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セルフケアとセルフラブと資本主義の話

「セルフケアとは、身体的、精神的、そして感情的に健康でいられるように、自分自身をケアするために行うこと。その効果は、身体的、精神的、感情的な健康と幸福の向上。セルフケアは、回復力を養い、長生きし、ストレスにうまく対処できるようになるなど、健康上の良い結果をもたらすことが研究で示唆されている。

セルフケアの一般的な例としては、規則正しい睡眠、健康的な食事、自然の中で過ごす、好きな趣味をする、感謝の気持ちを表す、などが挙げられる。セルフケアの方法は人によって異なるが、セルフケアとしてカウントするには、その行動があなたにとって健康と幸福を促進するものでなければならない。」


このような「ご自愛リスト」たるものは、雑誌や広告などでもよく見かける。しかし、
・このリストはどちらかというと「コーピング方法」や「趣味」であって、根本的解決では全くない
・応急処置的には効果があるけど、社会/環境/経済を考えた時に帰属可能でない
・現存するシステムの中での「適応」に全振りした「セルフラブ」は資本主義と加速する個人主義への隷属

このリスト単独を批判したいわけではなく、アメリカでも問題視されている「不安やイライラの根本的原因である資本主義を批判せず、その構造にさらに加担することでコーピングすること」または「モノを売る手段として利用されること」を意識する必要がある。先鋭的ななフェミニストによる教えだった「セルフケア」が、いかにして資本主義的な大衆ウケのために政治性を剥奪されたのか。

「「セルフケア」という言葉がこの10年ですっかり定着したのには理由がある。MeTooの時代、家父長制社会の中で女性が我慢してきた様々な問題が見直された。

セルフケアは、無理をしている女性、病気の女性、家事や仕事、家族や友人関係を維持するための感情的・身体的労働の重圧に押しつぶされている女性、燃え尽きた女性にとって非常に魅力的なものだった。

政治的な出来事から気候の大混乱まで、多くのことが私たちの手に負えないこの世界で、我々がコントロールできることは何だろうか。我々、肌につける製品やフィットネスのクラスに参加すること、体に入れる食べ物をコントロールすることができる。

その結果、呪文としても権利の宣言としても使われる「セルフケア」は、主に女性の時間、感情的能力、代理権をめぐる一種の再生産となった。この言葉は、乳がんから回復して休息を必要としている女性から、アボカド・ボディスクラブのスペシャルメニューを宣伝しているデイスパまで網羅できるほど伸縮自在になった。

しかし、この言葉の問題点は、その言語構造そのものに根ざしている。

自分自身をケアをすることは素晴らしいことだが、セルフケアは、自分自身、健康、そして運命を仲間たちと表裏一体のものとして捉えるのではなく、自分自身をケアするという新自由主義の伝統に根ざした考えだ。」

このような資本主義的、「白人ガールボス的」セルフケアは、長い目で見れば限定的な快楽であり、持続可能ではない。グリーンジュースや高級品にお金を使った「自分へのご褒美」カルチャーがいかに「偽の喜び(Fake joy)」であるか。

こういう資本主義的なセルフラブ・セルフケアの概念は当然アメリカでも蔓延っている。だからこそ、日本で導入するならもっと慎重に、消費者としてニュアンスを持たせて取り入れる必要があると思う。セルフケアまでもが「生産性」に結びついてしまうのは恐ろしい。

自分の単行本『世界と私のA to Z』より。
第1章に入れた「セルフケア・セルフラブ」は、編集者が「絶対に第1章に入れるべき」と言ってそうなったのですが、間違いなく今後の日本のマーケティングで「Z世代」というフレーズと併せて乱用されると思う。興味、もしくは疑問のある人に是非読んでほしいと思う。

竹田:セルフケアの概念自体、そもそもブラックパンサー(ブラックパンサー党。1966年に結成され、1970年代にかけてアフリカ系アメリカ人のコミュニティーを人種差別や暴力から守るために活動した黒人解放闘争のための自衛組織)が形成したものだと言われていて、白人中心社会に対抗するアクティビストたちが、社会の問題と向き合って戦っていくために、自分を大切にすることの必要性を広めたんですよね。」



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