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ワーケーションと「心のネットワーク効果」

0.日経comemo KOL就任に際してのご挨拶

日経comemo読者の皆さん、こんにちは。別所隆弘と申します。2月からKOLとして、このマガジンに月2本、記事を投稿させていただくことになりました。専門は19世紀アメリカ文学(旅行記、視覚表象論)、そしてもう一つはプロのフォトグラファーという側面もあります。個人的には自分は文学研究者であるという想いが強いのですが、実質的にはフォトグラファーとして認知されているのは、自分の不勉強の結果だなあと忸怩たる思いでおります。

さて、ここまで書いて読者の皆さんは、「文学研究者?写真家?経済となんの関係があるの?」と不思議に思われている頃かと思います。実は私自身も、かなり不思議に思っております。登録されている他のKOLのみなさんを拝見すると、錚々たる経歴を持たれている方ばかり。そんな中に、経済のことも、お金のことも、仕事のことも、政治のこともたいして知らない人間が、どうして日経という、日本の経済史において常に最もハイクオリティなオピニオンを発してきた歴史ある媒体の名を冠したウェブマガジンに出てくるのか、本当に不思議だし、おそらくその答えは永遠に出てこないことでしょう。

ただ、一つだけ私が皆さんに提供できるものがあるとするならば、それは、僕も含めた文学の研究者は、20代の研究生活に入ったタイミング以降、おそらくどのジャンルの研究者にもまして、ただひたすらに「言葉」に拘ってきたという、その拘泥から生まれた言葉への理解を、なんらかの形でお見せできるということです。

そして言葉とは、畢竟、人間であり世界です。我々人間は、基本的には言葉なしには世界を理解することができません。もちろん、「音声言語」だけではなく、「手話言語」にせよ、あるいはなんらかの他の言語形態もあり得ますが、それがどのような形であるにせよ、我々人間は「ことば」を経由して、初めて世界を「世界」として認知します。その認知の先に、人の繋がりが生まれ、社会が生まれ、経済が回り始め、政治が司られ、国が興り、文化が形成され、文明が残り、歴史が描かれ、世界が回り始める。そう、全ては、「ことば」の上に我々人間の生が成り立っています。

そのような言葉を基盤にした世界の成り立ちを、僕は「物語」と読んでいます。経済もまた、その我々人間が生きる世界を作る物語の一つの形なんです。

僕がもし、他のKOLの皆さんと違う視点で話せるとするならば、この部分にのみあります。そう、「物語目線で経済をみる」という視点。もちろん、殊更に「物語」を強調しない時も多いかとは思いますが、思考や発想の根底にはこのような前提があることをお伝えした上で、これからKOLとして投稿させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

1.小笠原諸島父島滞在のワーケーション事業

さて、前置きが極めて長くなってしまいました。今回はワーケーションについて書かせて頂きます。と言いいますのも、私、実は現在、小笠原諸島の父島にワーケーションで来ております。小笠原村が企画した「滞在型観光促進事業」の枠組みの中で、写真を撮ったり発信したり、あるいはのんびりしたりという、まさにワークとヴァケーションの合わさったような仕事に、信頼できる仲間と一緒に従事しています。なんともまあ、俺得極まる、本当に素晴らしい時間です。

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少し脱線し始めましたね、すみません。文学研究者の悪い癖です、思いついたら脱線したくなる。

さて、そういうわけで小笠原での日々と過ごしていると、ワーケーションという言葉、あるいはリモートワークという言葉、都市に住む我々が使うそれらの言葉に、少しのズレを感じました。

記事にあるように、ワーケーションの経験者は2021年1月の時点でまだわずか7%、とはいえ、今後ワーケーションを経験するつもりがある人が27%いるなら、少しずつ広がっていくだろうことは予想されます。

