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ウィキペディアを巡る「想い」の変わりようーー人の「善意」に注目がいく。

ある事柄に関する認知が変わるには時間が必要で、しかも、要する時間は事柄や人によって異なります。

世界の人々のなかでウイキペディアの信頼性は上がっているのでは?となんとなく最近感じていたので、日経新聞の次の記事を読んだ時、生成AIの出現がウィキペディアに対して相対的に追い風になっている部分もあるのかと思いました。

――誰もが自由に記事を編集できるウィキペディアでは、偽情報とどう闘ってきたのか。

「発足当初から誤った情報を書き込む人はいた。十分な知識がないまま情報源を示さず、思いつくままに書かれた記事もあった。悪意による場合もあっただろうし、冗談でウソを書き込んでしまったケースもあっただろう。こうしたことは20年以上前から経験しており、今に始まったことではない」

「記事の執筆や編集の過程でエラーやミスが生じるのは避けられない。ウィキペディアのような開かれた編集モデルにとって重要なのは、参加者の手で情報を修正するという発想だ。大勢がチェックを重ねることで情報の誤りを正していくことができる」

「これは情報の真偽よりも、扇情的でシェアされやすいことが重要なSNSとは大きく異なる。SNSでは検証されないままに虚偽の情報が拡散してきた」

「いいね!いらない」普通の人が編む真実 ウィキ創設者

これを読んで、ウィキペディアが自身の信頼性をどう記載しているのだろうーーと思い検索してみると、「ウィキペディアの信頼性」というタイトルのウィキペディアがありました。

ウィキペディアの信頼性(ウィキペディアのしんらいせい、英語: Reliability of Wikipedia)は、オンライン百科事典であるウィキペディアにおける信頼性であり、長年議論されてきた。ウィキペディアは、不特定多数の誰もが編集可能であるという性質上、その信頼性・信憑性が疑われやすい。国際的な百科事典であるブリタニカのような従来の百科事典は、基本的にその分野の専門家のみが執筆可能であり、また査読を得て公表・公開されるのが通例であったが、ウィキペディアは「検証可能性」「独自研究は載せない」「中立的な観点」という三原則を大前提とするならば[1]、専門家でなくとも編集ができ、また基本的に査読も行われない。

ウィキペディアの信頼性

ぼくが、まったくの印象論としてウィキペディアの信頼性の向上を思ったのは、他人の記事中、ウィキペディアのリンクを貼っているとき、「ウィキペディアの情報だからあてになりませんが・・・」との但し書きをみるのが少なくなったーーそもそも、ウィキペディアの情報を引用している記事を目にするケースが増えた、ということがあります。

それで、ウィキペディアの情報と生成AIの情報の信頼性を生成AI自体がどう考えているの?との疑問が芽生えます。次です。

ウィキペディアの信頼性
ウィキペディアは公開かつ非営利のモデルに基づいており、多くのボランティアが知識を生み出し、共有し、磨きをかけています。

信頼できる情報源のある知識を含んでいますが、それは人間によって作り出されているからこそです。

ウィキペディアはアクセスや共有が自由であり、機械生成コンテンツがあふれるインターネットにおいて、さらに一層価値を持ちます。

へえ、生成AIが「信頼できる情報源のある知識を含んでいますが、それは人間によって作り出されているからこそです」と自白(!)しているのですね。それでは生成AIの弱点をどう語るのでしょうか?

