見出し画像

かつて電話の音は悲喜劇のスタート音だった—ラグジュアリーの新しい地平

テクノロジーが人々の感覚や概念を変えることは誰でも知っています。その一方、テクノロジー単体だけで、それらを変えるのも難しいと知っていますーただ、知っているにも関わらず、ひとつのテクノロジーの機能にだけ目が向きやすい。

だから「過去にあった変化」を観察して、その変化の実態をみるのは貴重です。

一つ都合の良い例をたまたま見つけました。

ネットフリックスで1月9日から公開されているドラマ『阿修羅のごとく』です。是枝裕和監督でストーリーの中心となる四姉妹は宮沢りえ、尾野真千子、蒼井優、広瀬すずが演じています。

阿修羅のごとく」イタリア版ASURAのカバー 

(ちなみに、最初に本稿の行き先を言っておくと、タイトルにあるようにクラフトとラグジュアリーです。だからちょっと長い文章になります)。

固定電話が活躍する光景

舞台は1979年。だからそれぞれ別に住む姉妹の交信はすべて家か事務所の固定電話か公衆電話になります。

当時、プッシュホン電話がありましたが、ドラマで使われているのはおよそダイヤル式です。NTT東日本の「電話機のあゆみ」をみると、その頃の流れがわかります。

1963年、ダイヤル式「600形自動式卓上電話機」の普及
1969年、プッシュホン式
1971年、黒に加えてカラー化(ホワイト、グレー、グリーン)
1980年、コードレス電話
1991年、留守番電話
1997年、発信者の電話番号表示

NTT東日本の「電話機のあゆみ

本ドラマでよく出てくるのはダイヤル式「600形自動式卓上電話機」です。カラーもありますが、黒の電話機が印象に残ります。プッシュホン式は既にあったはずですが、ドラマをみている限り1979年においてもダイヤル式が主流です(あくまでも、ぼく自身の印象です!)。

急速な電話普及に貢献したアナログ電話機「4号、600形、601形自動式卓上電話機」が国立科学博物館「未来技術遺産」に登録(2022年9月 6日NTTのニュースリリース)

しかし、ダイヤルかプッシュか。これは、ドラマのシーンにおいてあまり重要ではないです。

コードレス電話、留守番電話、発信者の電話番号が表示されるタイプがまだない。そのことが1979年のシーンを特徴づけます。

ドラマをみていてとても多いシーンは家の固定電話の使用です。かける場合も、受ける場合も、です。だから頻繁に電話が鳴り響く。気になるほどにうるさいーそのうるささがシーンをつくります。

なぜなら、電話の呼び出し音がうるさいから、かかってくると急いで電話のところに駆け寄る姿にリアリティーがあります。電話の音には「期待」と「怖さ」があり、いわば悲喜劇のスタート音だったのです。

それも相手が「留守か」と諦める前にたどり着かないといけません。それでないと、良いニュースなのか、悲しいニュースなのかが受信者には不明のままになります。

まるで「うるさいものにはフタをせよ!」のごとく狭い家の中を走れば、転ぶこともあるし、テーブルや棚にあるものを間違って落とすかもしれない。誰が電話をかけてきているのか皆目わからないーそれがシーンに緊張感を走らせるわけです。

(留守電機能が一般に普及するのは1990年代だ。これにより発信者がいくらしつこくても、音はやむ。現代における、家庭内でのこうした「煩い音」の元は電子レンジやアレクサからの音かもしれない)

2020年代を舞台にしたドラマ

言うまでもなく、2025年において固定電話がなくなったわけではない。しかし、ドラマのシーンにおいてスマホのチャットと電話機能が圧倒的にメインの小道具になります。

実際の固定電話使用率とは異なるかもしれませんが、現代のドラマに固定電話は似合わないと判断されているのでしょう

都会に出た子どもが田舎にいる母親に電話しても、母親はエプロンのポケットにあるスマホを取り出すのが多い。つまり、母親が走る必要はなく、そこに緊迫した空気は流れません。

