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「ものわかりのよい振りをする」大人たちと、「達観する」若者たち

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「え、こんなこともわからないの?」といわれるのが嫌だから、「あ、そうかそうか」とものわかりのよい振りをする大人たちと、新しい「言葉」を語りつづけつつ「わからないだろう」と達観する若者。ネット・スマホをはじめとするこの20年のITを活用した劇的な社会変化は、「世代間ギャップ」をうみだす。

横文字、カタカナが氾濫・多用されている。海外で使われている「言葉」がそのまま使われる。背景・歴史などコンテクストがちがうのに、海外発のモノ・コトがそのまま日本で導入される。ビットコイン、シェアエコノミー、VR、AIなど、翻訳されずに、海外そのまま、そのものを“日本的に翻訳”せず、“消化不良”で、社会にどんどん入ってくる。

大人や年輩者、年長者たちは、新たなことを“わかっていない”と思われたくないから、ものわかりの良い振りをする。若者たちはそんな大人のことを“いくらいってもわからないだろう”と内心思いつつ自己表現する。お互いをわかりあおうとしない、お互いがわかりあえていない。だからわからないカタカナが社会に、会社に蔓延する。

48年前の大阪万国博覧会EXPO70では若い世代が活躍した、といわれる。梅棹忠夫(44歳)、加藤秀俊(34歳)、小松左京(33歳)、手塚治虫(36歳)、星新一(38歳)、岡本太郎(53歳)─ 1970年の大阪万博のテーマの基本理念につながる1964年7月に結成された「万国博を考える会」のメンバーは圧倒的に若かった。黒川紀章(30歳)、横尾忠則(28歳)、磯崎新(33歳)、菊竹清訓(36歳)、西山夘三(53歳)、丹下健三(51歳)、堺屋太一(29歳)─ 1970年の大阪万博のお祭り広場やパビリオンをつくった人たちも本当に若かった。

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このように圧倒的に若い世代がつくった大阪万博といわれるが、48年前の1970年といえば戦後25年、明治維新100年。まだ江戸時代の記憶は残っていて、地域文化は色濃く継承されていた。たとえばお祭り広場は小豆島の亀山八幡宮の境内がモデルだし、太陽の塔は男鹿半島のなまはげとカラスなどをモチーフにしたものだ。決して斬新で前だけを向いたものではなかった。技術と文化が融合され、日本の地域文化を濃厚に内蔵させていた。

それも懐古趣味的な日本ではない、本来の日本の本質をとらえた文化に新たな技術・情報を融合させ、日本的に翻訳されたものであった。だから48年前の太陽の塔は今でも若者の心をとらえる。若い世代がアイデアを出したが、年輩者たちは決して「ものわかりのよい」人たちばかりではなかった。世代間を超えた喧々諤々の熱い議論が日々繰り広げられたと当時の万博の企画にかかわった人からお聴きした。

しかし決して現代も、ものわかりのよい大人だけではない。一昨日、グランフロント大阪のナレッジキャピタルで「World OMOSIROI Award 4th」が開催された。「OMOSIROI=面白い」の語源は、目の前がパッと明るくなる状態のことであるが、世界中から面白い活動をしていたり、アイデアをもっている人たちが毎年大阪にやってくる。ITを駆使しつつ、技術と社会、技術と生活を結びつけるのが「文化」であり、その中核が「面白い」である。若者の受賞者が多いが、若者たちのアイデアを大人たちが面白がり、ワイワイガヤガヤと若い人も年輩者も、日本人も外国からの人も多様なメンバーで議論していた。そこから新しいものが生まれる。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28176180V10C18A3966M00/

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