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「働く」は仕えること(=仕事)ではなく本来行動すること(=為事)、肩書は結果として複数になるということ

今回の日経COMEMOの投稿テーマについて考えたいと思います。

〇フリーランスでもなく、1つの会社の正社員としてのみ働くのでもなく、社外の仕事を複数持つ、つまり複数の肩書、名刺をもつような働き方は今後スタンダードになるのでしょうか?
〇1つの仕事だけでなく、複数の肩書を持つ必要があると思いますか?
〇複数の肩書を持つことに、どんなメリット・デメリットがあると思いますか?

ごく少数の正社員と個人事業主の協働ネットワーク型企業の社会になる

日経COMEMOの第一弾として春に書いた記事も、”私たちの仕事をどう守るか、これからのセーフティーネットのあり方は”という働き方に関するものでした。

会社員だけではなく、副業でもよいので複数のコミュニティに所属し複数の仕事をこなすマイクロアントロプレナーとして生きることが、ひとつの会社に依存しない人生のセーフティネットになるのではと考察しました。

製造業中心に現場が団結して有形の価値を生んだ時代と異なり、脱製造業の今はエンジニアやデザイナー、プロデューサーやコンサルタントが無形の価値を生み出すようになっています。予算を確保し最終決定を行う一部の正社員と外部委託の専門家との協働で様々な業務が進む形に移行していくと思います。

2020年2-3月、慣れないZoomでのリモートワークが始まった時点で私は、リモートワーク環境が長引くにつれて、これまでのプロセス評価のメンバーシップ型の雇用からアウトプット評価のジョブ型の契約に企業の働き方も移行していくだろうと予測しました。

ホワイトカラーで、人間関係とか組織特殊的なスキルしかなく、リモートワークで存在価値がないことが証明された人たち(とにかく家に居場所がないのでネクタイ締めて朝早く会社来るというおじさん*注)そしてその人たちだけの会社に冬の時代が来る。

既に、政府においても役人は予算を取ってきて事務局はシンクタンクが務め中身は非常勤の外部委員が詰めるといったケースも散見されます。注目のデジタル庁も非常勤のリモート勤務可で募集をはじめましたが、徐々に政府の公職すらもそのように移管していくと思われます。

長い歴史においては「兼業」がスタンダード?

歴史を振り返ると、国や企業から様々な財や公共サービスが提供されるようになったのは、資本主義社会において職種の分業と専業が進んだついこの100年くらいの事です。

そうした公共財がなかった昔の人々においては1日の生活において様々な事に兼業で従事して社会を支えることがむしろスタンダードでした。

以前、経済産業省において、これからの公共サービスの持続可能な提供のあり方を審議する「新公共サービス研究会」の委員とした参加させて頂いたときに江戸時代に人々がどのように共助で社会を成り立たせていたかを調べた事があります。

江戸時代においては市役所の土木課も、大病院も介護施設もありませんでした。商人や職人は自分の仕事だけをしていたのではなく、朝起きたら町内を見回り、大水や大風などで壊れたどぶ板等のインフラを補修し(「朝飯前の仕事」)、それからようやく朝ご飯を食べて本職をし、夕方には近所の高齢者や生活困窮者を見舞い、夕飯後に明日の仕事の準備を含めて英気を養う「明日備」(あそび)をしたということです。

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2018.10.31 「新公共サービス研究会」提出資料”

もともとの「百姓」も百の様々な「姓」、すなわち「天下万民・民衆一般」を指す意味であり、元々商業、手工業、漁業なども含む言葉で、またほとんどの農家が、農閑期には養蚕や様々な手工業の「兼業」を行っていました。

硬いイメージの幕府の旗本がペンネームで戯作を書いてベストセラーになっていたり、かなり自由に「兼業」しています。

ギリシャ・ローマ時代は、市民は農業や商業に携わるだけでなく、民会の意思決定に参画し、有事には兵士として戦う事が第一の義務でした。むしろ一つの職業が専業で行っているだけということは、それが「ガレー船の漕手」であろうと、「貴族から荘園経営も任された執事」であろうと、「貴族の師弟にラテン語を教える家庭教師」であろうと「自分で自分の人生を決められず一つの職業に人生を捧げる身分」すなわち当時の定義では「奴隷」身分でした。

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資本主義を痛烈に批判したマルクスも、人間は分業による労働によって疎外されることなく、自分の行いたいことを様々に行いながら社会が成り立つことが理想の社会(=「自由の王国」)だと説いています。

”これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲を持たず、どこでも好きな部門で、自分の腕を磨く事ができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝には狩猟を、昼に魚取りをを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかもけっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくて良いのである”
(ドイツ・イデオロギー)

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働くことは仕えること(=仕事)ではなく、自分の思いのままに行動すること(=為事)


本来、語源的に働く(はたらく)という事は、「ハタ(擬音)+らく」ということでパタパタやバタバタからのオノマトペ。はためく、などの言葉と同じです。
要するに、単に「止まっていたものが動く」という意味だったようです。
「人が動く」事でニンベンに動くと書いて「働」くとなった、それが鎌倉武士の時代から徐々に今のような働く=人の役に立つ、奉公のような意味になっていったとか。

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「戦場(いくさば)でのそちの此度(こたび)の働き、あっぱれであった」なんていう台詞も、最初は
「いやー、みてたけど、キレッキレのめっちゃいい動きしてたよねー」

