所属より接続・居場所より出場所/行動が拡張する自己へ
居場所がないと嘆く人の大部分は「所属するコミュニティ」にだけ依存してしまう傾向が強い。
確かに所属は安心だが、永遠に所属し続ける事はできない。所属するのではなく「接続するコミュニティ」の考え方を私は2017年より提唱しています。それは自己の役割の多重化にもつながります。
そういうことを書いた記事です。
孤独に苦しむ人というのは、友達がいない人ではなく、所属だけに依存し、所属の仲間・構成員としてしか生きられない「自己の多重性」のなさに起因する。そういう人は周りに友達がたくさんいても、家族がいても、ずっと孤独なのです。そして、そういう人ほどいつも怒っている。
自分自身が単層で、今いる所属から見放されると生きていけないという焦燥感が怒りとなって出るのでしょう。
「俺が休んだら仕事が回らなくなる」とかいって会社を休めない人も同じ心理状態です。
大丈夫。余人をもって代えがたい人間なんてこの世には誰一人いない。誰かがいなくなれば、その穴埋めを誰かがする。そういうもんだから。
申し訳ないが「俺の代わりはいない」と思っているのは大抵その人本人だけ。周りは別にそう思ってなどいない。自分だってうすうす気づいているでしょ?でもそれを認めたくない。認めたくないから、自分がいなくてもいいような扱いをされるとすぐ「なめるなよ」と怒り出すわけです。その怒りは、自己の役割の生存にかかわる問題だから、本人は真剣なんでしょう。
そうやって、所属にしがみつけばつくほど、周りの人から孤立していくという状況が生まれるのです。
所属の安心というのも呪いです。「いい学校に行ったら…いい会社に入ったら…結婚したら…」しあわせになれるという幻想にとらわれている人も大概この「所属の安心」の呪いに縛られている。
結局、いい学校や、いい会社や、結婚をしたところで「これが安心だったのか?」と拍子抜けすることだろう。だって、そんな状態に自動的にしあわせなんてないから。
どこにも所属しなくていいとか居場所なんか不要と言っているのではなく、視点を変えればもっと自分は広がるし、楽になるよって話。
それをこの記事では「出場所」という言葉で表現しているのです。
とはいえ、所属の呪いに囚われている人はわかんないんだろうな。それも、新卒からずっと一社だけしか経験していない人とか、その中でわりかしうまくいっていて、年齢に応じてそこそこ出世している人は猶更気づけないだろう。だから、退職後のジェットコースターのようなギャップに苦しむことになるのだ。それもその人の人生なので、ご自由にと思います。
世間では「アムルナイ」というのが流行りらしい。
「アルムナイ・ネットワーク」とは英語で「卒業者人脈」を意味します。中途退職した元社員と企業が交流する組織です。転職の多いネット業界が中心に導入している施策で、アメリカでは主要企業の9割に関連制度があるとの調査もある。で、この取り組みが日本の製造業や金融などの大企業にも広がってきたようなのだ。
まあ、元々三井物産には「元物産会」という組織もあるし、会社ではないが慶応大学のOB会の「三田会」なども、他の大学OBの結びつきに比べれば深い。リクルートを辞めた人も、なんだかんだ辞めた人同士のネットワークで起業や連携をしている人は多い。
こういうのもうまく活用すれば、ひとつの「接続するコミュニティ」となりえるが、なんか「退職したらみんな寂しくなるから、たまに同窓会的に集まろうよ」的なものにしかすぎないのなら、それは「所属するコミュニティ」の枠内に過ぎないので、あまり意味はない。
大体、いつまで企業のお世話になるつもりなんだよって思うのだが、そうはいっても、企業という「所属するコミュニティ」の中で、自分に与えられた役割を果たしていることでの安心を得て30年余年を過ごしてきた勤め人にとっては、こうしたお膳立てがなければ途方に暮れてしまうのだろう。
あってもいいが、所詮こういうことができるのは大企業だけ。就業者の3割にすぎない。リモートワークを推進する話の時も書いたが、とにかく3割程度しか関係のない話をさも国民全体を網羅できるかのような話としてメディアが記事にするのは偏っている。「エリート新聞」とか「上級国民新聞」とかならいいと思うが…。
一部の恵まれた人間だけしか享受できないお膳立てとしての延長型所属するコミュニティも結構だが、結局所属だけに依存していたらいつまでたっても接続できないことは確か。「かわいい子には旅をさせろ」というように、「自分自身を大事に思うなら、本当は所属するコミュニティがあるうちに、たくさんの接続するコミュニティを作っておけ」という話なのである。
「所属するコミュニティがあるうちに」と書いたのは、退路をたって挑戦すると、結局「前の所属するコミュニティ」の代わりになる「新しい所属するコミュニティ」を探そうとしてしまうから。それじゃ、ダメなんですよ。所属から解放されないと。
よく「そんなに苦しいなら逃げればいいのに」という言葉があります。でも、所属だけに依存している人は逃げることができないのです。逃げるということは唯一の依存である所属を放棄することで、それは自分自身を捨て去ることと同義だから。そして逃げることのできなくなった人間の末路はご存じの通りです。
「逃げる」という選択も行動もできなくなってしまう所属依存に意味ある?
「新しい所属するコミュニティ」を探しがちなおっさんによくある光景は、過去の自分の企業名とか肩書とか、取り巻きの忖度が当たり前だと勘違いして、偉そうにしてしまうこと。そんな人と初対面の相手がつながりを持ってくれるわけない。
無名のあなたにならなければ。そして、無名のあなたになった時のあなたの行動の中にこそ、新しいあなた自身の芽が出てくるのです。過去の枯れてしまった花をいつまで後生大事に床の間に飾ってんですか?みすぼらしいだけだ。
そして、やってみれば、意外にできるもんです。難しくもなんともない。やらない言い訳を考えている暇があるなら、何も考えずに行動した方が吉です。
もともと居場所すらない者はどうすればいいんだ?ということを言ってくる人もいるのですが、物理的に住む家がないとかいう話は別だが、心の居場所がないということは本質的には問題ではない。たくさんの出場所を作り、接続するコミュニティを作り、そのために動くということが生きるということであり、たくさんの接続点で動くを通じて、自分の中に新しい自分を充満させていくことができれば、どこにいたって、誰といたって、あなた自身があなたの居場所になる。それは、一人でいたって一人じゃないということです。
「接続するコミュニティ」についてはこちらの本でもいろいろ書いています。
12/2の読売新聞のインタビューでも語っています。
ちなみに、note公式からもおすすめされていますw