これは分不相応だ、という思い込みから幸福を減じないよう、関西ー北海道の日帰りスノボに思いを馳せる、という話
23−4歳の頃、つまり社会人2年か3年目の時の話である。
関西在住のリッチな自由業の方と話をする機会があった。歳のころは40くらいであったと思う。
彼は、スノーボードが趣味で、伊丹空港から北海道へ日帰りで滑りに行く由。
せっかく関西から北海道まで行くのだから宿泊しなければ勿体無い、などとは考えない。それが最も効率良く楽しいからそうしているのであり、お金があることによりそういう選択をする自由がある、と。あの頃の自分からは、ずいぶん眩しく見えたものだった。
と同時に、使い方を考えると、お金によって人生はずいぶん楽しくダイナミックなものになるのだ、という感想を持った。持っているお金のスケールは全然違うけど、自分もそうありたいものだ、とも。
それから約10年後、筆者は家を買った。
と言っても自分から能動的に買ったのではない。どちらかといえば、家を買うなど自分が稼いでいる可処分所得からしたら分不相応だと考えていた。
では、なぜ買ったかというと、家族が何気なく申し込んでいた住宅分譲の抽選が当たったのだ。
申し込んでいたことを知らなかった筆者はかなり面食らったが、「おめでとうございます!」などというセールスの方の勢いにも押され、契約のプロセスを進めた。
ローンの審査ではストレスを感じた。何やら銀行が「お勤めの会社がNTTと取引をしている証明を提出してください」などというリクエストをしてくるのだ。
当時勤めたいた会社はスタートアップ。今考えれば宜なるかなというところだが、当時は非礼な申し出をされたように感じたし、自分が支払っていくローンの後ろ盾になるのが会社の信用でしかない、ということにも何やら無力感を感じた。
そういう煩わしいプロセスを経た結果無事売買が成立した。
その時感じたことは、こうである。
「あっさり大きな買い物しちゃったな」
「意外に買えるもんなんだな」
考えてもみてほしい。それまで分不相応だというある種の思考停止に陥り、その購買を検討すらしなかった自宅という大きな買い物である。
契約の過程では確かに色々あったが、いざそれが完了してみると、物理的なサイズはそんなに大きくはないが、自分の収入と比べればとてつもなく大きな土地と家屋が、自分のモノになったのだ。
契約後少しして新居に引っ越した。それまでの狭小なアパートとは大分異なる生活空間に、それまで家族に狭い思いをさせていたという引け目と、そんな生活から決別できた誇らしさが胸中に去来した。
そんな思いと共に、奇妙な表現だが、何やら自分がバージョンアップしたような気分になった。
こんなこともあった。
家を買ってからしばらくして車を買い替えることになった時のことだ。
BMWなど外車のディーラーを回ってみるものの、それはあくまで冷やかし。本命はあくまで堅実な車種である。
と思っていたら、家族が外車推しになり、別にそっちが良いなら買えばよい、という空気になってきた。
その外車は筆者も昔から好ましく思っていたものであり、確かにそれが買えればアガる。だが、家のローンも抱える身、分不相応なのではないだろうか?
営業担当の方に見積もりをしてもらったら、確かに買えないことはない。
結局この時も家族に背中を押してもらう形で契約することになった。
納車時、真新しい車の匂いを胸深く吸い込み、憧憬を抱いていた車のオーナーになった誇らしい気持ちが胸を満たした。心なしか子供達も嬉しそうに見えた。
ハンドルを握りながら、買い物によって、人はこんな気持ちにもなれるのか、と、感じた。
・・・・などと綴ってみると、本当にもう小市民的な文章にお恥ずかしい限り。
でも顔を赤らめながらも言いたいことは、
(1)一旦分不相応、というレッテルを貼ってしまうと、人はなかなかその対象を買おうとは思えない
(2)が、それを手に入れると、自身がバージョンアップしたような感覚を得られることがある
(3)と同時に幸福感を感じられることがある
ということである。
おかしなものである。
筆者は、(2)(3)については、関西からの日帰りスノボの話を聞いた時に、すでに理解していたはずだ。
でも、お金の使い方やその対象について心の中で、「分不相応か」というあまり根拠がない基準で分類・レッテル張りし、お金を使って幸福を増幅するチャンスを逸していたのだ。
今回の日経COMEMOのお題は「#お金について考える」。
幸福になるために、幸福を増大するために、我々は人生を過ごす。
戦略的にお金を使うことによって、その可能性が増すのであれば、分不相応などというレッテル張りをするのは辞め、まずは欲しいという感覚に忠実になり、次に冷静な吟味をする、という態度で消費に接する、というのは結構合理的なことなのではないか、と思う。
そう考えると、世に出ている記事の中に、いかに使うことではなく、貯めることを促す論説が多いことか。
筆者としては、この問いに対する答えとして、何かを手に入れることを検討するときは、関西からの日帰りスノボのこと思い出しながら考える、ということを自分の新たな規範にしたいと思う。
読者の皆さんは、どうお感じだろうか?