あなたはいいけど、他の人は迷惑なのだ
ホテルのような会社が増えている。家のような会社が増えている。テレワーク時代になり、フリーアドレスとなり、オンライン会議ができる場がいる、みんなが集まる場がいる、みんなが交流する場がいる、1人になれる場がいる、リラックスできる場がいると、そんなスペースがオフイスに一気に増えた。会社は家でもない。会社は学校でもない。家と会社の機能が混ざる。境界がなくなりはじめる。なあなあになりはじめる
ルールはある。そのルールはあくまでルールと軽んじられ、ルールを守らなくなり、ついにはルールがなくなる。こうして規律が薄れていく。そし事故がおこる、事件がおこる。それは必然である
それはパワハラですよ、心理的安全性を守ってくださいよ、役職さんづけ運動がひろがった。学生時代を、みんな一緒、みんな一等賞、みんな〇で育った人が会社に入った。個人の目標やノルマはいるの?会社全体が目標を達成できたらいいのとちがうの?みんなでしたらいいのとちがうの?
こうして責任がどんどん曖昧になり、どんどん薄れていく。個人と組織・集団の関係が混在して、会社は変わりだした。そこに「人手不足」だと言い出した。さらに会社は社員に阿(おもね)るようになり、会社の家化が加速する
では自分とはなに?
分の語源は、「区分」されていること。与えられた役割、地位、能力、なすべき勤めのこと。自分とは、自分自身の能力、役割のこと。「分」の区別のない人とは「分別」がない人。この「分」という語の本来的意味が忘れられるとともに、日本社会に「分別」がない人が増えた。そしてどういうことがおこっているのか?
1 会社の風景
会社とは、Companyの和訳
Companyの語源は
ラテン語の「com(ともに)」と
「panis(パンを食べる)」に
仲間を表す「-y」を合成した言葉
一緒にパンを食べる仲間という意味
毎日、会社で顔をあわせ
同じ空間で一緒に仕事をしていた
食を一緒にとったり
仕事を終えて一杯飲みをしたり
職場旅行もした
だから会社の仲間に
なにかあれば、気になった
会社の仲間の顔色が悪ければ
「大丈夫?家に帰って休んだらどう」
と声をかけた
ところが、その「声をかける」ということが
セクハラになるかもといわれて
声をかけにくくなり
声をかけなくなった
そうなって
本当に具合の悪い人を
本当に困っている人を
見つけにくくなった
他人に関心をもたなくなり
他人に対する配慮・遠慮がなくなり
それぞれが自らの役割を果たさなくなると
どうなっていく
自己中心になる
2 電車の優先座席の風景
電車のなかで、凄まじい姿を見かけた
おばあちゃんが我先にと車内に入って
優先座席をおさえ
後ろから入ってきた孫に
「あなた、ここに座りなさい」
といって
孫はどかんと優先席に座る
孫といっても、小学生の上級生
やりすぎだろう
優先座席に座っている若者が目立つ
ヘッドフォンから音漏れをしている
そしてひたすらゲーム
他の音が聞こえない、まわりが見えない
その若者の前に高齢者が立っても
気がつかない
いや気づいても席を譲ることはない
お店で買い物をしている人が
店員さんと話をしている
やりとりを聴いていると
そんな言い方しなくも…
とひやひやする
それくらい
上から目線な話をする
その若者の話しぶりは
偉そうに、高圧的に、傲慢なように
聞こえるが
実は本人は悪気なく
そういう言い方をしていることに
気づかされる
なにか?
ソトの人との対話に
慣れていない
これらの姿から日本人は
どうなった?
思い遣りがなくなった
感性が鈍くなった
だから、そうなったといわれるが
この行動の背景には
ウチの人に守られすぎている
という要素も大きい
小さいころから社会人まで
親に祖父母に守られ
大事に育てられてきた人も多い
過保護、過干渉
「甘やかされてきた」というよりも
「守られている」と言ったほうが近い
しかし当の本人である子どもたちには
「家(ウチ)のなかで守られている」
という感覚はない
しかしいざ
社会という外(ソト)の世界に出て
内(ウチ)とはちがう外(ソト)の風景に
出会って驚いたり
他人に注意されたりすると、キレる
それはなぜ?
ウチとソトという境がなくなったから
ウチで手厚く、守られ
そのウチウチ(内々)のことを
ソト(外)に持ちこんだのは
子どもたちの親の世代であり
祖父母の世代である
電車の座席に靴をはいたまま
子どもが座席の上に立っても
放置する親・祖父母もいる
かつての親や祖父母は注意したが
靴をはいたままでは
席が汚れるのでダメだ
という感覚がない
内々(ウチウチ)のロジックを
何の疑問もなく
そのまま外(ソト)に持ち込む
電車のなかで、赤ちゃんがぐずる
すると「静かにしなさい」と
お母さんが大きな声を出して注意する
それは子どものために
注意をしているのではない
車に乗っているまわりから
白い目で見られるのが嫌だから
「静かにしなさい」
と形だけ言葉を発すだけなので
子どもは泣きやまない
子どもだから、泣くのは仕方ない
と平然としている
泣かすだけ泣かせている
ここでも
ウチのルールをソトに持ち込んでいる
電車で赤ちゃんがぐずる可能性が
あるのが判っていたから
余裕をもって電車に乗るなど
工夫して乗ったりしていたが
現在はそんなことはしない
あわててギリギリに乗るから
子どもが泣き出す
そしてなにが悪いの?と
開き直る
3 世界に顔向けできない
世間に肩身が狭い
世間に顔向けできない
という言葉を使う人も減った
そんなことを気にしないで
子どもはのびのびと
自由に育てたらいい
家、ウチでは
子どもの好きなようにさせたらいい
自由奔放にさせるものだ
と考えているうちに
「傍若無人な振る舞い」が
いつの間にか普通になった
人それぞれ、その家それぞれの教育方針だから
ウチのルールは自由だが
ソトはウチではない
ソトでやっていいことと
いけないことがある
やってはいけないことを
する人には
「それはダメだ」
と教えないといけない
先生や親や祖父母がいわなければ
他人がいわないといけない
と諭す親、祖父母が減り
他人様にいわれると
子どもだけでなく、親も祖父母も
“ウチのことに、とやかく言うなよ”
とキレられる
だから他人も面倒くさくなる
だから注意しなくなる
ウチでしていることをソトでする
ウォークマンからはじまった
「家でのスタイル」のソトへの広がり
画期的な商品である
すごい商品だった
しかし、いいことばかりではない
具合の悪いこともある
「あなたはいいけど
他の人には迷惑なのだ」
という意識がない
ウチとソトの境がなくなった
かつて日本住宅には
「縁側」「土間」「中庭」があった
家の内でも外でもない「中間」があった
その中間はウチでもなくソトでもない「場所」であって
家と外を結ぶ空間
ウチとソトを行き来できる空間
がなくなった
家にも、会社にも、街にも、社会にも
かつてあったが
それが少なくなった
それが少なくなりつつある
だからウチとソトの境がなくなり
ウチのモード・様式で、ソトを行動する
人が増えた
ウチとソトと真ん中
見えていないなら
見える化しよう
そして見せる化しよう