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どこからがやり過ぎになるのか、家事の境界線問題。

会社を辞めてよかったのは、溜めに溜めていた家事、特に断捨離系に着手できたこと。
せっかくなので記録として残して(晒して)みる。どんだけ溜めてるんだとドン引き&笑ってください。

・1年間玄関に放置した壊れた布団乾燥機の処分。
・伸びきった子どもの赤白帽のゴムを付け直す。(半年経過)
・ブレーキを踏むたび、周りが全員振り向くほど
 キーキー鳴る自転車を修理に出す。
・「んーそのうちねー」とごまかし続けた子どもの平日習い事の申込&送迎。
・カーテンを洗う。(夏以来)
・消臭効果なんぞとっくにないウッドチップの交換。(5年ぶり)
・加湿器のクエン酸洗浄。(2年ぶり)
・クリスマスの飾りを全部出す。(3年ぶり)
・10年間雪崩を起こし続けた鍋置き場に仕切設置。
・家全体の断捨離。(4年ぶり→隅に転がる害虫退治コンバットの日付から判明)

どれもこれも年単位(!!)の見ないふり達に着手して終わる快感は相当にすがすがしく、3キロは瘦せた気持ちになった。(気持ちのみ)
ずっと家の中が、全く状況を把握できないブラックボックス状態で、課題感だけを漫然と抱えながらその日ぐらしをしているストレスや焦燥感がなくなった。
どこに何があるか把握できており(大体)、年単位のゴミが家の中にないのだブラボー!

家事には終わりがない

しかしその後知ってしまったのは、家事は際限がないことだった。
気付いてしまうと、シーツにソファカバーも洗いたくなる。夕飯もう1品作ろうかな。あの棚の上、埃がたまってる。塾、違うとこにしたほうがいいかな。
家事と真剣に向き合うと、時間はあっという間に溶けていく。そうこうするうちに子どもは学校から帰ってくる。仕事しながらなんて無理。

ん…?でも私、今までずっと会社員しながら一応家のことをして、家族全員とりあえず生きてたよな。

あれ?もしかして、やりすぎてる・・・?

どこからがやりすぎになるのだろう。

私の場合。今までは、朝食にまな板でイチゴのへただけ切って、その板のままドーンと出してたけど、先日他の果物も数種類切って、ヨーグルトと和えて、家族めいめいの器に出したとき、あ、やり過ぎかも。とハッとした。(私にとっては。息をするぐらい負担がない方は問題ないです。個人差)

まな板ドーンスタイル。「切ってそのまま出せるまな板」というせめてものプライド。

私がいないと家が回らない、という厄介な自負

同じ頃、私が久々1泊不在なことがあった。留守番の家族たちは協力し合い、わがままも言わず、何ならいつもよりも1時間も早く寝て、朝も早く起きたそうだ。私がいなくても、普通に暮らしを回せるのだ。
でもそのあとの反動がすごく。
私が帰宅すると、もう皿一枚すら出さずどかっと座り、水回りも汚れたままになっていたり。
「あーやっぱり私がいないと家が回らないな」という諦めと悲しさ、とほほ感の奥に、私が家を回しているという自負、優越感、自分の存在意義を見出しているところがあって自分でもゾッとするのだ。
 
仕事でもこの感覚は知っている。
年次が上がり、自分が責任者になるからこそ、自分がやった方が早いとか、自分がいなくてはダメだという勘違い。本当は面倒くさがったり固執しているだけで、上手に権限委譲/移譲できていないだけなのに。

自負問題、なかなか手ごわい。
自分でやり過ぎラインを見極め、ここからはもうやらないと決めないといけない。
しかし自分のことを俯瞰で見るのはとても難しい。
目標達成のため、家族のため。特に子どものため、という大義名分はやり過ぎを正当化してしまう。
教育虐待とまで呼ばれる「やり過ぎ」も他人事に思えない。自己責任を問われる社会で、特に子育ては母親の責任に未だなりがちだ。

もういっそアプリで有無を言わさず分けてもらうとか、もはやアリかも。

しかし記事内にあるように改良の余地があり、アプリに現れない可視化できない家事、突発の家事も沢山ある。
またその家事がやり過ぎなのか、実は重要なのかも、家庭や個人ごとに違う。そこのすり合わせの話で、要はコミュニケーションの話なんだよなあと思ってたら、はい書いてありました。

形はどうあれ、コミュニケーションと互いへの想像力こそが関係を維持するための鍵なのだ。

以下記事より

あ、でもどんな人も1年に1回ぐらい断捨離休暇できるといいなと思う。休みは病欠に消えたり、旅行とか行きたくなるけど、整理整頓でも休める余裕があるといいなと思う。片付けからの発見、めちゃ多いです!
また来月!

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近森 未来( コピーライター)
ここまで読んでいただきありがとうございます。 読んで、少し心がゆるんだり、逆にドキッとしたり、くすっとしたり。 おやつ休憩をとって、リフレッシュする感じの場所に ここがなれたらうれしいです。