報道での「ママアスリート」などの属性ラベリングについて思うこと 〜「タグ」と「レッテル」
お疲れさまです。uni'que若宮です。
先日奈良県生駒市さん主催のこんなイベントに登壇しました。
僕はジェンダー表現の専門家とかでは全くないのですが、あくまでジェンダーバランスを意識している男性側からの気付きや葛藤を等身大で話すのであれば、ということでお引き受けしました。
座談会ではAlright Babyを運営する岩城はるみさん、Webエンジニアの吉永大さん、小学校図書館司書の玉村綾子さん、生駒市職員の村田充弘さんと一緒に、某牛丼チェーン店の取締役の発言や「働く女性応援よくばりハンドブック」など身近な表現にひそむジェンダーバイアスについてお話しました。
事例の中に「ママアスリート」などの報道におけるジェンダー表現に関するものもあったのですが、当日は時間の都合でこのトピックについてあまり話せなかったので、ちょっと今日は自分なりの考えを書いてみます。
属性ラベリングのメリデメ
あくまで個人的な意見ですが、僕は「ママアスリート」という属性ラベリングを伴った表現についても基本的にはアリだと考えています。以下にその理由を書きますが、陥りがちな罠や気をつけたいポイントもあるので、そのことも書きます。
まず、属性のラベリング自体はいいか悪いかというより、メリットとデメリットの両方があると思っています。包丁は便利にも使えるし怪我させることもできる、みたいなもので、デメリットにきちんと配慮し最小化することができれば、それなりに効果的、というのが僕の現時点でのスタンスです。
メリットの一番はやはり、注目してもらいやすくなることです。(報道においてもこうしたラベリングがされるのは、記事を読んでもらいやすくなるからです)
この意味での属性のラベリングは、検索アピール用の「タグ」や「ポジショニング」のように、マーケティング的な効果を持ちます。
人間の脳は他との種差特徴を探してものごとを認識するので、他と違う「目印」をつくるほうが認識コストが低くなり、ポップアップし注目されやすくなります。
「赤ずきんちゃん」とかもそうですね。「赤ずきん」は本人ではないのですが、他とはちがう部分が目立って「目印」になり、ずきんだけでその人を指し示すことができるわけです。
なので意図的にこの効果を活用することもできます。たとえば僕は基本的にいつも「キャップ」をかぶっていて、トレードマークというかアイコンのようになっています(なのでキャップをかぶっていないと認識してもらえない…)。キャップの人が少ない場では目立つ、覚えてもらえるという効果がありますし、「一般的ルールにあえて囚われない」という演出というか、期待値の調整にもなっていたりします。(その効果として、こんな感じで↓記事にしてもらえたりします)
プロダクトでも人でもそうですが、モノも情報も溢れている時代なので自分のポジションや注目を集めるために「タグ」にはメリットがあります。
自分でつけたタグではなく、人から勝手につけられたタグだと納得がいかないものもあるかもしれませんが、人からつけられるタグが必ずしも悪いわけでもなく、有効なこともあります。マーケティングやポジショニングというのは市場(いちば)の中で自分らしいポジションを見出していくことですが、自分からの視点だけでは自分らしさに気づけず、他者からの目によってはじめてその価値に気づくこともあるからです。
気をつけたいポイント① 外見ラベリング
一方、ラベリングのデメリットといえば、表面的・一面的な見方にロックされることです。
タグのメリットは、先程挙げたようにマーケティング的な効果です。それは「日本一のやきとり」みたいな看板を掲げるようなもので、ざっくりいえば、入口まで連れてくるところに効果を発揮します。ただもちろん、看板を見て入ってみようと思ってもあまり美味しくなければミスリードですから、ラベルと内実とでいえば、より重要なのは内実の方です。
しかし、ラベルを貼られてしまうと、その内実にあまり目が向けられなくなってしまうことがあります。「表のラベル」の方が目に付きやすいため、そちらに意識が奪われ、表層的な認識で止まってしまうのです。
表層的な認識にロックするデメリットが大きくなるケースは、「タグ」というより「レッテル」という言い方の方が適切かもしれません。その人の内実を知る手前で認識を固定化してしまい、深く知ることを妨げるのです。
「レッテル」はそもそも外側に貼られるものですが、特にそのデメリットが大きく注意が必要なのは、外見やデモグラフィックな属性など「外側」からみた表層的な情報の場合です。
たとえば、「ママアスリート」とタイトルに掲げた記事であっても、内容としてその人自身の妊娠時の苦労や出産後の復帰のストーリーとかが丁寧に書いてあるのだとしたら、「ママ」という属性も内実につながる「タグ」として有効かしれません。しかしそれが「ママ一般」の紋切り型のイメージだけで書かれているなら「レッテル」です。
