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「金がない、恋愛相手がない」と嘆く人に「ないもまたある」という視点を
世間は3連休らしいので、お暇な方はこういう時にちょっと面倒くさいことを考えてもいいかもしれない。
「あるはある、ないはない」
これは紀元前500年代の古代ギリシアの哲学者パルメニデスの言葉である。
「存在するものは確かに存在していて、存在しないものは全く存在しない」という意味です。
もう少しわかりやすく説明すると、パルメニデスは「あるもの(存在)」と「ないもの(非存在)」とは明確に分かれるといっている。例えば、「木がある」と言えば、その木は実際にそこに存在している。「木がない」と言えば、そこには木が全く存在しない。つまり、「ある」と「ない」には絶対的な違いがある、と。「あるはある」としか言えないし、「ないはない」としか言えないでしょ?って話。
さて、ここまでで「そら、そうだな」と思いますか?
そうだよなとは思えない人もいると思います。私もこれを聞いた時「何言ってんだ?」と思った側です。
たとえば、「ユニコーン(一角獣)」を創造してください。みんな頭の中でそれの姿が浮かぶでしょう。絵に描くこともできるでしょう(上手下手は関係なく)。
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でも、誰一人としてユニコーンを実際に目撃した人はいなくて、実在しないってこともわかっている。
パルメニデス的にいえば、「存在しないユニコーンはない」ということになるんだが、想像上の生き物として存在するじゃない。これは、いわば「ないもある」ということになる。
同様に、「鬼」とかも存在しないけどみんなの中には「ある」よね。なんなら「神様」だってそうなる。
面白いのは、同じ紀元前の500-700年頃に、同じようなことを考えているのがギリシャでけではなくインドにもいて、まさにインド哲学の祖といわれるウッダーラカ・アールニは「有(う)の哲学」を唱え、「すべては有から生じ、無からは生じない」と言っていたらしい。
とはいえ、その後、インドでも「いやいや、頭や心の中で想像できるものはすべてあるでしょ」という反論も出てくる。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』というインド哲学の書物の中には「この世界自体が心の想像の産物である」とまで書かれている。
ここで、想像上の産物は現実には存在しないのだから「ない」でしょと言いたい人もいるかもしれないが、確かに現実には「存在しない」が「頭の中で想像できる」という意味での存在はあるし、それが伝説や神話などで多くの人が同じいイメージを共有できているとするなら、「現実に存在しなくてもそこにいる全員の頭の中に同じ物が存在する」ことになる。
現実と心の中を一緒にしちゃダメだよ、と言いたい人もいるかもしれないが、だとすれば、「ない」は「現実にはないものとしてある」ということになる。
つまり「ないはない」ではなくて「ないも(ないものとして)ある」ということ。
インド哲学で「ないものとして存在する」概念から、記号としての「0(ゼロ)」が発明されたとすればそれも納得できる。そして「ゼロはゼロとして存在する」というのは、「ない」を単なる否定にするのではなく、「ないという状態で存在する」という物事の視点を逆転するということでもある。
同様に、「あるもない」ということが言える。
実は、日本人ならこの感覚は説明不要でわかると思うが、松尾芭蕉の名句「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」を聞けば、誰もが静寂の世界を思うだろう。しかし、現実にはメッチャ大量の蝉が鳴いていて「音がある」世界である。
現実には「音がある」のに、感じるのは「音がない」静けさ。これは西洋人にはわからない感覚らしく、蝉の声はただの不快な雑音にしか聞こえないらしい。
「友達たくさんいるのに孤独を感じる」なんてのもこれと類似かもしれない。
同様に、「光がない」という「暗闇」も、「暗闇がある」と感じる。なんなら、ずっと暗い所からいきなり明るいところに出れば「光があるのに何も見えない」という状態も瞬間的には現実に発生する。
冒頭の言葉を言い換えるならば「あるはあるし、ない。ないもまたないし、ある」ということになる。
「ある」とか「ない」を二元論で分けがちなのが西洋的で、仏教では「ある」と「ない」に加えて「空(くう)」がある。空もまたあるといえるし、目に見えないからないともいえるもの。
中観派のナーガールジュナ(龍樹)は、「すべてのものは空であるがゆえに成立する」と説いた。
たとえば、木が「ある」のは、それが単独で存在するからではなく、土や水、太陽といった条件が揃うことで初めて「ある」。だから「ある」は「ない」に依存し、「ない」もまた「ある」の中で意味を持つ。
この相互依存の中で、「ない」が「ないというものとしてある」という視点が生きてくる。「ない」を「存在しないもの」として切り捨てるではなく、「ない」を否定も排除もせず、むしろ「ある」との関係性の中で「確かにそこにあるのだ」と捉えることになる。
言葉を変えれば、この「ないけど確かにそこにある」と思えることが「安心」であり「信頼」です。
現代では、この「安心」や「信頼」が失われている。現実に目にうつるのは、厳しい現実ばかりだから仕方ないでしょう。厳しいというより、こんなアホに鉛筆なめなめしかしないような爺さんたちが政治やっているんだから「ないわ~」と思うのも当然だが。
しかし、個人の領域の話に限定すれば、視点の切り替え次第で「ないもまたある」という力に変えることも可能ではないかとも思う。
「金がない」「恋愛相手がない」という状況は、若者にとって「欠如」や「不在」が強調され、絶望感につながりがち。パルメニデスの「ないはない」をそのまま当てはめたら、「お前にそんなものはないんだから考えても無意味だ」と突き放すような冷たい感じになってしまう。でも、「ないもまたある」と言うことで、「ない」という状態を否定するのではなく、それを「何か意味のあるもの」「あるものの一部」として受け入れる視点を提供できるんです。
たとえば、「金がない」という「ない」を、「金はないが今は自由に使える時間がある→だから行動しよう」と捉え直すとか。「恋愛相手がいない」という「ない」を、「自分自身と向き合うことでまず自分を好きになれる(自分に慣れる)可能性がある」と見ることもできる。
「ない」をただのマイナスではなく、「ある」に結びつく別の形として肯定する力を育むことは決して無駄ではないだろう。
「(根拠は)ないけど(自信は)ある」もそうだ。
「ある」と「ない」は対立するものではなく、その間に目には見えない関係性や縁という「空」が必ず存在していて、循環するもの。循環に気付けば「ないもある」になるのである。
「ない」と思っているのは、単に気付いてないだけかも。
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