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子の親として令和の多様性を考えてみた

Web プラットフォーム KATALOKooo の翠川です。今年7歳の長女、5歳の長男、1歳の次男の母親でもあります。この春に、娘が小学校に入学しました。マスクでソーシャルディスタンスを保った入学式出席後休校。自宅学習がスタートした。すでに小学生だったお子さんをお持ちの皆さんは3月2日から…本当に長かったですね!同境遇だった全国のお母さんお父さん、本当におつかれさまです。

自宅学習期間、担任の先生から電話がかかってきて代わったときに、「うん、元気!」と答えていていや、敬語…と思ったが、 「敬語」も「目上」も、概念から教えたことがなかったので言葉を飲み込んだ。…えーと、これは道徳?いや国語…?と、義務教育〜と白目になった。

(結局、小学生になったから、大人の人に話すときには丁寧に敬語を使おう。でも、これまで保育園の先生には敬語を使っていなかったし、親にも祖父母にも使わないわけだから、相手の人が仲良しな感じで話したらうれしいと思ってくれそうだなと感じたときは、今まで通りタメ口かなということで娘も納得していました)

そんなわけで急に娘の「他者への意識」に着目しはじめ、特にこの1ヶ月はこれからの時代性になるのであろう、「多様性」にフォーカスして過ごしました。今月ようやく通常に戻りつつある学校生活で一区切りとして、気になる記事から考えたことを投稿しておきたいと思います。

「褒める」は、「褒めた人以外を落とす」ではない

「自分が知らない間にルッキズム/外見主義(容姿によって人を判断すること)の助長に加わってしまっているかもしれないと思うと困る。見た目で人を判断するのは絶対違うと思うし、そもそも一番美しい人なんて選ぶことは不可能」と容姿だけで人を判断することを助長する恐れのあるこの企画に対して、批判的な意見を述べました。

水原希子さんのIGストーリーズでの投稿で、ルッキズムに関してTLが溢れていた。

ルッキズム(英: Lookism)とは、身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことをさす

私のTLは、デザイナーなど美的感覚に気を配って仕事をしている人も多く、「自分もルッキズムなのか…?」と惑っているのも見かけた。私も、美しいものが大好きな質だ。でも、フォルムが美しい大きな樹を見て涙を流すことはあっても、フォルムが良くない樹を魅力的でないと思うことはない。差別的取り扱いをする気もさらさらない。美しいという才能が、誰かを喜ばせていて素晴らしいなと思うだけだ。

長女は、私が長男を褒めると、「でも、もう少しお兄さんになったときはもっと大変だよ」と急に言ったりする。そういうとき、私は別にそんなこと言わなくても長女を出来ていないと言っているわけではないのにと思う。素直に、「すごい!かっこいい!」と言えるときもある。いつもそう捉えらえる方が生きやすいだろうなと思いながら、彼女の複雑な心の移ろいを観察している。

逆に、「(長女の名前)は馬鹿だからわからない」と言ったりするときは、必ず突っ込むようにしている。「馬鹿だって誰かが言ったの?自分で思ったの?」「母は(長女の名前)を馬鹿だって言ったことはない。一度も思ったこともない」「貶めるのでなくわからないなら教えてとか考えるから時間ちょうだいといえばいい」と畳み掛ける。「褒める」のは、「褒めた人以外を落とす」ことではないのと同様、「自分を落とす」のは、「自分以外をあげて逃げ切る」ことではない。言霊で自己肯定感の下げ癖を付けるべきではないと思う。

「あなたは今、上下を決める係ではない」

水原希子さんの事例に話を戻すが、当事者である彼女が、勝手にノミネートされ、勝手にジャッジされて不快に思い意思表明するのは、批判されることでも評価されることでもなく、当然のことだろう。

ここで問題なのは、当事者でなく、優劣や上下関係を定める立場にあるわけでもない人が、勝手に順位を決めることだ。

「人として身につけなさい」と学んだことは、それをできていない人を「人として欠落している」と見てしまうのだ。なんて恐ろしいんだろう。
多様性の尊重とは「素晴らしいね」ということではない。「わたしには理解できないけれどあなたはそれを大切にしているんですね」と受容することだ。否定しないということだ。自分が傷つくことも、だれかを傷つけることもない。

きしもとたかひろさんが、この記事を書くきっかけについてツイートしていたところに様々な意見がぶら下がっているのも、興味深く拝見していた。「箸の持ち方」という躾とマナーが滅びるという仮説をされているのだが、美しい文化としての箸の持ち方はなくならず継承されていく方がいいが、それが出来ない人を差別していいことにはならないと思う。

上下や優劣をつけるのが全て悪ではない。学校の成績は、頑張った生徒が上位になり何もしない生徒が下位になるべきだし、会社の人事評価システムでは、上司が優劣を付けて評価をするわけだし、やりがいを見出せる活力になることの方が多い。評価される側が認めた、評価者というのは必要な存在だ。

長女と最近よく話すのが、「姉は、弟にいうことを聞かせる係ではない」という話だ。長女は長女の、長男には長男の、次男には次男の、意思を尊重するべきで、誘ったり、お願いしたりするのはいいが、思い通りにならないと怒るのをやめなさい、と。これは、ともするとその、「差別」の構造と近いのではないか。子どもたちが多様性をうまく許容ができそうにないとき、「あなたは今、上下を決める係ではない」と伝えようと思う。

自分と違うことにワクワクできる子になってほしい

話は変わるが、私が小学生の学級会?のときに、「良いところを見つけましょう」と先生がいったことを間に受けてやってみて、自分が救われたことがある。気の合わない(大人しい子に意地悪をしたりするような)子のことがどうしても気になってしまっていた私だったが、良いところだけにフォーカスすると多かれ少なかれ全員いいところというのはあるし、短所はさておき才能に気付けると嬉しくなった。ああ、これは生きやすいぞ!と思った。

以降、自分の気を楽にするために積極的に良いところを見つけるようになった。自分は才能ハンターだなと今も思う。当然、全員自分と違ってかっこいいのだ。

親になって思うのは、自分と違う人がいることに違和感を持って除外しようとするのではなく、その違いにワクワクできる人になってほしいと思う。その方がずっと生きやすいし、なんせ楽しいからだ。

親子・多様性・教育、などが合わさると急に、下記のような記事が気になってきたりします。日本はやはり遅れている…。

多様性を重んじる時代になる気配もあるし、一方で才能が偏っていくような気配も感じられる令和。何せ、子どもたちが、生きやすく楽しい未来を作っていってほしいと願っているので、これからも考察を続けたいと思います。

手前味噌ですが、半年前書いた投稿でも、「多様性を受け止めることは自然」というようなことを書いていました。

子の親な皆さんは、多様性への許容力を育てることについて、何を思いますか?よかったら聞かせてください。

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