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奴隷から「七転び八起き」で国を救った男の話

「人生、山あり谷あり」とはよく言ったもので、想定以上にうまくいくこともあれば、絶対に大丈夫だと慎重に堅実に進めていても思わぬ失敗をすることもある。結果としての成功失敗は、必ずしも本人の努力や運だけの問題ではない。

また、失敗しても復活できる者も確かにいる。だからといって、「失敗しても何度も挑戦すべきだ」と簡単に言えない。たった一度の失敗で終わってしまう者もいるからだ。こればかりは統計や確率論では語れない。法則もない。あるのは、その時の本人と周りの環境がどうだったかによって変わる。


高橋是清という人がいた。
教科書にも出てくるのでご存じの方も多いが、戦前の大正~昭和期において何度も大蔵大臣に就任したが、2.26事件において暗殺されてしまった人物である。
彼の政治家としての後半生はよく知られるところだが、政治家になる前の波乱万丈の人生はあまり知られていない。

生まれは1854年、幕府御用絵師・川村庄右衛門の私生児として生まれ、生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になり、高橋姓となる。
当時、幕末の開国期で、高橋少年は横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(後の明治学院)にて学び、その後1867年藩の命により米国留学することになる。

しかし、その留学を仲介したアメリカ人貿易商に騙され、学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先でも騙され、わけもわからず期間限定の奴隷契約書にサインさせられ、オークランドのブラウン家に売られる。高橋少年は14歳でアメリカで奴隷になってしまったのだ。

ただ、彼自身、奴隷になったという自覚はなく、毎日ものすごくこき使われて「きつい勉強だな」程度にしか思っていなかったという。
その後、いくつかの家を転々とするが、この期間に英語の読み書きを習得することになる。

1868年に帰国するが、その時はもう明治維新がなっていて、戻る場所もない。野垂れ死にしてもおかしくなかった。ただ、当時は英語ができることは相当のスキルだったので文部大臣の森有礼に拾われ書生となり、大学南校に生徒として入学するかたわら、英語の先生として教壇にも立った。15歳でである。

そこからとんとん拍子に立身出世したわけではなく、生徒の借金を肩代わりしたり(騙されただけだが)、その流れで覚えた芸者相手にのめりこみ、学校をやめて置屋の小僧になってしまう。多額の借金返済ははその芸者に頼る。要はヒモである。

そこでまた森有礼に救われ、唐津の英語学校の教員の仕事を与えられ、これで借金は返済する。その後、東京に戻って文部省の官僚になる。同時に翻訳や学校の先生の仕事などをするが、乳牛事業に投資して失敗、米の仲買に手を出して失敗などしている。最初の結婚で子を授かるものの妻とは死別してしまう。

その後、共立学校(現:開成高校)の初代校長を務め、その時の教え子に、正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した秋山真之がいる。この頃再婚もして、屋敷も構え生活が安定する。

1887年に特許局長に出世するが、1889年に後ろ立てだった森有礼が暗殺され、官僚の安定した道を捨てて、ペルー鉱山開発に乗り出す。が、これもまた騙されて無一文になる。屋敷も売り払って貧乏長屋住まいとなる。

何やってんだか。

しかし、なぜか、ここでも助ける者がいて、日銀に就職できることになる。その後日銀副総裁になる。

こうまで人に簡単に騙されて失敗ばかりの男が野垂れ死にすることなく、失敗したのにその後失敗前よりもいい職にありつけるという人生を繰り返している。
彼はその「七転八起」の人生から「ダルマ」と呼ばれていた。

これを運というのは簡単だろう。
しかし、高橋是清には、これだけ失敗してもへこたれない鈍感さと失敗しても手を差し伸べてくれる人がいるだけの魅力と人望があって、その大元に人間としての可愛げがあったのでないかと思う。

しかし、これを彼の人間力だけで片づけられるものではない。

高橋是清の最大の功績は日露戦争の公債募集による資金調達に成功したことだ。日露戦争といえば、203高地や日本海海戦など戦闘の勝利ばかり脚光を浴びるが、そもそも高橋の公債募集による資金集めがなかったら早々に負けていた。金が無ければ弾も買えないし、兵隊の食料も用意できないから。日露戦争勝利の半分は高橋の功績である。

とはいえ、当時のロシアは大国で、外国人にしてみても「日本が勝てるわけない」と全員が思っていたわけで、負ける国の公債なんか誰も引き受けない。特に、イギリスは日英同盟はしていたが、これでもし日本の公債をおおっぴらに引き受けたら、ロシアに対して宣戦布告したも同然になるから腰が引けるわけです。

それでも、中には足元を見て手をあげてくる個人投資家もいたのだが、高橋はこれには乗らなかった。もし乗っていたらまた騙されることになったかもしれない。

このあたりが面白いところで、個人的な私利私欲や野心のために今までさんざん騙されてきたのに、この国の一大事の時は「うまい話に決して乗らなかった」のである。人生経験を積んだ賜物というより、その時の彼の環境がそれを許さなかったのだろう。

とにかく、高橋は銀行だけを相手にいろいろと真正面から説得をして、ついに命じられた1億円の資金調達に成功するのだが、ここで協力してくれたのが元英国首相のキャメロンのおじいさんだったりする。

それでとにかく一回目の公債募集に成功するが、日本政府からは「やっぱまだ足らないから、あと2億集めてくれ」といわれる。それも成功して高橋が帰国すると、伊藤博文や桂太郎などの元老が勢ぞろいして「さぞ感謝の言葉でもかけてくれるのか」と思いきや「高橋君、この際、あと2億、いや2.5億集めてくんない?」と言われるわけです。

は?って感じだけど、高橋は「それくらいなら電信一本で集めて見せます」と言い放ったとかなんとか。

これを「高橋すげえ」という話にしてはならない。
というのも、もうその頃には日露戦争は開戦していて、緒戦は日本軍が小規模ながらも勝っているというニュースが流れていた。すると、外国の銀行も投資家も「あれ?もしかして、これ日本勝っちゃうんじゃない?」と思うわけで、そうすると日本の公債の高利率は魅力で、世界各国から日本公債を買い求める行列すらできるようになったらしい。

見方を変えれば、これは、よその国の戦争で儲けようとする勝ち馬に乗る心理のようなものだが、こうした感情が少なくとも当時の日本を救ったことは確か。世界を結果として動かすのはこうした感情だったりする。

もちろんそれまでの高橋の頑張りあってこそだが、個人の頑張りとは別の次元でそうした予期せぬめぐり合わせがあってこその結果なのである。

ちなみに、この追加調達ができなければ、日本は戦闘には勝っていても、それ以上続けられなくなって負けていた。

結局、高橋は、なんだかんだ15億円にもふくれあがった戦争予算(開戦前は4億と甘く見積もっていた)の半分近くを単独で調達した。これの功績により高橋は貴族(男爵)に列し、日銀総裁になり、後に政治家として総理大臣にまでなる。なるが、その後の政治人生でも失敗したり復活したりを繰り返し、最後は2.26事件で斃れることになる。


ちなみに、高橋は軍部の予算を抑制しようとして陸軍の恨みを買ったのだが、高橋が一番キレていたのは軍部ではなく当時日中戦争や米英戦争に対してイケイケと民衆を煽っていた朝日新聞をはじめとするメディアに対してである。メディアが感情を作ってしまうことを知っていたからであり、高橋に6発の銃弾を撃ち込んだ青年将校もまたそうしたメディアの感情操作によって「正義の人←皮肉」になってしまったのだろう。

感情は怖いのである。



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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。