なぜ東京のトイレはキレイなのか?―コンテクストのないところに、コンテンツは生まれない
目に見えて日本の人口が減っている。街のなかで高齢者が多くなってきていることは実感していたが、子どもや若者がぐんと少なくなってきたと感じるようになった。飲食店や商店や工場や建設や交通・物流の現場では、人が集まらない。外国労働者が増えている。大阪のある区では、世界から60ヶ国の外国人が住んでおられるという。多国籍都市と言われていたオーストラリアのメルボルンで23ヶ国だと聴いたことがあったが、その数を大きく上回っている。すでは、日本は多国籍社会である
1 江戸時代の大奥があれだけ艶やかだったのは?
人口減少は加速している。若者が地方から都市に動く流れは変わらず、単身者が急上昇している。子どもが減り、さらに人口が減る。このまま人が減りつづけると、社会経済は縮小・縮退して、社会の生産性・品質が低下して、経済成長がとまってしまうのではないかーそんな社会不安が拡がる
日本は大丈夫だろうか?
どうなっていくんだろう?
この問題のスケール感と日本政府の財務能力・税能力で考えると、そういう話は小さい。たとえば今年度の防衛予算は8兆円。日本の人口が少々減少しても、国は傾かない。8兆円もあれば、何百万人を救うことができる
人はどうしても自分の財布で考える
たしかに自分がイメージできるお金のスケール感があるが、国には、想像できないくらいのお金が集める装置 がある。大丈夫、お金はある。しかし問題は、そのお金を中長期的に展望してどのように使うかである
たとえば徳川幕府の大奥。煌びやかな空間がドラマや映画で再現されている。そんな映像を観て、江戸時代の大名は、どうしてあんなにリッチな生活ができたのだろうと思う
年貢を取り立てた。民より米を集め、大坂や江戸に送って、換金した。毎年毎年、年貢を集めた。江戸期や明治の初頭の日本の財力を現在価値にすると、びっくりするような金額になる
租税を収奪する、金を徴収する
という税金を徴収する仕組みは、古代から現代まで、世界共通である。日本も、片時もその制度がないときはない。 必ず誰かから何かを集めて、権力者はそれで財政運営してきた
2 人口減少時代で、どう変わる?
それは、中国やネパールの地方を見たら分かる。中国やインドや東南アジアの首都などは近代化しているけれど、古い社会のままの農村もまだある
なぜそうなっているかというと
移動の自由がないから
現代の若い人には学校があり行動が自由となったが、農村の大半の人には移動の自由がなかった。都会に行った若者が帰って来なければ、農村は消えていく
目的があるところは残るが
目的をなくしたところは消えていく
奈良の平城京も、大阪の難波宮も長らく、その所在地が分からなかった。中国の古代の都も今もその所在地が分からない。それは世界共通である。ペルーのマチュピチュは、古代のインカ帝国だった。目的がなくなったら、消えていく。カンボジアのアンコールワットも、そうだった。みんなの記憶からなくなると、消えていく
都市が必要ならば、都市化が進む。都市化する理由は、そこには多様な人々に出会えるかもしれない、ビジネスチャンスがあるかもしれないという経済性、そこに住んでいても誰にも干渉されないという匿名性などが都市にはある。目的性がある限り、そこに人々が集まる
人が集まってくると、その状態を守ろうという目的を持った人がでてくる。明治維新で版籍奉還して、全国から東京に人を集めたから、東京を守る必要がうまれ、156年、東京集中を維持してきた。都市を守ることが、自分の利益になった
だから東京にふんだんと金が投入された。2008年にふるさと納税で、お金の流れが変わり、東京の財政がすこしだけ減ったが、明治維新以降につくられた東京に人と金が集める構造は継続している
3 なぜ東京の公共トイレはキレイなのか?
