ある事柄に関する認知が変わるには時間が必要で、しかも、要する時間は事柄や人によって異なります。
世界の人々のなかでウイキペディアの信頼性は上がっているのでは?となんとなく最近感じていたので、日経新聞の次の記事を読んだ時、生成AIの出現がウィキペディアに対して相対的に追い風になっている部分もあるのかと思いました。
これを読んで、ウィキペディアが自身の信頼性をどう記載しているのだろうーーと思い検索してみると、「ウィキペディアの信頼性」というタイトルのウィキペディアがありました。
ぼくが、まったくの印象論としてウィキペディアの信頼性の向上を思ったのは、他人の記事中、ウィキペディアのリンクを貼っているとき、「ウィキペディアの情報だからあてになりませんが・・・」との但し書きをみるのが少なくなったーーそもそも、ウィキペディアの情報を引用している記事を目にするケースが増えた、ということがあります。
それで、ウィキペディアの情報と生成AIの情報の信頼性を生成AI自体がどう考えているの?との疑問が芽生えます。次です。
へえ、生成AIが「信頼できる情報源のある知識を含んでいますが、それは人間によって作り出されているからこそです」と自白(!)しているのですね。それでは生成AIの弱点をどう語るのでしょうか?
いやに謙虚じゃありませんか。それで、以下の結論にある「生成AIは進化しているものの、人間の貢献と相互関係を重視するポリシーが重要です」との優等生的回答をみて、まあ、こういうことを言うしかないと思って記事を書いている人が多いのだろうなあ、と思うわけです。
とすると、ウィキペディアの創設者であるジミー・ウェールズがインタビューでコメントしている冒頭の日経新聞の記事に目が再び戻ります。
ウィキペディアができて23年です。当初はゴミの塊のようにも言われたウィキペディアが試行錯誤を繰り返しながら徐々に信頼性を獲得し、生成AIの爆発的普及でその信頼性は一気に増したかのような感をもつーーそれも、圧倒的に地位が低下したSNSとも方向が違うことが有利になっています。
こう言ってはなんですが、ウィキペディアは「地獄への道は善意で敷き詰められている」代表のようにも称されていたのが、いまや「天国への道はやはり善意で敷き詰められていた」に転換したーーともジミー・ウェールズは言いたいのではないか?と勘繰りたくなるほどに、人の善意が焦点を浴びていることになります。それについては、このインタビューをして記事を書いた生川暁記者自身が触れています。
記者の最後の言葉、そう、生成AIの結論と近いです。これをみて、生成AIを再評価するのか、この先の考え方を追求すべきではないか、とかさまざまに想いをはせるのが人間の課題なのでしょう。
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冒頭の写真は、現在、ミラノの王宮で開催されているドルチェ&ガッバーナのオートクチュールの展覧会です。ドルチェ&ガッバーナはプレタポルテファッションからスタートし、2012年からオートクチュールに進出しました。冒頭の写真にある作品は、ルネサンス期のラファエッロの絵画をモチーフとしています。
これをみて「ラファエッロ自身は、このように5世紀後に服に使われるなんて想像もしなかっただろう」と思うか、「5世紀後のことなんて想像のしようもないとラファエッロ自身は考えていただろうから、この作品に違和感などもたいないかも」と思うか、案外、後者かもしれないーーとの推察がぼくの頭をよぎりました。
因みに、以下の写真にあるような服とインテリアのデザインの繋がりが印象的でした。