「スリランカの三人の王子」が、分断したこの世界を救うのかもしれない
先日COMEMOにこんな記事を投稿しました。
自分で書いておきながらなんですが、記事の最後は救いがなくって、「最近分断が進行してるって話をよく目にするけど、そもそも結束してたってのが幻想で、最初からずっと分断してたよね。単にそれがコロナ禍で劇的に可視化されただけですよね」と言う感じで話を進めてます。でもね、救いがないかもしれないんですが、この認識からスタートしないとダメだと思ってるんです。その理由は、現在の世の中の流れが、この「可視化され始めた分断」を利用することで、利益を得たり、勢力を拡大しようと目論む集団や団体が増えてきたからです。
と言うわけで、今日は「分断の先」を考えたいと思います。その時考察のとっかかりになるのは、陰謀論やフェイクニュースです。この数年で一気に目にするようになった単語ですね。
(1)陰謀論とフェイクニュースにご注意を
ところでみなさんは陰謀論ってどう思いますか。あるいはフェイクニュース。「なぜあんな突拍子もない話を信じるのだろう?」と不思議に思う方も多いんじゃないでしょうか。でもこれ、そもそもその疑問自体、実は問い方がズレてたんじゃないかという気がしています。
と言うのも、上の記事に書いたように「そもそも分裂していたこと」が可視化されているのが現代なのだとすると、フェイクや陰謀を是正するために、「みんな」が依拠する価値判断など、もう望み得ないと言うことなんです。その結果「フェイク」や「陰謀」のような、本来なら一笑に付されるような言説の一つ一つを「信じている人」を、引き戻すような物語を作れなくなってしまっているわけです。
だから先ほどの問いは、「なぜあんな突拍子もない話を我々の社会は流通させてしまうようになったんだろう」と言うべきなんです。おそらく個人では対処できない。人間が作り出している今の社会が、陰謀論やフェイクニュースを流通させる構造を持っている。ではその構造とは何か。単に「社会や個々人が分断している」だけでは、フェイクも陰謀論も、成立し得ないんです。それらもまた単なる物語である以上は、これまで社会を維持してきた「共同幻想」と同じく、分断されて然るべきだからです。ところが、荒唐無稽で、社会に害を与えかねないような物語であるフェイクや陰謀論に引き寄せられる磁場が生成されている。その力の正体は何か。もちろん、みなさんもう耳にされたことがあると思います。フィルターバブルとエコーチェンバーですね。
(2)響きと怒り
フィルターバブルとエコーチェンバー、似ているようですが少し違います。Wikiを引いてみましょう。
フィルターバブルは、「「インターネットの検索サイトが提供するアルゴリズムが、各ユーザーが見たくないような情報を遮断する機能」(フィルター)のせいで、まるで「泡」(バブル)の中に包まれたように、自分が見たい情報しか見えなくなること」を指します。つまり、情報の選別がネットのアルゴリズムによって、事前になされてしまうような状態です。いいかえるとフィルターバブルとは、「信じたい情報だけが流れてくる状態」のことを指します。
エコーチェンバーは、「閉鎖的空間内でのコミュニケーションが繰り返されることにより、特定の信念が増幅または強化されてしまう状況の比喩」を指します。いわばこれは「場」ですね。同じ情報を信じたい人たちが集まって、まるで自分が多数派に属しているような体験を幻想させてしまうこと。
このように、二つは基本的には別の事象なんですが、極めて親和性が高く、ほぼこの二つは同時に進行していきます。フィルターバブルによって、自己の偏った選好のみが抽出・強化され、その状態に陥った人たちが、自分の選好的な傾向を互いに認め合う場を求めて、エコーチェンバー的集団へと属してしまいます。その結果何が起こるのか。サイバーカスケードです。
(3)怒りが滝のように流れ細分化されていくインターネット世界
このサイバーカスケードは、現在ではエコーチェンバーやフィルターバブルと比べるとあまり言及されなくなっていますが、2001年にエコーチェンバー現象を提唱した憲法学者であるキャス・サンスティーン が、著書『インターネットは民主主義の敵か』で、エコーチェンバーと同時に作り出した言葉でした。カスケードとは元々連続した多段の滝のことを指すんですが、そのような滝は下に行けば行くほど、「支流」が増えますよね。
元々は一つだった大きな水源が、徐々に広がって行くにつれて、いくつかの小さな分裂を作って下に落ちていく。そのような滝の枝分かれのように、インターネット上に展開される思考がより急進性を獲得し、「多段の滝」のように、徐々に先細りながらも先鋭的な同質化集団へと合流していくのかを示した概念が「サイバーカスケード」でした。
サンスティーンがこのような状態を指摘したのは2001年でした。未来を見抜くにも程がある慧眼に見えますが、実は「未来」を見抜いてたんじゃないように思ってます。上に書いたように、「そもそも社会は分断していた」とするならば、分断している社会において、人々がどのように自らの思想的な選好を強化していくのかの過程は、2001年だろうと1800年だろうと変わらないのかもしれません。今の状況は、19世紀の「魔女裁判」に極めて似ていると言うのも、よく指摘されるところです。
集団心理が暴走して、明らかにおかしな思想や行動を是正する外部の目がないまま、破局へと向かう「魔女狩り」は、閉ざされた社会構造の中では常に起こってきたことです。そして、同じことが今また、今度は世界全体を巻き込んで起こっていると感じられます。