普段は連絡してこない子どもが母親に電話すること自体に母親が懐かしがったり、子どもが何かトラブルに巻き込まれているのではないかと心配するのです。

今、緊張感が走るのは、電話やチャットの着信で相手の名前が表示され、特に悪いことにその名前や内容を知られたくない人が見てしまう、という場面です。ただ、それによってつまづいたり、ものを落とすリスクは少ない。

すなわち、呼び出し音そのもので多様な暗示があったのがかつての固定電話を巡る演出であり、スマホの小出しの情報で次の展開を予想させるのがスマホ時代のやり方です。

このようにテクノロジーの変化が緊張感の発生ポイントを変えているのです。速さや効率以外に、このような現象があるのです。

現代におけるクラフト

テクノロジーの変化が感覚を変えるのですから、当然ながら、テクノロジーに基づく工業生産と対比的に捉えがちなクラフトへの感覚も変わっていきます。

ただ、工業化やIT化の進度というよりも工業化にまつわる考え方の違いが文化圏により異なり、クラフトの抑え方も文化圏により違ってきます

日本ではクラフトとは手作りのプロセスに限定して議論されることが多いですが、ヨーロッパでのクラフトは手作りに加えてコンセプトを決める議論やプロトタイプ制作などの部分も含みます。

この背景の差異が、以下のように外国の人が日本のクラフトの現場を見たいとの欲求に繋がります。

「我々はスモール&ラグジュアリーをテーマに、富裕層、すなわち企業経営者や映画、スポーツ、アートなどのセレブリティーにパッケージ旅行ではなく、それぞれのニーズに合わせた旅行を提供している。『見聞を広めたい』『趣味を掘り下げたい』など旅の目的は様々だ。日本は様々なインスピレーションの源になる旅行先といえる」(ドゥシューモン会長)

新たに設立した「タクミアンズ」は決して日本への旅行だけを取り扱うわけではないが、「日本語の匠(たくみ)という言葉は世界で広く知られている。優れた物を生み出す匠の技に学ぼうという趣旨で名付けた」という。「文化を学ぶことは富裕層にとって不可欠な要素。近年はクラフトマンシップの人気が高まっていて、中でも日本への関心は高い親子何代にもわたって引き継がれた技というものは他の国ではなかなか見られない。そうしたストーリーや哲学は興味深い」

富裕層旅行のセランディピアンズ会長 日本の匠に期待

ぼくが「日本のクラフトを欧州で売るに必要とされる視点」で書いた内容とは微妙に差があるように思えるのが第一印象です。ただ、ちょっと考えてみると、実質、そうでもないとも思えます。何らか自分の仕事のヒントになるかもしれないとの期待をもって日本のクラフトを見ている場合が多いだろうからです。

下記をみると、そのあたりのニュアンスが窺えます。そして、ここで指摘される日本サイドの対応における柔軟性や言葉の問題は、単に旅行への対応力レベルだけでなく、この日本でのクラフト経験がその後に国際コラボレーションを生むかどうかのレベルでの判断も含んでいるとみられます。

「日本の文化に世界の富裕層は大変興味を持っている」とドゥシューモン会長。一方で「日本はだいぶ前から時間をかけて周到に準備をする傾向があるが、富裕層は予定も要望も頻繁に変わることが多い。そうした要望にどこまで対応できるか。加えて言葉の壁は大きい。英語でコミュニケーションを取れる人材が必ずしも現場にいない」ことを課題として指摘した。

富裕層旅行のセランディピアンズ会長 日本の匠に期待

「昔ながらのプロセス」がまだ生き残っていることに感銘を受けながらも、それがある程度のコラボレーションに発展できるか?と考えるはずです。できないとしたら、この経験で得たヒントを別の国(地域)で活用しようと思いを馳せるでしょう。

よって、上述のドラマを喩えに使うならば、固定電話は実態としてはまだ存在しますが、ドラマの演出上ではスマホでの感覚を重視するーこのスマホの感覚のクラフトを日本の現場にプラスアルファで求める、ということになります。

下の写真は昨年2月、ファエンツァで泊まったホテルの部屋にあった固定電話です。1987年、トリノのカーデザイナー、ジュージャロが当時の電話会社SIPのためにデザインしたSirioです。ぼくがイタリアに住み始めた1990年、どこにもこの電話がおいてあり、昨年、ぼくは思わず懐かしく「まだ、あったのか!」とスマホで記録として写真を撮りました。

