変われば変わります。しかし、自分がそれを美徳として育てられ、信じてきた価値観を変えるのは簡単ではありません。
簡単ではありませんが、変わらなければ古い価値観を再生産し続けることになります。そして丁寧にそれを解きほぐしてみるとアップデートできることはちゃんとあるはずです。
年上の方に敬意を持つことは良いことです。しかし、上下関係として厳しい扱いを受けることが本当にリスペクトなの?というのは思考停止せずもう一度考えてみる必要があります。また、長時間労働が本当に良い作品をつくるために必要なの?そしてそれは有効なのか?も見直すべきではないでしょうか。
体育会の部活動では、過去には当たり前だったうさぎ跳びや水分摂取制限などが、今ではスポーツ科学の観点から見直されています。
美徳やマナーは本人の選択、周りは押し付けず、むしろブレーキを
上記のように、僕は美徳というものは常に見直されていった方がいいとは思っています。しかしそれでも、各人がある美徳を信じることは個人の自由かなとも思っています。
たとえば自分は男らしく強くあろうとか、年上の人には礼儀正しく接しようとか、上司に絵文字を送らない、とか、それは自由です。でも、美徳やマナーって基本的に自分の心がけとして大切にするもので、他人に押し付けるものではないと思うんですよね。
長時間労働も自分の選択であればいいかもしれません。しかし、他人に同じことを当然に求めるのはおかしいと思うんですよね。個人の信条として旧来の美徳やマナーを追求することはよいのですが、それを周りが押し付けてはいけない。むしろ美徳や美談は本人にとってもエスカレートしがちなものだったりするので、周囲はそれが行き過ぎないようなだめたりブレーキをかけるくらいでちょうどいいのではないかと思います。
ある業界で過酷な環境が「美徳」や「美談」になる時、本人の意図ではなく押し付けられていることが多いように思います。むしろ周りが作り上げた環境でそこから逃れる選択肢がなくなってしまう。だから美徳や美談を言うときには改めて一度立ち止まって、旧い価値観を次世代に押し付けていないかを確認することが重要です。
宝塚でもこれから変革されていく中で、かつての通り厳しく先輩を敬ったり長時間労働をしてでも舞台を大事にしたい、という人もいるでしょう。
そうした個人の美徳の選択は尊重しつつ、周囲の大人はむしろ行き過ぎないように配慮することが大切です。
アイドルをはじめとしたエンタメ業界、そしてアート業界。アニメや漫画など世界で活躍するコンテンツも、下積みの過酷な環境の上で生み出され、故に国際競争力を持ってきたところもあるでしょう。
しかしだからといって、そのままでいいというわけではありません。それを美徳や美談として賛美せず見直し環境を改善しながらでも良い作品を作ることができると僕は信じていますし、その方が長い目で見て文化を育てることになるはずです。メタバースクリエイターズでも誰かを搾取したり踏みつけることがないよう環境を常に見直しながら、サステナブルに良いコンテンツを生んでいけるように知恵と工夫を重ねていきたいと思っています。