(4)フィルタバブル、エコーチェンバー、サイバーカスケード
ここまでの話をまとめましょう、現状としてはこうです。フィルターバブルによって情報の事前選好がアルゴリズムによってなされる、その選好の偏りがエコーチェンバーによって増幅される、さらにその増幅された意見がサイバーカスケードによって先鋭化・極端化・集団化して、世界全体へ強い害を与えるようになる。このような流れをまずは意識してみましょう。その上で、もう一度こう問います。
「なぜ我々の社会は陰謀論やフェイクニュースを流通させてしまうようになったんだろう」
もちろん、上でも書きましたが、これまでの社会も似たようなものだったと言うのが本当のところですが、一方、現在の状況は「セイラム魔女裁判」よりも一層悲惨なように見えます。極めて狭い場所での極端な偏向にしかすぎないような思想までもが、流通し、表面化し、時には一定の支持さえ獲得します。下の日経の記事にもあるように、トランプ大統領が誕生した経緯も、この流れの一環だったと捉えるべきでしょう。
こうした極端な情報があたかも「正論」のように流通する根本的な原因はインターネットでしょうか?SNSでしょうか?それだけではないんです。多分答えは「物語の不在」なんです。
(5)物語の不在
改めて最近、「大きな物語の不在」の影響を感じます。特にこの分断された社会構造における物語の不在は、極めて深刻な状況を引き起こします。と言うのは、良質な物語に接してこなかった人間は、簡単に陳腐な物語に騙されてしまうからです。「語り」は「騙り」でもあります。適切に語られる時には、人は物語によって救済されうることもありますが、悪い物語に騙されたりするなんてこともよくあります。人は成長の過程で、多様な物語を共同体内から摂取し、さらに自らの経験を物語として語り出し、還元することで、この「大きな物語」の枠組みを、自らの人生の内側に取り込んでいく。それがかつての「共同幻想」を機能させてきた機序でした。
ところが、すでに書いたように、そのような物語の機能は、「大きな物語」が破綻し、さらには「共同幻想」の機能が維持できなくなったために、機能不全に陥りました。その結果、物語を「語り」「語られる」経験が少なかった人々、あるいは奪われた人々は、どうしてもウブなんですね、物語の持つ力、物語の引力に対して。そのウブな精神に忍び寄ってくるのが、アルゴリズムによる無慈悲かつ無差別な選好強化です。
SNSのアルゴリズムは人を選ばず、全ての人間の選好を強化するようにできています。「あなたと同じ考えを持っている人が、ほらこんなにも」と、アルゴリズムはあなたのゴーストに囁くのです。現状に不安を感じ、共に持てる物語を見失なった人々にとって、それは初めて目にする「救済の物語」に見えることでしょう。なぜなら、超高精度なアルゴリズムが、あなた自身さえ意識していなかった「選好」を見つけ出し、同じ考えの人たちを結びつけてくれるのですから。
こうしてみてみると、SNSのアルゴリズムによって引き起こされるエコーチェンバーやフィルターバブルと言われる現象の本質は、実はこれまで共同幻想が担ってきた機能を、「分断された社会」でも実現しうる形で代替したものに過ぎないんです。つまり、「ここに所属している」という安心感を、別の形で与えている。ただ、その安心感は、まるでアヘンのように心を蝕む「仮り初めの安心」でしかないわけですが。
もちろん「大きな物語」だって、結局のところ巨大なエコーチェンバーやフィルターバブルみたいなもんです。それでも、その巨大さが、「大きな物語」特有の余白を生み出してきた。その余白の中で、我々は常に差異を生み出し、物語の「異聞録」を描き出すことができた。時にそれは社会に活力を与えることもあっただろうし、逆に混乱を引き起こすこともあったでしょう。でもその度ごとに「大きな物語」は、語るべき分厚いエピソードを増やしながら、我々が幻想を抱ける程度には、共同体の成員を結びつける役割を果たしてきました。
でもサイバーカスケードへと至る「小さな滝」は、その細くて狭い先鋭性のために、余白を許さない物語であると言う点において、これまで僕らが共同幻想として持っていた「物語」とは、異質な性質を持ちます。
(6)スリランカの三人の王子
この「狭い物語」を作り出すインターネットやSNSの状況を変えうる方向性はないのでしょうか?実は、すでに多くの人々が指摘しているのが、セレンディピティという言葉です。アルゴリズムによる選好は、いわば「自由に見せかけられた必然」です。僕らは主体的に選んでいるつもりですが、そのような主体性は、アルゴリズムによってほぼ必然的に構築されたものに他ならず、実のところはアルゴリズムに踊らされた操り人形に成り下がっているとも言えます。
一方セレンディピティとは、「偶然の出会い」とでも訳される概念ですが、大事なのは定義ではなく、この言葉が作られた経緯です。Wikiから引用してみましょう。
「serendipity」という言葉は、イギリスの政治家にして小説家であるホレス・ウォルポール[1]が1754年に生み出した造語であり、彼が子供のときに読んだ『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』という童話にちなんだものである。セレンディップとはセイロン島、現在のスリランカのことであるから、すなわち、題名は「スリランカの3人の王子」という意味である。(下記リンクより引用)
