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ケアの創造力 ー傾聴と壁打ちによって物語を動かす

他者をケアする人はクリエイティブだ。ある編集者との「壁打ち」について考察しながら、ケアをする人の創造力について書く。

「ケア」とは、他者の回復やマイナスをゼロにすることではない。人が新しいものごとをはじめるための補助線を引き、足場を作り、布石を打つことでもある。

さて、このような「人の創造的な活動を促進するケア」を、話を聴くことで実践する編集者がいる。元noteディレクターで、個人と会社のブランディングを支援するグッドバフ代表のみずのけいすけさんだ。

ぼくはnoteというプラットフォームで自分のマガジンを運営していた。水野さんは元noteディレクターで、彼の壁打ちの技法をワークショップで学べる場をつくったこともある。

「クリエイター」(noteではユーザーをこう呼ぶ)がnoteを楽しみながら継続すること使命とし、そうできるように目的や対象読者を整理しながら書くべきコンテンツを見定めていくのが彼の仕事である。書籍の編集者のブログ版といったところだ。

水野さんの傾聴技術

「傾聴」という技術がある。それは相手の話を聴く技術のことだ。相手を否定せず、語ってくれたことへの感謝をのべ、求められていないアドバイスはしない。とにかく「聴く」ということに徹するのが「傾聴」の技術である。

水野さんの場合、聴きながら問いを立てていく。

書きたい理由は?目的は?読んでほしい人は誰?読んでどうなってほしいかと思ってる?といった質問が矢継ぎ早にとんできて、ぼくが自信なさげにモヤモヤしながらこたえていると、「ふむふむ」「それって◯◯ってことかなぁ」「あーいいね、そういうの好き」といった相槌によって、こちらの言い淀みが受容され、言葉がするすると出てくるようになる。

対話型AIによるコーチングサービスなども生まれ始めている。たしかに、思考を整理する上では役に立つし、ぼくもChat GPTはよく使う。しかし、水野さんとの壁打ちは、「人に面白がってもらってる感覚」がともなう。これはAIにはない。

そうすると、ぼくの気持ちがだんだん乗ってきて「こういうことがしたいんすよ」と、今まで人に言わなかったようなことをポロリという。するとすかさず水野さんは「面白い!」「俺なら読みたい!」と、会心のリアクションが帰ってくる。「そうか、この感じでいいのか!」と、だんだんと自信がついてきて、帰るころには「よし書くぞ」という気持ちになっている。

こんなふうにして水野さんに背中を押されたnoteユーザーは多いはずだ。

たとえば、ぼくが4年前に「有料マガジンでは毒を吐きたい」とポロリと言ったとき、水野さんはすかさず「めっっっっっちゃいい」「エロいねそれは」「いい色気の出し方だ」とリアクションをかえしてくれた。このリアクションに背中を押された。

水野さんの壁打ちは、まず、自分のくよくよした気持ちを回復させてくれる。そのうえで、問いと相槌によって段々と手応えを与えてくれ、自信が育まれていく。

まるでミットを打つような会話

ボクシングのトレーナーにはミット持ちの名手がいる。パンチを受け、ミットに響く音でボクサーに「手応え」を与える。いい音をさせるのがミット打ちの名手だ。

同時に、ディフェンスを忘れさせないためにフェイントをかけたりボディを叩いてみたりする。ボクサーがもっている攻撃と防御の技術をすべて出し切ることを目的に、パンチを打たせ、ディフェンスをさせる。そのような「ミット持ち」の技術によって、ボクサーは「自分は打てるし、守れるし、躱せる」という「手応え」を得て試合に臨むことができる。

水野さんとの相談は、まるでミット打ちだ。水野さんの相槌は、ミットに響くパンチの音だ。その音がぼくへのフィードバックになって、パンチを打てないと思っていた自分が回復してきて、自信が生まれていく。水野さんの問いは、ミットの持ち方を変えたり、フェイントをしたりして、ぼくの多様なパンチを引き出す。

水野さんはミットをはめ、ぼくはバンテージを巻いてグローブを取り付け、終わりの時間を確認して、挨拶をしてから始める。序盤は軽く打ち始め、後半はお互いヒートアップして快活な音をジムに鳴り響かせる。そうしてぼくは自信を持って、リングに上がることができるようになるのだ。水野さんはぼくの最良のトレーナーの1人である。

ケアの創造力とは?

さて、本題は「ケアの創造力」である。水野さんはとてもクリエイティブな人だとおもう。そして、ケアの技術をもった熟達者であるとも思う。

創造的でありケア的であるとはどういうことか。一見すると、創造性とケアとは相反するものに見える。創造力はアグレッシブでときに攻撃的だ。ケアは受容的で優しみにあふれる。

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一般的な「創造力」には、たとえば巨大な建築をつくりあげてしまったり、超絶技巧の彫刻をつくりあげたり、見たことも聞いたこともないような設定の小説を書き上げてしまうというイメージがある。天才だけが持っているような印象だ。

一方、ケアはたとえば介護や育児を想像させる。あるいはカウンセリングのように話を聴き、いくつかの質問と相槌によって人の心を回復と自信を与え、他者が舞台に立つのを送り出していく黒子のような存在だ。創造性というより、寛容性といったほうが近いように見える。

しかし、ぼくは次のように考える。

ケアの創造力は、戯曲を書かずに他者の演劇をつくりあげる。脚本もカメラも用意せずに他者の映画をつくりあげる。そして、それらの物語には、彼らの名前はクレジットされない。だが、たしかに作り手の1人である。

つまり、ケアの創造力とは、「受容」によって他者の物語を動かしていく創造力だ。

水野さんの「ミット打ち」によって、ぼくは自分の物語を新しくはじめてしまった。それは水野さんによって書かれた脚本ではない。ぼくが自分で始めたことだ。だが、ぼくが新しい活動を始めるという状況を、彼の技術と行動がつくり出している。

ケアの創造力は、他者の回復をゴールとしない。他者が傷を癒すのではなく、他者が傷を負った過去を清算して新しい物語を生きるというビジョンに向かって、布石を打つ。問題を解くための補助線を引く。

どのような布石をうつか。どのような補助線を引くか。ケアの創造力をもつ人は常に考えている。

子どもを育てる、介護をするといった「ケア」は、しんどい仕事であるという印象がつきまとう。たしかにそうだ。だが、考えてみれば仕事でも生活でも、私たちは日々いろんな人をケアしているし、ケアされている。

他人をケアする私たちは、受容によって他者の物語をつくりだしていくクリエイターだと考えてはどうだろうか。クリエイティビティを日々発揮しながら生きていると考えてみてはどうだろうか。ぼくたちは日々の「ケア」から、創造の技法とマインドを学び、培っているとも考えられないだろうか。

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臼井 隆志|Art Educator
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