そして、これが「美女アスリート」や「美人社長」など外見的なことの場合はさらに注意が必要だと思います。外側だけに目がくらみ、本質的ではない「レッテル」によって内実が見えづらくなってしまうからです。
友人にも女性の起業家がいますし、イベントなどで登壇でご一緒することもあります。みなさん起業家としてしっかり事業を伸ばしており大変リスペクトできる方たちで、イベントでの主眼はもちろん事業です。
しかしそういうとき、オーディエンスの方から(時には登壇者からも)「今日もかわいいです!」といったようなコメントが入ることがあり、こういう場合にはとても違和感を感じます。
根が深いのは、こうしたコメントにだいたい悪気はなく、褒め言葉のつもりで言っているケースが多いことです。でも「起業家」として登壇している場で事業内容などの内実ではなく外見的なことを第一声で言われたらがっかりではないでしょうか。
モデルやタレントなど外見をバリューとしている方や美容の事業をしている方に「今日も肌がキレイです!」というのならわかります。しかし、見た目が本質的バリューではないのに表層だけにフォーカスされるとそれは却って価値の認識を阻害してしまいます。
僕は「ルッキズム」の問題は「ルック」ではなく「イズム」の方にあると思っています。外見自体はその人を構成する一つの要素としてはありですが、それが「イズム」になり外見だけに囚われて一面的な見方しかできなくなるのが問題だとおもうのです。
そして、ルッキズムがとりわけ女性に向けられがち、というところも問題だと思います。「美人○○」といえばほぼ自動的に女性を指しますし、「トロフィーワイフ」もそうですし、見た目に気を使わなくなると女性だけ「女を捨ててる」と言われたりするのはなぜなんでしょう?
勿論男性に対しても「イケメン○○」と書かれれることはありますが、女性の「美人○○」に比べると全然少ない気がします。僕ですらほとんど「イケメン起業家」と紹介されることがないのが日本の現状です。これは明らかにおかしいですよね(←おかしいのはお前の自意識
いずれにしても外見的・表層的なラベリングがされている場合にはそれにこまかされて内実から逸れないように注意が必要です。
気をつけたいポイント② レアリティ=マイノリティを固定化させない
もう一つ気をつけたいのは、「タグ」が効果的であるということはレアリティ(希少性)をベースにしている、ということです。そして「レアリティ」があるということは「マイノリティ」であることともつながっています。この非対称な構造をそのままにしない、ということも大事です。
自治体などの「女性起業家」イベントに時々講演や審査員として呼んでいただくことがあります。そうした際、「女性」とわざわざつけられる違和感もたしかにあります。
イベント側として特徴を出すため、「女性起業家」というのをタグとして使いたい気持ちもわかります。そしてこの時「タグ」のメリットは、女性がマイノリティである現状によって機能しているのです。タグは絞り込みが効くほうが機能するので、「女性」と「起業家」のベン図に比べると「男性」と「起業家」のベン図では絞り込みが効かず「男性起業家」というタグではほぼ効果がないのですよね。
なので、マーケティング的効果としては「女性起業家」の方が「男性起業家」よりも特徴になりやすい、というところがあります。「リケジョ」とかもそうですよね。
「女性」とわざわざ言われる違和感はたしかにあります。しかし、現状非対称な構造があることとその効果までを考えるなら、単に「女性○○」とつけるのをやめよう、という話でもない気がします。
将来的に目指すのはわざわざと「女性○○」言われなくなる世界ですが、それは「女性起業家」が増え構造が変わった結果として成し遂げられるので、アクションの効果を高めるために暫定的にそのような「タグ」を活用することもアリ、というのが現時点での僕の考えです。
(先日↓ヘラルボニーさんがコテンラジオで「障害者アート」という言葉を使うことへの葛藤について話されていて、とても共感しました(↓の18:30頃)。本当は「障害者アート」という括りではなくアーティストとして評価してほしい、と願いつつも、ただ「障害者」という言葉を使わないようにしたり、別の言葉に置き換えたりすればいいというものでもない。むしろ「障害者」という言葉も使いながらアーティストの価値を高めることによってこそ、「障害者」に対する社会の概念そのものを変えていけるのかもしれません)
言葉は世界の認識に影響します。それはレッテルになると内実を覆い隠しもしますが、逆にいえば言葉を活用してアクションすることで概念や世界の認識を変えることもできます。
属性のラベルを「タグ」として活用しつつ、表面的・一面的な「レッテル貼り」にならないように気をつけて内実にもきちんと目を向け、また社会の構造を固定化させず変えていこうとすることが大事なのではと思っています。