道徳じゃメシは食えません
マルクス・ガブリエルさん。
この方を知ったのは、NHK-BSの「欲望の時代の哲学」という番組でしたが、哲学者というと大体偏屈で陰キャなイメージがあったのだが(偏見)、この方は陽キャです。
哲学者というよりは、広告代理店やIT系の企業のやり手プレゼンターみたいな感じ。
「欲望の時代の哲学」という番組の中で、街で出会った日本人女性に「内気で相手の目を見てうまく話せないんですけどどうすればいいですか?」みたいな質問をされてて、まず発した言葉が「内気?私は内気だったことはありませんが」と。
でしょうね。
とはいえ、この陽キャな哲学者の話は面白いことは確か。NHKの番組を書籍したものはわかりやすく書かれていて、「哲学はちょっと…」という方にもとっつきやすいと思う。
言ってることには諸手をあげて賛同はしないけど、自分の視点を多重化するにはいい道具かも。
この人は、最近、倫理資本主義なるものを唱えていて、かなりはしょって説明すると
「今世界で起こっているいろいろな問題があるけど、資本主義を全否定して共産主義システムに変えれば解決するわけではない。問題を解決するためには、システムではなく、本質的に私たちの行動を変えなくてはならない。道徳を拠りどころにすれば、人間の価値観はズレない」
みたいなことを言ってるのだが、「行動を変えるにはシステムが必要」なんじゃないかと思うのだが、人間はそれほど自発的行動できないから。
最後の道徳云々はよくわからない。
そもそも全員が拠り所となる普遍的な道徳なんて存在しないと思うし、仮にあったとしてそれで万人が同じ価値観を持つことの方が全体主義で怖いわ。
また、彼は日本のかつての会社の良さをほめていて、こんなことも言っている。
「高度経済成長期の日本は、資本主義ならぬ、人本主義。人をベースに考えて、絶対に解雇しない。経営者だけが儲けるのではなく、トップもある程度の範囲内の給与に収めることがモラルとして成立していた」
大谷翔平の年俸が高すぎだだから1億円にしろとか言ったマルクス主義者みたいなことを言ってるな、と思ったらこの本を監修してるのそのおじさんだわ。
終身雇用制という意味では確かにそうだけど、だからって別にあれは人本主義といえるほど人を大切にしたものではない。ある意味では儒教哲学を企業風土に取りこんだだけで、むしろシステムの話。
儒教システムは、日本においては、江戸時代の頃から始まって、明治維新後も続き、昭和の終わりまで続いたもの。
え?それ以前もずっと儒教システムでしょ?というのは大きな勘違いで、江戸時代前の戦国期など、儒教なんてくそくらえの世の中だし、主君は裏切って殺すわ、他にいいギャラを出してくれるところがあれば平気で転職(主君替え)するわ、儒教でいうところの「忠」なんてなかった。
戦国期だけではなく、その前の室町期も鎌倉期も同じで、武士なんて命かけて利害と戦ってきた人たちなので、とにかく損得勘定で動くのですよ。じゃないと死ぬから。
源頼朝につくのも、足利尊氏につくのも、そっちの方が得だと思ったからであって、決して大義とか恩義とかで動いたわけではない。
で、その武士は元々地場の農民から発生したものであり、農民もまた同じ性根。
村社会の中で、どう動くことが一番自分の利益になるのかというのを伺いながら動く。だから、「空気を読む」というスキルが重要になるわけで。
道徳的には、損得勘定で動くことは低俗なことのように言われたりするが、道徳じゃメシは食えないのであって、家族も養えないのであって。
前々から言っている通り、俺は「利他」という言葉が大嫌いで、「あなたのためだから」なんて言い寄ってくる奴は大体詐欺師かツボ売りだから。
「利他嫌い」とか言うと、非難されることもあるのだが、まず、自分の利益を最大化することを考えることこそ肝要。で、自分の利益を最大化しようとすればするほど、利益の一人占めは自分のためにならないと思い至る。だから、自分の利益の最大化と他者の利益の最大化のいい塩梅を見定めようとするもの。それがメタ認知であり、社会生活。
「利己より利他」とかいうより、「利個こそが最終的に利多になる」と思っている。
それは拙著に詳しく書いたので割愛する。
もちろん、時と場合と相手によっては「損して得取れ」みたいな手段も必要になるが、あくまで後で「得を取る」ための手段だから、「損してずっと損続き」じゃ死んでしまう。
後世の儒教は、孔子の「論語」とは大きく違って、為政者や年長者にとって都合のいい統治方法として作り替えられたもの。道徳だのといいながら、それを下々に強いている親分が一番道徳的じゃなかったりするから。
儒教を統治システムとして取り入れた中国の隋の煬帝なんか、最終的には一番の側近に首絞められて殺されているからね。あれこそ、皇帝としての損得勘定を間違った結果だと思う。
ちなみに、江戸時代幕府は儒教というか朱子学教育を徹底して、主君に「忠」を尽くせみたいなことを言ってたわけだが、武士以外にまでそれが波及していたわけではない。
幕府から給料もらい公務員みたいな武士はいいけど、江戸の町人は損得勘定がなければ生きていけないのだから関係ないよねって話。
江戸時代中期には文化が栄えたのだが、その中で近松門左衛門の「心中物」という浄瑠璃が大流行した。実話をベースにしているものなので、今でいう芸能人のスキャンダル報道にみんなか夢中になるのと一緒。
心中物は、身分の違いを超えて愛を貫こうとした恋愛話がメインだから、庶民はそれを見て感動熱狂した。
しかし、この自由恋愛というものは、幕府の推し進める儒教システムからいえばとんでもない話で、結婚なんて親の決めた相手とするものだ、と。ましてや、身分の違う者同士が結ばれるなんてあってはならないとお怒りで、近松の心中物は弾圧された。
ところでこの「心中」という言葉だが、「忠」という漢字をさかさまにして二文字にしたものである。そう、儒教システムの「忠」をおちょくっているわけだ。
道徳だの倫理だの、そういうもので人は支配できない。同時に損得勘定だけでも人は動かない。人には感情があって、絶対損するとわかってても感情の力で何の得にもならないことをやってしまうものだから。
一番強いのは「感情」だろう。事実、今の世の中感情主義社会(エモクラシー)である。