生成AIの弱点 LLMからの出力はファクトチェックされていないことがあり、フェイクニュースを正当化しかねない場合もあります。また、訓練していない情報を使ってプロンプトに答えることはできません。

いやに謙虚じゃありませんか。それで、以下の結論にある「生成AIは進化しているものの、人間の貢献と相互関係を重視するポリシーが重要です」との優等生的回答をみて、まあ、こういうことを言うしかないと思って記事を書いている人が多いのだろうなあ、と思うわけです。

ウィキペディアは人間が生成するコンテンツ源の価値を高めており、機械生成コンテンツとのバランスを取る必要があります。生成AIは進化しているものの、人間の貢献と相互関係を重視するポリシーが重要です。

とすると、ウィキペディアの創設者であるジミー・ウェールズがインタビューでコメントしている冒頭の日経新聞の記事に目が再び戻ります。

――AIが偽情報の生成に悪用される可能性もある。

「その懸念は間違いなく現実になりつつある。生成AIは単に精巧な偽画像をつくり、ウイルスのように拡散するだけではない。より恐ろしいのは、特定の人物を標的として情報を届ける能力を持つことだ」

「あなたの母親の過去のSNS投稿をすべて読み込み、それに基づいて効果的な政治的メッセージをつくりあげることだって可能だ。AIがこうした目的で大規模に使われることを心配している」

「いいね!いらない」普通の人が編む真実 ウィキ創設者

ウィキペディアができて23年です。当初はゴミの塊のようにも言われたウィキペディアが試行錯誤を繰り返しながら徐々に信頼性を獲得し、生成AIの爆発的普及でその信頼性は一気に増したかのような感をもつーーそれも、圧倒的に地位が低下したSNSとも方向が違うことが有利になっています。

――運営費用は寄付に頼っており、経済的な基盤は万全とはいえない。なぜそのやり方がうまくいったのか。

「読者が求めているのは『事実を端的に伝えてほしい』ということだ。だからウィキペディアはクリック数を稼ぐために扇情的なタイトルを付けることをしない。SNSのように『いいね!』を獲得し、情報をシェアしてもらうことを動機にしていない。もし広告に収益を依存していたら、クリック目当ての中毒性の高いサービスになっていただろう」

「いいね!いらない」普通の人が編む真実 ウィキ創設者

こう言ってはなんですが、ウィキペディアは「地獄への道は善意で敷き詰められている」代表のようにも称されていたのが、いまや「天国への道はやはり善意で敷き詰められていた」に転換したーーともジミー・ウェールズは言いたいのではないか?と勘繰りたくなるほどに、人の善意が焦点を浴びていることになります。それについては、このインタビューをして記事を書いた生川暁記者自身が触れています。

「私は常に病的な楽観主義者だ。すべてがうまくいくと考えている」。ウェールズ氏が発した言葉には「本当か?」と疑問を向けたくなる。むろん、当人も簡単に解決できるとは考えていないだろう。あえて現状や未来を前向きにとらえようと、自らに言い聞かせているようにも思えた。

その姿勢がなければ、ウィキペディアが四半世紀近く存続することはなかったはずだ。誤った情報があるなら、力を合わせて地道に正していく。理想論だとしても、その努力の重要性は否定できない。テクノロジーがもたらす負の側面と向き合っていくことは、現代を生きるうえでの共通の責務でもある。

「いいね!いらない」普通の人が編む真実 ウィキ創設者

記者の最後の言葉、そう、生成AIの結論と近いです。これをみて、生成AIを再評価するのか、この先の考え方を追求すべきではないか、とかさまざまに想いをはせるのが人間の課題なのでしょう。

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冒頭の写真は、現在、ミラノの王宮で開催されているドルチェ&ガッバーナのオートクチュールの展覧会です。ドルチェ&ガッバーナはプレタポルテファッションからスタートし、2012年からオートクチュールに進出しました。冒頭の写真にある作品は、ルネサンス期のラファエッロの絵画をモチーフとしています。

これをみて「ラファエッロ自身は、このように5世紀後に服に使われるなんて想像もしなかっただろう」と思うか、「5世紀後のことなんて想像のしようもないとラファエッロ自身は考えていただろうから、この作品に違和感などもたいないかも」と思うか、案外、後者かもしれないーーとの推察がぼくの頭をよぎりました。

因みに、以下の写真にあるような服とインテリアのデザインの繋がりが印象的でした。

ミラノ王宮でのドルチェ&ガッバーナのオートクチュール展



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