この記事の中で、私が気になったのは、「ワーケーションのメリット」という質問への回答として、「非日常に身を置くことで新しいアイデアが浮かぶ」と答えた方が48%となっていたことでした。質問の中に「非日常」という形で項目がそもそも立てられていること、そしてそれが当然の回答の一つとして多くの人に選ばれるということ、それらが、ワーケーションという、まだ世間に実体が浸透しきっていない言葉に対して、なんだか心のざわめきを引き起こすような違和感をもたらすのです。その違和感をさらに見つめるならば、おそらくそれはエドワード・サイードのいう「オリエンタリズム」に似た目線が、ここに被されているということになるのかもしれません。「非日常」というメリットで地方や田舎を見る目線には、サイードの「オリエンタリズム」にも似た、都合の良い幻想の押し付けがチラチラと見え隠れする、ということです。

この違和感の所在に気づいた状態で、改めてワーケーション関連の記事を読むと、その論の目線の方向性に気になるようになりました。多くの場合、それらの記事は、都市側、移り住む側の視点からオピニオンが発され、地方の方はそれらを当然受け入れることが無意識に前提とされているように感じます。

注)もちろん、同じ日経comemo内でワーケーションを取材したこちらの記事にように、むしろ「受け入れ側」の熱量や想いを語った素晴らしい記事もたくさん存在します。

2.PAT INNのオーナー瀬堀健さんの「夢」

ちょっと話を脱線させますね。話の脱線が好きなのは文学研究者の悪癖です(もちろんそうではない研究者もたくさんいらっしゃいます)。

私は現在、小笠原諸島の父島にある家族経営の素敵なホテルPAT INNというところに滞在しています。そもそも今回の「滞在型観光促進事業」枠での企画発案者が、PAT INNのオーナーである瀬堀健さんだからなのですが、滞在しているうちにどんどんと打ち解け、仲良くなってきました。自分も遠縁の叔父さんにでもなったような、居心地の良さ。本州がまだ冬の気候で凍えている状況で、僕は燦々と輝く太陽の注ぐホテルの中庭で、この記事を書いています。

すると、オーナーのお母さんが、小笠原諸島に古くから伝わる揚げたての「島ドーナツ」を持ってきてくれました。熱々揚げたてのドーナツに勝るものは、この世界にはなかなか無いというのは、古今の哲学者も口を揃えていっていることの一つです(出典は不明ですよ)

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昨夕、その健さんと一緒に、父島にある「傘山」という、日没を一望できる展望台へと登ってきました。現地に着くと、少し夕焼けに早い16時前。撮影に入るにはまだ少し早いので、1時間ほど健さんと話をする中で、徐々に健さんの考えている「ワーケーション」や「リモートワーク」の形が見えてきました。それは、大文字で語られている、都市側の目線とは違うストーリーのように私には思えました。

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健さんが語ってくれたその「ストーリー」の中で特に印象的だったのは、健さんが今回の我々の仕事に、典型的なバズや話題性を求めていないということでした。そうではなく、滞在者一人一人が、この小笠原という場所に独自のつながりを見出して、帰って行った後にその細く長い糸が切れないよう、大切に思ってもらえるような、そんな出会いを紡ぐことを通じて、「長期に」「何度も」滞在してもらえるような土台を作りたい、その基盤が自分のホテル業務であり、今回の「滞在型観光促進事業」で進めたいことなんだと。

その目線のあり方は、コロナ禍のニューノーマルとして大文字化されてしまった都市目線の「ワーケーション」や「リモートワーク」とは違う、自分の生きる土地を愛している人間の、現状をよく理解した上で描けることのできる、地に足のついた「夢物語」でした。

3.心のネットワーク効果という物語

資本であれ人間であれ、場所のネットワーク効果を高めることが、経済的にはもっとも効率がいい投資の仕方になります。そこにできるだけたくさんの人が集まれば集まるほど、その集積された人のネットワークの利便性が外部にまで波及して、更なる人を呼び集めるようなことをネットワーク効果とかネットワーク外部性と言いますが、我々に最も馴染み深い典型例はSNSになるでしょう。勝者だけが、ネットワーククラスタを全て総取りすることになります。かつてFacebook、Twitter、 Instagramがそうであったように。そして今度はClubhouseが音声におけるネットワーク効果を最大限に活かして急速にユーザーを増やしているように。

