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副大臣・政務官女性ゼロ「適材適所」「能力主義」でなぜいけないの?

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。


副大臣と政務官に女性がゼロ、というのがニュースになりました。

「女性ゼロ」は2012年の第二次安倍内閣発足以来、副大臣政務官の女性登用がゼロというのは初めてのことだ、(女性閣僚は5人で過去最多タイにはなったものの)ジェンダーについて注目されるようになってきた中、ずらっと男性だけが並んだ写真は、時代に逆行するように感じます。



「適材適所」?「能力主義」?

岸田さんは「適材適所」という言葉でコメントしたようです。

僕は政治と経済においては男女のバランスが必要だと考えており、基本的にはクオータ制やパリテ法のようになんらか比率にルールが必要だとおもっている派です。

しかし、以前こちらのインタビューが出たときもですが、こうした主張に対しては

・能力主義なんだから性別で調整は要らない
・女性を優遇する逆差別だ

といった反論をいただきます。

岸田さんの「適材適所」もそうですが能力で役職が決まるのは一見公平なようにも思えます。

しかし僕は(少なくとも今のところ)女性比率を確保する必要があると考えています。その理由は以下の3点です。


1)そもそも競争環境が非対称すぎる

まず一つ目の理由は、「能力主義」をいうにはあまりに現在の競争環境が非対称であり、平等でないという点です。

「能力主義」は平等な競争環境があってはじめて成立します。

こちらの奥田浩美さんのブログにあるように、体裁としては平等な競走とされていますが、スタートがぜんぜん違うのが現実です。(動画もぜひ)

「適材適所」や「能力主義」など現在のパフォーマンスや成果から「能力」を測るにはこうした偏りを補正する必要があります。

特に政治の世界においては、男女間で活躍できる環境が異なります。子育て中に国政選挙に出た友人は、女性がそもそも選挙に出ることが難しいという現状に苦しんでいました。政治は、これまで男性がメインであったので環境が男性に合わせてできているからです。

以前、日本維新の会の馬場代表が、

選挙は非常に厳しい戦いだ。女性の優先枠を設けることは、国政でも地方議会でも我が党としては全く考えていない。衆院選でも、選挙区でたった1人が当選するという厳しい選挙の中では、私自身も1年365日24時間、寝ているときとお風呂に入っているとき以外、常に選挙を考えて政治活動をしている。それを受け入れて実行できる女性はかなり少ないと思う。

ということをおっしゃいましたが、そもそもどうしてそれを男性ならできるようになっていて、女性にできないのでしょうか?子育てを含め、非対称な環境があるのは明白です。


また、「適材適所」「能力主義」を基準にしているといくらいったところで、「選ぶ」というプロセスには「バイアス」が入り込みます。ハイディ・ハワード実験など、女性と男性ではそのイメージのバイアスから評価が適正にされないことが言われていますがく、「政治といえば男性」というこれまでの先入観があるために、政治の世界では男性が実際よりも高く評価され、女性は低く評価されがちでしょう。

このように競争環境や評価に非対称性がある状況では、適正に「能力」がそもそも評価できません。スタート地点が大きくちがう競走ではゴール順イコール能力ではないのです。むしろ、ゴール順でみてしまうと、本当は先にゴールした男性よりも能力が高い女性を登用し損ねてしまうことになります。


政治には高い能力が必要であるから能力主義であるべき、と考えるのであれば、だからこそ適正に能力が評価できるように現状の偏りを考慮した上での補正が必要なのです。



2)政治こそ、属性が多様でなければならない

そして二点目に、「政治だからこそ」男女比率が対等であるべきだと僕は考えています。

社会的な活動のすべてが男女同数であるべきか、といわればそうでもない、と僕は同意します。たとえばスポーツや趣味で考えると男女比が半々ではないケースは沢山あります。建設業や格闘技など男性が多いスポーツや職業があり、一方でメイクやチアリーディングなど女性が多いカテゴリが存在します。


身体の構造のちがいも一定あるので、自然に比率が偏ることもあるでしょう。これを「能力」や「向き不向き」として考えることもできます。(ただし、あくまで平均的な属性の比較なので、男性よりも力の強い女性もいますし、その逆もいます。またこの比率は時代によって変化しうるものです)


しかし、スポーツや趣味のように男女の比率がちがってもいいではないか、向き不向きもあるのだから、と言われると、僕はNOだといいたいです。

なぜなら、政治家は国民の代表であり、国民の多様な属性を反映するべきだからです。一部の属性だけで議論がされると一部の属性に有利な制度が作られたり、困っている人の意見が見えなくなってしまいます。


たとえば参議院と衆議院があるのも、議論の偏りを防ぎ、議論を深めるためでしょう。わざわざ属性を分けず参議院だけでも十分だろう、とはならないですし、議席数もそれぞれ決まっています。

さらに前でいうと、明治期には「貴族院」があり、皇族や華族など一部の人しかなることができませんでした。これに対して「衆議院」は、ある種「一般人」という属性を入れる仕組みでもあったわけです(選挙権も高額な納税をしている男性しかなかったのでそれでも政治は一部の人のものだったわけですが)。

これは貴族の側からすると、「能力主義」で有能な貴族が議論すればいいんだからわざわざ「一般人」用の院までつくって入れる必要ある?と思われたかもしれません。

時々政治家の「庶民感覚との乖離」が話題になります。一部の人だけで議論するのでははなく、いろんな視点が必要です。とくに、昭和的な男性は「家庭」や「育児」などから遠く、その課題が見えていないことも多いでしょう。多様な視点での議論のためにも、性別のバランスが必要だとおもうのです。

(理論的にいえば、女性の視点や意見に真摯に耳を傾けてくれる人がたくさんいれば男性でも大丈夫なはずですが、残念ながら男性の視点や意見が優先されてしまうので)


3)未来のための「適材適所」になっているか?

そして最後に、「適材適所」における時間軸があると思っています。

確かに、適材適所は重要な考え方です。しかしすでに述べたように、既存の基準で評価をするとそれは過去に向かったものになってしまいます。

岸田さんが「異次元の少子化対策」といったように、日本は少子化や人口減など色々な課題を抱え、いま変革のタイミングを迎えています。「失われた30年」と言われてきましたが、いま日本の政治や経済って上手くいっているよね!と思っている人はどれくらいいるでしょう?


変革には、チームメンバーの入れ替えも必要です。DXを進めるなら既存のプロセスに精通した人材だけでは難しいように、新しい発想や視点が必要な時、新しい人材をどんどん取り込むべきです。


もちろん、いきなり全員入れ替え、では知識や経験が断絶され上手くいかないでしょうから、半々くらいで、新旧の人材を組み合わせるのが一番いいのではと思います。これまでの延長ではなく、逆にこれまでいなかった人材を入れるのが「未来のための適材適所」ではないでしょうか。


「適材適所」や「能力主義」は一見正しく公平であるように思えます。しかしそのためには環境の平等性が必要ですし、それがなければ能力を見誤ります。また能力だけで測って属性が偏ってもいけず、多様な視点が必要です。

今回の専任は「これまで通りの適材適所」になっていないでしょうか。過去や因習にとらわれず、これからの「適材適所」を考えていくべき時ではないでしょうか。


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