幸せ、愛…。それ、名詞じゃなくて動詞だから。モノじゃなくて行動だから。
大体、何の調査でも、どこの国においても、幸福度というのは、未婚者より既婚者の方が高く、男性より女性の方が高くなります(一部の例外はあり)。
しかし、だからといって、「結婚すれば幸せになれる」わけではありません。あくまで既婚者の方が幸福だと感じる人が多いだけであって、「結婚すれば幸せになれる」という因果関係を証明するものではありません。
にも関わらず、「結婚さえすれば幸せになれる」と思い込んでいる人の多いこと、多いこと。それこそが、一番不幸なのだと思うわけです。それが、僕がいつも言っているフォーカシング・イリュージョンというものだし、「幸せの呪縛」です。
ところで、マイナビウーマンで新連載「ソロで生きる」が始まりまして、その第一回目のテーマが「しあわせ」について、です。「幸せ」ではありません。本来の意味である「仕合わせ」です。中島みゆきの歌「糸」で歌われているのも「仕合わせ」です。
未婚者の不幸度が高いのは、「幸」の漢字まんま、ある呪縛に囚われているからです。ぜひお読み下さい。フォーカシング・イリュージョンについての説明は本文にて。
・
・
・
・
・
・
・
・
読みましたか?
え?まだ?
じゃあ、早く読んでください。
読みました?
まだ?
そうですか…どうあっても読まないつもりのようですな…。ちなみに、これ、人気記事ランキング1位になった記事です!
読みたくなりましたか?
なりましたよね?
最後のチャンスです。さあ読んでください。
ありがとうございます(よくよく考えれば、読んだかどうか、こっちでは判別不能なので、以降は読んだ体で進めます)。
この記事を読んだ方の中には「別に一人でもしあわせを感じられる人もいるだろう」と反発したい人もいるかもしれません。
その通りです。ゲームであろうと、一人旅であろうと、ソロキャンプであろうと、一人で楽しめることはたくさんあります。
しかし、記事の中で書いている「人とつながる」というのは、「リアルに対面して人と一緒に何かをする」ということだけではありません。ゲームを一人遊ぶと言いますが、当然そのゲームを作った誰かがいるし、対戦ゲームやソシャゲなら、ゲームの向こう側に誰かがいるはずです。この世の中で、単独で始末できるものなんて実はほぼ存在しません。
想像してみてください。完全に自力だけで、誰の力も借りることなく、何を成し遂げたことってあるでしょうか?何かしらの道具を使えば、それも誰かの助けを借りたことと同義です。
「人とつながる」というのは、見ず知らずの人も含めて、自分は誰かの行動のお世話になっていることを感じることであり、逆に、自分の何気ない行動ひとつでも、見知らぬ誰かを助けていることを実感するということです。
さらに、不幸の最大の要因のひとつは「幸福は獲得するもの」という考え方にあります。「しあわせ」はモノではありません。行動です。名詞ではなく動詞です。幸せを所有したいと考えた時点で、不幸の泥沼に陥っている気がします。
日経ウーマンで、安野モヨコさんのインタビュー記事がありました。
『ハッピー・マニア』の続編として、結婚して45歳になった重田加代子(シゲカヨ)を描いた『後(ご)ハッピーマニア』の連載が始まっているようです。
個人的な話ですが、『ハッピー・マニア』は全巻持っているくらいハマりました。重田が本当におもしろいです。
ちなみに、恋愛至上主義だった90年代に、稲森いずみ、藤原紀香、阿部寛らの出演でドラマ化もされています。
今にして思えば、あの頃の主人公重田が追い求めていた「幸せ」こそ、呪縛そのものだったような気がします。そういう意味で、マイナビウーマンの元記事を読んだ上で、『後(ご)ハッピーマニア』を読んでいただくと、また違った風景が見えてくるのではないでしょうか。
「ソロで生きる」は決して未婚者・独身者だけの問題ではありません。既婚者であっても、いつまたソロに戻らないとも限りません。そして、何より大切なのは、結婚を継続しようとするならば、なおのこと、夫婦それぞれが精神的に自立する(ソロで生きる力)を身につけていないと、うまくいかないのではないかと思います。
「愛とは個人の喪失だ」と言ったのは、絵画「叫び」で有名なムンクの「接吻」という絵の紹介文ですが、確かに、互いに個人を喪失して、融合して一体となることが愛の形だったのかもしれません。感情論的にはそれは良さげに思えますが、「個人の喪失とは、二人の人間の死」をも意味するのではないでしょうか。だとすると、愛では夫婦も家族も継続していけない時代にきていると思います。
愛もまたモノではない。「愛する」という動詞であり、行動です。
二人の人間が溶け合うのではない、それぞれが個として自立し、互いに助け合う。夫婦や親子や恋人である必要もありません。ずっと同じ人と助け合うことも必須ではない。
私が動けば、それが誰かの「仕合せ」になっているかもしれない。そう思えるささいな日常をひとりひとりが行動することで生み出していく。それが、本当の「しあわせ」なんだと思います。