という程度の意味だったのかもしれません。

明治の著名な小説家で、軍医としても最高位の軍医総監(陸軍医務局長)を極めた森鴎外は、兼業成功者の例だと思います。彼は「仕事」を必ず「為事」と書いたと伝えられています。
誰かのために、仕える(つかえる)事ではなくて、ただ行動すること、為すべき事を為す(する)事。
その言葉には、陸軍という究極の宮仕えの2足のわらじを履いていた森林太郎・鴎外の言葉のプロフェッショナルとしての特別のこだわりを感じます。

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広辞苑、岩波書店提供写真

企業経営者からすると正社員には「とことん」専業で「仕」事してほしい

資本主義になり大企業が生まれ、サラリーマンという新しい職種が生まれ戦後の日本ではさらに終身雇用という独自の雇用形態が加わります。
正社員に対して終身で雇用責任を負い、年功序列で徐々に給与を上げることが求められ、業績連動の賞与まで生活賃金として期待され「ボーナスゼロの会社」はブラック企業か業績不振の極みのように言われるようになります。

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経営者(株主)としては、そこまで保証された身分の正社員には会社に専業でコミットしてもらって粉骨砕身、滅私奉公、「仕」事をしてもらわないと割りに合わないという発想に当然なります。

情報漏洩や本業との競業が生じるリスク、労働時間管理の複雑さや過重労働への懸念、過労死や労災時に誰が責任を負うのか、といった等、表面的な課題が列挙されますが、情報漏えいも過重労働も、副業解禁に限らず今でも起きている問題です。私もサラリーマンとして組織を預かっていた経験があるのでわかりますが、経営側は固定費の正社員には最大限自分の会社の仕事をして欲しいのが本音です。

但し、先の本来の歴史的な事実から考えると、長い歴史において1つの会社の正社員として長く専業で働くという事は戦後70年程度の日本における特殊な労働慣行です。

もちろん、会社で「専業で仕事」することからキャリアを始める事は現代社会において現実的な選択肢であり決して悪いことではありません。長期的視点で先輩や上司を通じて育成してもらえる機会も多く、それ以上に後輩や部下、取引先とのやり取りから学ぶことも多くあります。安定した生活基盤ができ、社会の仕組みを会社の立場上の様々な角度から知ることもでき、個人では取り組めない大きな社会的インパクトを伴うテーマを扱う機会がある場合もあります。私自身が20年以上、徹底して大企業で「専業で仕事」をしてきたからこそ良くわかります。また誤解して欲しくないのですが、一度は任された「仕事」に徹底して向き合い逃げずに自分のコアとなる何かを身につける事は不可欠です。今の私があるのは、徹底して「仕事」してきたからです。

それらの「仕事」のメリットをもってしても、次に説明するように「専業で仕事」をしてきた人には、人生のどこかのステージで肩書に拘らない「兼業で為事」に移行してほしい、自分の為すべき「為事」を様々な職場で様々な職種で行う事が、本来の働き方だと私は信じています。

「仕事」の肩書は相手がつけるもの、名刺は相手から渡されるもの

現在私自身、複数の肩書を持っていますが、共通のテーマは「最先端の技術/思想で社会/生活をより良い方向にアップデートすること」です。IT(Information Technology)の先端技術に長く関わってきたこともあり「未来技術の社会実装」がやりたい事でありこれまでのキャリアの強みです。

相手が企業の場合は「アドバイザー」や「社外取締役」になりますし、スタートアップの場合は出資者として「株主」になったり、「メンター」になったりします。公益財団法人の場合は「理事」、非常勤公務員として働く場合は「特別参与」や「補佐官」「委員」、もちろん自分の会社の「代表」として参加する場合もあり、単に「外部業務委託」の場合もあります。

仕事内容と条件さえ合意できれば、こちらに肩書にこだわりはなく、先方に決めてもらいます。また、スタートアップ等の場合は、「まだ給与は払えませんが、、」と立派な肩書と名刺だけもらったりします。

複数の肩書と名刺を持っていることに特にメリットもデメリットはありません。あえてデメリットをいうと、それぞれの仕事の予定調整や連絡の方法、請求関係の雑務が様々な様式で面倒なことぐらいです。(役所はPPMPの暗号化エクセル添付ファイルで空き予定を返送、ベンチャーはFacebookメッセンジャーでやりとり、等)

それよりも自分が何がやりたいかの「為事」

ただ、兼業の肩書の「仕事」を通じて共通テーマの「為事」を行っているうちに気づいた意外なメリットがあります。

例えば、投資家として先端技術の勉強をしたことや起業家から学んだことが、国立研究所の研究案件の評価の仕事において役に立つことがあります。また政府や自治体の仕事を通じて学んだマクロな業界動向や法規制の知見が、逆に個別の起業家支援に役に立ったりします。またそれらの複合的な知見や理解が大企業へのコンサルティングやアドバイスにおいて新しい切り口を生んだりすることも多々あります。

世の中には、大企業エリート、キャリア官僚、スタートアップ経営者、記者、大学教授などがたくさんいますが、日本においては優秀なキャリアの人ほど、新卒以来同じ職種に専業で就いています。複数の「仕事」を同時にこなしている人はまだ少なく、その「同時に複数の視点と知見を持つ強み」は希少価値があります。

今後の社会において「国家」や「会社」といった単位が液状化し、長い人生を生きる「個人」がより重要な単位となるとき、組織に仕える「仕事」より、自分が為したい「為事」がより重要になってきます

「複数の肩書が必要か?どんなメリット・デメリットがあるか?」という最初の設問に答えると「複数の肩書と名刺を持っている状態」はそうした「為事」に向かう過渡期の「個人」にとって自然な流れであり健全なことだと私は考えます。

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