そのためには広告効果の高い有名な芸能人を使って、大手の代理店にキャンペーンを打ってもらって、一斉に大量に、というような、いかにも「都市型」「企業型」の施策が頭に思い浮かびます。こうしたものを一般的なネットワーク効果を期待したワーケーション施策とするならば、健さんの語ってくれた内容は、もっともっと泥臭い、でも救いのあるネットワーク、いわば「心のネットワーク効果」のようなものだと言えそうです。あるいは、僕の専門分野的関心に引き寄せるならば、「小さな物語の共有」と言い換えてもいいかもしれません。それは語られなければ見えさえしないものですが、適切に語れば、誰かの心に繋がっていく物語です。

そこにきた人の細い心の繋がりが、「もしかしたら」、未来のどこかで別の誰かに繋がるかもしれない。そんな保証はどこにもないけど、無心にその未来を願う健さんのストーリーは、おそらくは小笠原という小さな規模の町で発案するのにふさわしい、ネットワークの作り方だといえます。そしてそれは、日本に無数にある、小さな共同体のモデルケースにもなり得るでしょう。

逆に、地方側の受け入れの規模やサイズ感、あるいは時間の流れる速度やその文化的な様相を抜きにして、ただひたすらに「田舎は非日常で素敵な場所」と、都合の良い側面だけをクローズアップして地方を見るならば、かつてサイードが語ったオリエンタリズムと同じ構造が再現されてしまいます。力を持つ側の都合の良い幻想に、力を持たない側が縛られ、その幻想を内面化してしまい最後には地方の側が「想定される地方の姿」を無意識に自演してしまう。そうなると、ワーケーションという言葉で作られる状況は、おそらくは、誰にとっても虚しい、素顔のない仮面舞踏会へと変じることでしょう。そのハリボテの環境は、我々が都市のど真ん中で、自分の本音を隠して、息を吐く暇もなく仕事に追われている姿を、単に綺麗な背景に変えて再演しているだけ、ということになりかねません。

4.目線は最後まで交わらないにせよ

さて、長々と一本めの記事を書きました。言いたいことはオリエンタリズムでもネットワーク効果でもなく、目線の非対称性なんです。もちろん、生きる場や文化が違えば、目線は必ず非対称になり、交わることなく、同じ場所を見ても違う絵を書いてしまうものです。でも、少なくとも、その目線が向かう先をお互いに少しずつ想像する努力を積み重ねれば、全く同じ絵が書けることはないにせよ、何かの拍子にその絵がうまく重なり、意図を越えた美しいコラボレーションが創作されるかもしれない。ワーケーションという単語の中には、常に双方向の目線があることを今回の記事ではお伝えしたかったんです。小笠原の抜けるような青空の下で、そのことを強く感じました。

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今後もこんな形で文章を書いていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

そうだそうだ。この記事の冒頭の写真、なんの写真だと思いますか?これは、小笠原の父島で行われる「見送り船」の一枚です。小笠原諸島に来るには「おがさわら丸」に乗って24時間のインターネットから断線された船旅を経なければなりません。帰りももちろん同じ旅程。そのような大変な時間を使ってきてくれた旅人たちが帰るとき、その船を見送る船が港からたくさん出ます。そして泳ぎの達者な人たちは、その船から、コバルトブルーの海へと飛び込んでいく。その姿を目にしながら、旅人たちはそれぞれの場所へと帰っていく。そんな光景が、繰り広げられるんです。

多分これを見た時、各々の心にこの島につながる一本の「線」が出来上がるんじゃ無いかと、そんな予感がしています。

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