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麹町中の「ヒップホップ禁止令」に思う、学校における民主主義

おつかれさまでーす!メタバースクリエイターズ若宮でーす!

今日はちょっと教育について、とくに学校の制度について書いてみます


麹町中学校の「ヒップホップ禁止令」

千代田区立「麹町中学校」という校名について、教育に興味がある方は一度は聞いたことがあるかもしれません。

前校長の工藤勇一さんが大胆な改革を行い、公立でもここまで変えられるんだと話題になりました。

そして最近また、麹町中学校が話題になったのですが、その理由はダンス部のヒップホップが禁止されたこと。

麹町中ダンス部はここ数年、毎年5月の体育祭と10月の文化祭『麹中祭』で、ヒップホップダンスを披露してきました。発表に向け、部員たちは週2回、ヒップホップ専門のコーチから指導を受けていましたが、2023年、学校側が『今年から体育祭でダンス部のヒップホップ発表の場を設けない』ことを決定。さらに2024年4月から、学校はダンス部の活動内容を『創作ダンス』に変更し、コーチも創作ダンス専門に代わったといいます。

これに対し、「部員約30名が涙ながらにヒップホップを踊りたいと訴えましたが、判断は覆らず」、「麹町中の保護者46人が『生徒が精神的苦痛を受けた』などとして、区の教育委員会に抗議文書を提出した」とのこと。


この記事からだけではなぜ「ヒップホップ」が禁止されたのかははっきりと読み取れませんが、「創作ダンス」はOKなのですね。暗黒舞踏だったらどうなのでしょうか。

こういう理由のよくわからない禁止でいうと、以前、髪型のツーブロック禁止というのもありましたね。

ツーブロックが禁止っていうのとか髪色変えたらとか、「非行に走る」とか「絡まれる」とか「勉学が疎かになる」とか、まあ因果関係としては正直よくわからないすよね。単にイメージというか。

ヒップホップのイメージもやっぱり「教育的にネガティブ」な印象があるのでしょうか。「悪そうなやつはだいたい友達」な。

ヒップホップはストリートから生まれたカルチャーであり、その背景には黒人文化があります。もし「なんとなく悪いイメージ」とかが理由で禁止するなら、それって差別ではないんでしょうか。

前掲のYahooの記事では呂布カルマさんが「ヒップホップを学校でやるのが違う、こっそりやれ」とのコメントを寄せています。僕もアートや文化というのは、メインストリームや社会の枠組みからみ出したところやいかがわしいところから生まれると思っているので、カルマさんの意見も一定わかるというとこもあります。

ただ、ダンスカルチャーとしての「ヒップホップ」はもうそのフェーズじゃない気もするんですよね。

個人的に、あることが文化になるというのは、グラデーションが増えて、層に厚みが出ることだと思っています。

ロックやジャズも元々は辺境的で反抗的な(不良的な?)文化でしたが、今ではビートルズとか音楽の教科書にも載っていいて学校でも教えられる「教育的な」ものにもなっています。もちろんだからといってただ丸くなったわけはなく、今でもアウトロー的というか、ストリートやアンダーグラウンドにも勿論息づいていて、そこから新しい音が生まれています。

でもだからといっても、メインストリームな感じがあってもいいわけですよね。それで裾野が広がるところもあるし。だからヒップホップだって学校での活動があっても良いし、間口を広げつつ、かつストリートやアンダーグラウンドの文化も続いていくことで、文化の厚みが出来ていくのではないか、と個人的には思います。


ちょっと脱線してしまいましたが、今日はヒップホップがいいか悪いか、というよりも、学校の仕組みや体制の方についてをテーマに書きたいと思います。

中学生が真ん中じゃなくて、大人の都合で振り回されていいの?

今回の一連のことで僕が一番に思っているのは、可哀想なのはやっぱり生徒だということです。

工藤前校長の時には教育改革が行われ生徒に自由な教育を謳っていたのに、校長や体制が変わった途端、手のひらを返すように変わってしまった。これに振り回される子どもたちは大変です。


文化祭での発表を目指して入学して、一年生から頑張っていた生徒からしたら急に中止!と言われても納得がいかないでしょう。

もし変更するにしても、最低限当事者の子供たちや保護者から意見をもらい議論するだったべきだと思います。そもそも「ヒップホップ反対」という声は、生徒や保護者からあがっていたのでしょうか?記事からでは背景はあまり読み取れませんが、保護者がわざわざ教育委員会に陳情していることからみると、十分な合意のプロセスがなかったのではないかと思います。


校長が変わり方針を変わったことで起こった事態ではありますが、僕は「トップダウン」が悪いかというとそういうわけでもないと思っています。トップダウンの方が改革を起こしやすい面もあるからです。実際、工藤前校長の時にはトップダウンだからこそ思い切った改革ができたわけですし。

また、リベラルとか改革派の方がいいというわけでもありません。リベラルな人と保守的な人の両方がいるのも健全で、政治だって最低二大政党は必要なわけですし。リベラルと保守が校長がいる事自体は思想の多様性として良いことだと思います。


なので校長が変わって方針がガラッと変わるなんてあってはならない、とは思いませんが、トップが変わったことで方針が大きく変わるのを、当事者である子供たちが黙って受け入れるしかないのは違うと思うんです。

企業でもトップが変わると方針変わるとかはありえて、その場合気に入らなければ転職をすればいいですが、学校、特に公立校では、転校するのも難しいので、トップダウンで勝手に変えられてそれを甘んじて受けるしか無いとしたら、子供たちは「被害者」みたいな感じになってしまいます。


生徒会や不信任決議で学校にも民主主義を

政治とのアナロジーで考えてみましょう。

大統領制ならトップは直接選挙で選ばれますし、議院内閣制では選挙で選ばれた与党の中から選ばれます。でも、校長の選択には何も関与できません。

子供たちにとっては、中学校の三年間はかけがえのない青春です。二年間ヒップホップを頑張ってきた生徒たちが、三年生での集大成を迎えるタイミングで方針が急に変わるってあまりにもかわいそうです。

それがちゃんと意見を聞いて議論するプロセスもなしに決定される、というのはあまりに横暴ではないでしょうか。校長先生は選挙で選ばれるわけではないので、当事者である生徒たちが納得いかない場合に意見を反映する仕組みがなにか必要だと思います。

選挙で言えば、学校には生徒会というのがあります。生徒会は学校の雑用的なのではなく、もっと学校の方針を決める役割を持っても良いと思うんですよね。

生徒会がしっかりと機能し自分たちの学校生活が変わる、ということになれば生徒たちが真剣に投票するようになると思いますし、中学生たちも政治や社会に関心を持つようになるのではないでしょうか。

一応生徒たちの選挙で選ばれたわけですから、生徒会が校長と対等な立場で議論し、意見を反映するような仕組みがあるといいなと思います。生徒会が国会みたいな感じで、校長をはじめ学校側が内閣みたいなものだと考えれば、不信任決議のような仕組みがあってもよいのではないでしょうか

とはいえ公立校の校長は公務員ですから、仕組みを変えるのは難しいと思います。でも三権分立とかも含めて、いちおう民主主義として積み重ねてきてくれたこともあるわけなので、民主主義のベースをつくるためにも、学校教育の中でそういうことをもっと取り入れてもよいのではないかと思うのですよね。


教育が変わっていくために、仕組みも含めてもう少しちゃんと議論して、変えていってもいいのでもないかと、麹町中の一連のことをみながら改めて思いました。

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