セレンディピティという単語は、そもそもが造語であること、そしてその造語には一つの物語体系が含まれていること、それが大事なんです。この言葉を作ったウォルポールの言葉を引いてみましょう。
この私の発見は、私に言わせればまさに「セレンディピティ」です。このセレンディピティという言葉は、とても表現力に満ちた言葉です。この言葉を理解していただくには、へたに語の定義などするよりも、その物語を引用したほうがずっとよいでしょう。かつて私は『セレンディップの3人の王子』という童話を読んだことがあるのですが、そのお話において、王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。たとえば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。なぜ分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです。さあ、これで「セレンディピティ」がどのようなものか理解していただけたでしょう?(上記リンクより引用)
ウォルポールさん、わからん。わかりませんよね?太字部分を読んで、「セレンディピティとはこのようなものだ!」と定義できる人は、多分いないと思うんです。というか、これはあくまでも一つの例であって、『セレンディップの三人の王子』には、この種の小さなエピソードがいくつも含まれている。それらも「セレンディピティ」という言葉を構成する含意なのだとすると、この言葉には一義的で正確な定義なんてものは存在しないんです。
ある人が素敵な出会いをセレンディピティと感じたら、それはそうでしょうし、科学的発見をセレンディピティと感じたら、それもまたそうなのでしょう。そもそもが「スリランカの3人の王子」が、旅の道すがらにいろんなことに出会った、その全ての「物語的出会い」を「セレンディピティ」と呼んだのですから、この語はあたかも変数のように巨大な意味作用を包含したものであり、この単語たった一つで、いわば「物語」を駆動できるほどの広がりをその内側に抱えているんです。
(7)セレンディピティを語り出すこと
これこそ、おそらくはエコーチェンバーやフィルターバブル、あるいはサイバーカスケードによって先鋭化された歪な形での物語とは違った、僕らが見るべき21世紀の情報のあり方ではないでしょうか。つまり、セレンディピティという単語も、またその物語も、それを見た人、聞いた人、それぞれが解釈をして自ら「語り出さなくては成立しない」という意味において、エコーチェンバーやフィルターバブルやサイバーカスケードとは全く違う地平において、言葉が展開されているんです。
僕が大好きな小説に、『奇跡も語るものがいなければ』という物語があります。その中でも一番好きな一節を、何度も何度も僕は引用します。こんな一節です。
「娘よ、と彼は言い、そしてこの言葉を口にするときには、彼のありったけの愛が声の調子にこめられていて、娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの目の前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活はそのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。
奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う。」
「奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう」、まさにそれが僕が21世紀に入って文学研究者として求めてきたことの一つでした。どれほど些細な瞬間や出来事や出会いも、語るものがいなければ、その内実はこの世界から消え去ってしまう。物語は消え去ってしまう。奇跡は成就することなく失われてしまう。でも、語る者がいれば、それは誰かに繋がっていくんです。ある時それは、奇跡と呼びうる瞬間に繋がる。語りとはそういうものですし、セレンディピティが生まれるのも、まさにそうした瞬間なのです。
逆にエコーチェンバーやフィルターバブルは、他者を排除する物語であり、他なる意見や物語の共存を許さない物語形式です。「物語を語ること」に慣れていない人々は、その単一の理解しか許容しない狭隘な「教義」にいとも簡単に取り込まれてしまう。でも物語とは、本来多層的で曖昧なものです。そこにこそ物語の価値があります。
一つの物語は、受け手によってさまざまな形を取ります。その全てが並存しながら、時には「セレンディピティ」のように一つの単語の中に畳まれ、時には巨大な物語世界として展開する。そのイメージは、流れるにつれて細くなっていく分裂と分断のカスケードではなく、むしろその逆。網の目のように広がる個々の物語たちが、互いに包含しながら広がっていく巨大な大河、あるいは巨大な湖のような印象です。そう、僕の住んでいる地域には、とても穏やかでとても巨大な湖があります。僕はいつも、その穏やかな水面と、その下に深い生態系を維持する「物語」を見て育ってきました。
SNSがいわばエコーチェンバーやフィルターバブルを呼び込むのに適した形式なのだとすると、僕らは「SNSの先」をそろそろ考えなくてはいけない時期に来ていると感じます。今僕はいくつかの試みを展開しているんですが、それについては、またいずれ。もう少し考えがまとまった時に。