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#理想の家族 ってなんだろう? 〜「コミュニティ的家族」と「ロープのあそび」

お疲れさまです。uni'que若宮です。

日経COMEMOからこんなお題が出ているので、今日は「#理想の家族」をテーマに書いてみようと思います。


5/15は「国際家族デー」

誰も置き去りにしないということは、どの家族も置き去りにしないということを意味します。
今年の「国際家族デー」にあたり、あらゆる年齢の家族が皆、私たちの世界に貢献できる能力を発揮できるような支え合う環境をつくることにより、持続可能な開発を進めていく決意を固めようではありませんか。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、今日5/15は国連が定めた「国際家族デー」です。

冒頭の引用は2016年の事務総長メッセージなのですが、文中には「誰も置き去りにしない」とあります。家族は、ひとが最初に出会う「社会」であり、社会の最小単位であり、最も後衛のセーフティネットです。

そして家族は「あらゆる年齢の家族が皆、私たちの世界に貢献できる能力を発揮できるような支え合う環境」を目指します。しかしわざわざ「家族デー」が定められていることからもわかるように、残念ながら実際には「支え合い、生かし合う」という機能の不全に陥っている家族もあります。


「家族」ってなんだろう?

そもそも「家族」ってなんでしょうか?

「#理想の家族」と一口にいうと、ステロタイプで標準的・平均的な家族が思い浮かんでしまうので、まずあえて境界事例から「家族」について考えてみたいと思います。


「家族」にはいくつかの要件があります。そのもっとも基本的な要素は「血縁」でしょう。しかしそれは家族の必要十分条件ではありません。

血がつながっていれば縁を切っても家族でしょうか?生まれてから一度もあったことがない親や兄弟は家族でしょうか?血さえつながっていれば7代前の祖先も家族でしょうか?
あるいは逆に、「血縁」がなければ家族ではないのでしょうか?

義理の親や義理の子は「家族」だと考える人が多いでしょう。すると血縁は必ずしもマストの要件ではないことになります。


血のつながらない義理の親子が「家族」であることの根拠は、「婚姻」などの「法的な縁」です。養子「縁」組などによっても人は家族になることができます。

では、婚姻しなければ家族ではないのでしょうか?法的な婚姻の他に「事実婚」というのもありますが、この場合は「家族」といって良いでしょうか?家族ではなくただの恋人にすぎないのでしょうか?

あるいは逆に、離婚すればその人とは家族ではなくなるのでしょうか?離婚して子供がいる場合に、離婚した親同士は家族でしょうか?そうではないでしょうか?


「事実婚」や「内縁」においては、「3年以上の共同生活」が判断基準にされることもあります。これは家族の要件として「血縁」や「法的縁」の他に「一緒に住んでいる」という要素があることを示しています。

しかし、一緒に住んでさえいれば「家族」になるわけではありません。たとえばルームシェアやシェアハウスで一緒に3年住んだからといって家族にはなりません。単に場所が一緒であるだけではなく、共同の「家計」を営んでいる必要がありそうです。シェアハウスは一緒に住んでいても家計がそれぞれなので家族にならないわけですね。


「家族」の目的とは何か?

先程の3要件を一言で表すと、「血」か「法」か「金」かっていう感じでしょうか。これらのどれかもしくは組み合わせで家族というのは成り立っていそうです。

家族の要件で「金」と言われるとドライすぎる気もしますが、「金の切れ目が縁の切れ目」なんていいますから、お金もなんらか「縁」に関わっているのでしょう。

「血の縁」「法の縁」「金の縁」、「家族」ではそのそれぞれ「縁」として複数のひとびとを結びつけています。このどれか一本でも繋がっているなら「家族」だと言えるのかもしれません。

離婚して法的に別れて暮らしが別々でも、血縁があれば「家族」。
血がつながっていず独立家計でも、婚姻など法の縁組がされれば「家族」。
血がつながっていず婚姻をしていなくても、家計が同一なら「家族」。


「家族」とコミュニティ

では「家族」が「縁」によって共同体をつくるのは「なんのため」でしょうか?

というのも、家族ってよくよく考えると「共通の目的」があるようで実は無いからです。家族はチームのように一丸となって何か一つの目的を成し遂げるためにあるか?と言われるとそうでもない。

勿論、「支え合う」というのが広義の目的ではありますが、支える必要がいつでもあるわけではありません。むしろ家族は、究極をいえば独立、自立することを目指しています。みんなの「共通の目的」ではなく、そのゴールは「それぞれがそれぞれに生きていく」ことを目的としている共同体なのです。

そして、家族はその外縁も固定的ではありません。誕生や死、結婚や離婚によっても家族のメンバーは変わっていきます。「〇〇家」と同じ「家」の名で呼ばれていても、50年も経てばメンバーはすっかり変わり、それぞれが目指すところも変わります。

実は「家族の目的」というのはあるようでないのです。あなたは「うちの家族の目的は〇〇だ」とはっきり言うことができるでしょうか?