東京に、世界的建築家やデザイナーがデザインした公共トイレ「THE TOKYO TOILET」が注目されている。カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した役所広司氏が東京の公共トイレ清掃員として働く日常を描写した「PERFECT DAYS」で、東京の公共トイレが話題で、観光客が立ち寄る
すごいね
東京の公衆トイレは立派で、きれい
東京都には金があるから
できるんやろなあ
たしかにそうともいえるが、こうとも考えられる
金があるからつくれたのではない
利用する人が多いから
公共トイレに金がかけられる
仮に家もビルもない田園風景の場所に、高級公共トイレを作ったとしても、利用する人は1日に数人しかいないかもしれない。それだったら、投資が回収できない。東京に高級な公共トイレを作ったら、1日に1000人が使うかもしれない。そうだったら、トイレにお金をかける目的ができる
同じく、東京駅舎はとても立派である
東京の公衆トイレと同じく、東京駅は利用する人が多く、駅舎に金をかける目的がある。一方、乗降者の少ない田舎の駅を立派にしたらどうなるか?
門司港駅の駅舎は立派である
門司港駅は戦前・戦中、九州と本州の接続、中国・台湾・満州・朝鮮など海外との玄関口であり、乗降者が多かった。だから荘重なネオ・ルネサンス様式の駅舎をつくった。戦後になって人・モノの流れが変わり、現在は観光資源ではあるが利用者は多くない
4 コンテクストのないところに、コンテンツは生まれない
都市の仕組みは、「都市という空間がある」のではなくて、都市という「規模の経済」が働き、「集積の経済」のメカニズムが働く場所である。規模の経済では、数量が多くなれば値段が下がる。店がオープンして1日1000人のお客さまにご来店いただけたら、投資しても元は取れる。しかし1日10人も来ていただけなかったら、元はとれない。「都市という空間がある」のではなく、魅力があるいから人は集まり、集積の経済が働くのが都市である
「集積の経済」が働かない都市は
持続できない
そういう見解を持たない「まちおこし」「まちづくり」論が多い。現実的ではない未来の絵を描いて、その金を誰が出すの?となる。出さない。
そこで、思考停止する
集中の経済が働き、ヒト・モノ・コト・情報が集まることが大前提である。集まればお金をかけても、地域の経済はまわる。しかしヒト・モノ・コト・情報が集まらないのに、お金をかけて、どうやって元が取るんや?というと、まちづくり屋さんたちはこういうだろう
まちをつくったら集まる
大金をかけて都市をつくったからと言って、人が持続的に集まりつづけた歴史は決して多くない。この数十年の世界史でも、そう。ブラジルのブラジリア、アラブ首長国連邦のドバイ・アイランド、マレーシアのフォレスト・シティ、ミャンマーのネピドー、中国の河北省など、机上で計画した人工都市は、持続的・自律的に成長していない。なぜか?
必然性がなかった
カジノのラスベガスは、当初は人が集まらなかったが、その後の創意工夫で、現在はうまくまわっている。存在価値を創造して、集中の経済が働きだしている。人が住み、人がやって来て、人がそこで物を創ったり売ったり買ったり、美味しいものを食べたり、遊んだりすることに経済性がつかないと、地域経済は回りださない。この地域経済メカニズムが分かってないプランナーたちの
まちづくり「ごっこ」が多い
どこのまちでも通用するようなコンセプトとデザインを、いつも同じ都市計画屋・建築屋たちの、コピペの金太郎飴のまちづくり。国や自治体の補助金、企業の金を集めて、東京基準の全国同じようなまちをたちあげる。まちびらき、リニューアルオープンしたときは物珍しさで人は来ても、人が集まりつづけるとは限らない。3年後、5年後、10年後、30年後、50年後、ほとんどのまちが計画どおりに成長していない
それは、人口トレンドが見えかけていた30年前には、終わっていなければいけないまちづくり「ごっこ」だった。その都市・地域・まちのコンテクストを「旧来のまちづくりの専門家」以外の多様なメンバーの知恵を結集して、読み解き、その土地のビジョンを描き、時間をかけて創りつづけていかないといけない
コンテクストのないところに
コンテンツは生まれない
街は今日、明日では終わるものではない。ずっと未来につづくもの。現在、知恵を絞り、戦略を考え、行動しないと、未来は開拓できない。ぜひ、以下の未来展望・未来開拓セミナーで考えてみませんか?