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データはいつも王様か?

データの世紀と言われる。前世紀に暮らしを豊かにしたモノの旗色は悪く、データを元手とするデジタル企業が躍進を続ける。データを現代の石油とする考え方は、「測れないものは管理できない」と言い放つアングロサクソンな経営哲学と相性が良い。データには嘘がないから、そのデータを常に冷静で同質な判断がくだせるAIで分析さえすれば、必ずベストアンサーが導かれると思いたい気持ちはわかる。

しかし、本当だろうか?駆け出しコンサルタントの仕事は分析が中心だが、よく”Garbage in, garbage out”と聞かされていた。どんなに分析に精を出しても、データの質が悪ければ(ゴミなら)、分析結果も怪しい(ゴミ同様)という戒めだ。実際、データは客観的に見えながら、必ずしも見えない事情に影響を受けている。AIを使わずとも、素直な分析が間違った結論を生むことはよくある。

例えば、従業員満足度調査を例に取ろう。例えば女性の満足度が極端に低いとする。すわ、ワークライフバランスだ、潜在的バイアストレーニングだという結論が、本当に正しいかどうかは分からない。たまたま女性が偏ったある部署の不満度が高く、実はその部署固有の問題を「女性の問題」にすり替えているのかもしれない。仮に女性全般の満足度が低くても、そもそも男性は適当に「流す」調査を女性は真面目につけるという性差が出ているのかもしれない。ならばアクションは不要だろう。

このように、折角データを取っているのに、本質を見誤ることは珍しくない。

では、データの質を上げるために、多面的なデータをよりこまめに取れば良いだろうか?もろ手を挙げて賛成できない。

まず、データなしで解決できることも世の中にはたくさんある。満足度調査の例を続けると、既に「従業員全員、今日のモチベーション」データを取るアプリとAI分析ビジネスは存在する。しかし、アプリでわざわざ「今日の気持ち」を入力する時間があるならば、同僚や上司と何気ない会話をするほうが、よほど本人のモチベーション向上と和やかな職場につながるのではないか?

究極の目的、例えば「職場のモラルを改善したい」に対して、本当にそこまでのデータ収集と分析が必要なのか、まず立ち止まって考えたい。確かに経年で観察したいというニーズはあるだろう。であれば、データはあくまで「結果指標」として緩くモニターすれば済む。

もちろん、すべてのデータ採集を否定するわけではない。情報機器とAIのおかげで、今までなかった示唆が得られることも確かだ。ただし、データと根本的な要因との相関が理解しやすく、アクションとの距離が近いことが必要条件になると思う。

例えば、青森市では昨年の冬「ゆきレポあおもり」というアプリで市民から積雪の状態をスマホ投稿してもらい、除雪車発動を判断する実験を行った。電話相談に比べ、24時間対応の上、対応時間を圧縮し、サービスの質が上がる。夏バージョンでは、「まちレポあおもり」と銘打って、道路・公園・水路の相談を受付中だ。このように、データとアクションの距離が近ければ近いほど、間違った結論が導かれることが少なくなる。

一方、データと結論の相関が人間には分からなくても、AI分析は常に正しいと信じる向きもあろう。しかし、これは危険だ。AIは既存のデータを大量に学習してアルゴリズム精度を高めるが、既存のデータ自身にバイアスが潜んでいれば、それを素直に包含したアルゴリズムが出来てしまう。冷静な判断どころか、AIがバイアスを(冷静に)強化する方向に作用する。


また、データと結論の相関が不明なブラックボックス問題は、人間の存在意義を問うものだ。もし考えることを放棄したら、消費と享楽を除いてひとの役割には何が残るのだろう?

「いちばん大切なことは、目に見えない」とは星の王子様のキツネの言葉だ。「測れるから測る」というデータ信奉に振り回されることなく、何が大切なのかを見極めたい。

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