そしてこうしたあり方は「コミュニティ的組織」に似ています。

今、コミュラボというコミュニティで「アート思考とコミュニティ」というゼミをしているのですが、

コミュニティも一見、「共通の目的」があるように思えます。しかし実は個がそれぞれのあり方でそれぞれの目的のために動いている。そしてメンバーも固定ではありません。

同じ目的のもとに結集した集団はコミュニティというよりは「チーム」と呼んだ方がいいかもしれません。チームの場合、その目的のためにメンバーの役割分担がされ、基本的にチームのためにメンバーが動き、チーム全体の成果を最大化することを目指します。

しかしコミュニティはそうではありません。「コミュニティ全体の成果を最大化する」という感覚はより薄く、「コミュニティがメンバーの幸福のためにある」のです。


しかし「家族」も、実のところずっとコミュニティ的だったわけではありません。

昭和の「家父長制」の家族はコミュニティというよりは「管理型組織」でした。

家の「長」が方針を決め、家族はそれに従うことが求められます。家長が来るまでご飯は食べられず、風呂にも入れません。口答えも許されず、家計のために子供は奉公に出されたり嫁がされたり売られたりしました。たかだか100年くらい前までは、個よりも「家」が優先されたのです。

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さらに古い時代を考えてみると「主人」への中央集権はもっと強いものでした。familyという言葉の語源はラテン語の famulus(奴隷、召し使い)であり、「家族」には明確な序列が存在したのです。


これからの「家族」

このように「家族」のあり方は時代によって変わっていきます。

「コミュニティ的組織」には「内と外があいまい」という特徴もありますから、今後は「血」「法」「金」のつながりがなくとも、自分らしい「家族」を選んだりつくっていく、ということもできるようになっていくでしょう。

日本の「家族」観もここ数十年でだいぶ変わってきましたが、変わってきたとはいえ完全に「コミュニティ的家族」への移行は終わってはいず、まだ「家父長制」の名残があります。
選択的夫婦別姓への反対や「女性は家庭を守り男性が稼ぐ」という決めつけ、「躾」や子供を監視するヘリコプターペアレンティング、そうしたものは、個の自立や自由よりも全体や規格化を優先する「管理型組織」の価値観につながっています。


こうした過渡期にあって、僕が考える #理想の家族 は「コミュニティ的家族」かもしれません。

それは冒頭で引用した国連事務総長のメッセージにあるような

あらゆる年齢の家族が皆、私たちの世界に貢献できる能力を発揮できるような支え合う環境

老若男女問わず家族がそれぞれにそれぞれ自分らしく生きることができる。といってバラバラに動くのではなく、お互いが引力のようなゆるやかな繋がりでつながり、お互いが能力を発揮できるように生かし合ってもいる。

こうした関係を想像する時、僕の頭には一つのイメージが浮かびます。それは伊藤亜紗さんの『手の倫理』で紹介されている「ブラインドランナーとの伴走」の様子です。(『手の倫理』は名著なのでまだの方はぜひ読んでみてください!)


視覚障害のランナーは前が見えないのでひとりでは全力で走ることはできません。そこで伴走者が隣で伴走するのですが、面白いのは手をつないだり腕や肩を伴走者が持ったりするのではなく、「伴走ロープ」と呼ばれる一本のロープをお互いに握って走るのですね。(↓こちらで画像をみることができます)


そしてさらに興味深いのは、このロープに「あそび」があることで相乗的なパフォーマンスが引き出されることです。少し長いですが引用します。

あらためて実感するのは、ロープの力です。もし、二人のランナーがじかに手をつないで走るとしたら、どうでしょうか。おそらく、目の見える伴走者が目の見えないランナーをぐいぐい引っ張って連れて行くような走り方になってしまうはずすです。うまく走れたとしても、そこにあるのは相手の体も進具のように扱う一方的な「伝達」のコミュニケーションであって、決して「楽しい、こころが躍る感じ」ではないはずです。共鳴は生まれようもありません。
ロー ブなら、「あそび」ができる。がちがちに固定されていないつながり方だからこそ、多少動きがずれたとしても、ロープがそのずれを吸収してくれます。走っている側も、ずれたことを感じ取って調整する余裕ができます。柔らかいロープだからこそ、バッファとしての機能を持つことができるのです。実際、特に初心者の場合には、ロープを持つときにはピンと張るように持つのではなく、多少たわむようにして持つのが通例です。ロープを持つ手も、人によってはかなり力を抜いてしまう。
重要なのは、このあそびがあるからこそ、ずれを通してお互いの状態を感じ取り合うことができる、ということです。つまり「生成的」なコミュニケーションができる。ゆるいロープによってつながりを間接化することで、二つの体の動きが衝突することなく、混じり合うことができる。(伊藤亜紗『手の倫理』強調は引用者)


生成的」というのは一方的な押しつけではなく、双方の自由な動きの交叉の中で相乗的に行為が変化・展開していくモードです。この反対は「伝達的」なモードで、これはどちらかが一方的に動きを決め、他方が従うコミュニケーションです。

お気づきのように、「伝達的/生成的」という2つのモードは先に述べた家族のあり方に対応しています。家父長的な管理型家族のあり方は「伝達的」であり、コミュニティ的な家族は「生成的」です。


家族の「絆」は家族同士を「繋ぎ」ますが、時にお互いを「縛る」ものにもなってしまいます。つながりが強すぎて余白がない息苦しさや親や家族の呪縛に苦しむ人もまだ多くいます。

縛り合ったり一方が誰かにあり方を押し付けたりせず、それぞれがそれぞれらしくありながら繋がり、支え合い、それぞれの能力を引き出せる環境としての家族。

これからの #理想の家族 に必要なのは「ロープのあそび」なのかもしれません。


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