ジュージャロがデザインしたSirio

ヨーロッパ人が日本のクラフトの現場に足を踏み入れての第一の反応は、この「まだ、こういう機械が残って使われていたのか!」「まだ、このプロセスを手でやっていたのか!」です。「まだ」が入ります。

ここから、「我々は使わなくなって博物館にしかない」「我々はこの手の工程を最新機械におきかえた」とのコメントがあり、その先に各々考えるわけです。「まだ」には深掘りする価値があるとするか、他山の石とするか、とかですね。

ただ繰り返しますが、スマホの感覚にあわせて、です固定電話はあくまでも発想の入り口です。あるいは固定電話はストーリー上の小道具です。

イタリアのテキスタイルメーカーの社長が丹後の繊維の現場をみて「仮にこれらの古い機械を使い続けたいのなら、バックオフィスのIT化を徹底的にやるべき。明日の生産量が頭のなかにあるような相手とビジネスをやろうと思わない」と語ったのは、その一例です。

現代におけるラグジュアリー考

さて、最近、Snacks of Thoughts というポッドキャスト番組でラグジュアリーについて話しました。かつてロンドンに留学している時に会った3人の女性デザイナーが主宰している番組です。その1人が「文化とビジネスの交差点で議論する新しいラグジュアリー」の講座を一緒にやっている前澤知美さんです。

ここでゲストとしてああだこうだと話したおよそ1時間半にわたる話題は下記です。

- ラグジュアリーのこれまで—19世紀の起源からLVMHの近代まで—
- セラミックに見る意味のイノベーション
- ファインアートとラグジュアリーの関係
- ブルネロ・クチネリの人間主義的経営
- 文化の盗用や民藝運動から考えるラグジュアリー
- ラグジュアリーという言葉を使う意義
- 「未来を想像すること」の難しさ・面白さ
- イチローと新しいラグジュアリー
- 日常生活を揺さぶるラグジュアリーな体験とは
- ボトムアップなラグジュアリーが文化を生き残らせる

Snacks of Thoughts #14

以前からラグジュアリーにおいてクラフトは重要な項目であり、その理由はクラフトのもつオーセンティックなところ、つまりは「ほんもの」であることが要望されてきました。

だが、その項目が排除されるわけではないですが、ラグジュアリーの新しい道を探るにあたり、「クラフト」=「ほんもの」=「まだ、あるのか!」ではないはずです。時間をかけること、時間をかけないと見えてこないことがあること、これもクラフトの論議の範疇です。

機械生産品は低い品質ではなく、高い品質である根拠となったのが21世紀です。この現代におけるクラフトが、19世紀の産業革命時の製品、20世紀後半はじめの「安かろう、悪かろう」の日本や20世紀末の中国の製品との対比で語られても意味がありません。

そうしたバックグランドについて上記で話しています。

また、ラグジュアリーには無縁だと思う人が多いです。ぼく自身、30年以上、ラグジュアリーと称される領域で仕事をしていたに関わらず、ラグジュアリーに嫌悪感がありました。

しかし、ラグジュアリーという言葉が包み込む意味は無限大といってもよいほどに広く、ラグジュアリーというところにアンカーをおろしてみるとまったく別の地平が広がっていることに気がつきます。

『阿修羅のごとく』で準主役(!)の固定電話からテクノロジーとクラフトの関係を考察するのも、ラグジュアリーにアンカーをおろしているからです。とにかく、何でも良いですが、より広い地平が眺められる、しかも深くもいけるアンカーの場所を選ぶのが生きるにあたってのコツのような気がします。

ーーーーー
冒頭の写真は、ポッドキャストでも紹介しているピエモンテ州ランゲにあるビッグベンチ。元BMWのチーフデザイナーのクリス・バングルがはじめたプロジェクトだ。景色の良い場所に巨大なベンチを設置することで、大人も子どものようにはしゃぎたくなり、そこからコミュニケーション、コミュニティが発生することを狙っている。ランゲにとどまらず、イタリア、欧州各地に広がっている。



いいなと思ったら応援しよう!