話がひたすら面白い人—松岡正剛先生の死を悼んで(上)
知の巨人松岡正剛先生が亡くなられた。学生時代から、勝手に師匠と仰ぎ、先生の膨大な本を耽読してきた。博覧強記の松岡正剛先生と、大阪ガスのエネルギー文化研究所所長時代に、1年間、大阪の法善寺横丁と東京の豪徳寺の本につつまれた知的空間で、日本再起動をテーマに対談させていただいた濃密な時間を忘れられない
松岡正剛先生の死を悼み、2017年から2018年にかけ、3回にわたって大阪ガスエネルギー・文化研究所の「情報誌CEL」で対談させていただいた内容を再録させていただく。来年に迫った大阪・関西万博にあたって、松岡正剛先生の言葉を心に刻み込みたい。本日はその三部作の第一弾。
1 都市に埋め込まれた本質を掘り起こし、再起動へ
池永 江戸時代以来「ないものからつくりつづける」東京に対して、明治以来「なくしたことを隠しつづける」大阪という地域構造の課題です
さらに日本は少子高齢が進み、社会・産業構造も大きく変化しているにもかかわらず、価値観や制度や仕組みが従来のままであるため、諸相に適合不全が顕れています
私たちの生活文化の基盤「都市」にある本質を過去より掘り起こし、現代・未来へとつないでいくことができないか。古来より都市が形成された近畿圏には日本的なる「本質」が育まれ存在しているはずなのに忘却している。この本質を「ルネッセ(再起動)」させることで、都市に新たな価値を創造できないか
近畿における購買行動の分析を行いました。近畿圏の動きを現在の行政区分と旧令制国区分で比べてみると、大阪府より摂津国と捉えた方が地域の人の行動や消費構造が鮮明になりました。「ルネッセ」的に考えていくことが必要ではないかと考えています。
松岡 その視点はおもしろいですね。先日、関西のある銀行関係者と話をする機会がありましたが、同じ問題意識を感じました。
池永 新しいものに対する受容性が低いという実態も浮き彫りとなり、これも近畿圏の地盤沈下の一因かもしれません。首都圏や中部圏に比べてスマホやeコマースの利用が遅れています。かつてはどこよりも新たなものを受け入れ、スピーディに自分のものにしていた。阪神・淡路大震災を体験しているにもかかわらず地震保険の加入率が低い。未来を考えるよりも短期的な行動をとるという傾向が強い
松岡 それを聞いて思い浮かぶのは、江戸後期の儒学者海保青陵の「穏古談』にある「およそ大坂ノ利ニ精(くわ)シキハ、浅キコトニアラズ」という言葉です。利に精しいのはつまらないことではないし、簡単なことでもないという意味ですが、いまの大阪は「利に対する編集力」が弱くなっているのではないか。また大阪の枠を外れると、すぐにあきらめてしまう。どこで間違ってしまったのでしょう
池永 情報と情報を組み合わせ、新たなものを創り出す力が弱ってきているのではないでしょうか?今、インバウンドが伸び、関西空港から大阪に入り京都、奈良に移動される。かつての「天下の台所」の水路ネットワーク構造とよく似ています。しかし、この現象の本質を踏まえなければ、一過性で終わってしまう
松岡 いろいろな事象、チャンスの兆しは起こっているのに、長続きしないのはなぜかという問題です。その理由のひとつに、大阪では好きなこと、自由なことができるはずだという錯覚を日本中がしていたかもしれません。インバウンドも、東京であれば国が予算をつけて観光客が増えるように計画したでしょう。ところが、大阪は任せていても大丈夫だろうと思ってしまった。
大阪らしい先駆性を維持できていないのは、パトロネージュの文化が切れてしまったことも原因でしょう。過去には豪商が懐徳堂や適塾をつくり、日本中の若者に門戸を開き人づくりをした
とはいっても、余裕がないと文化資本は生み出せないし、シードマネーもつくれません。大阪にそれがないとするならば、第三の方法を見出せばいい。やんちゃなもの、ハイブリッドなものなど、他では複合しないような組み合わせを大阪で起こせばいい。近松門左衛門の「曾根崎心中」のように、心中事件と人形浄瑠璃を組み合わせる発想は大阪でしかありえなかった。かつてあったそういうものを取り戻す必要があるでしょうね
2 新たな異なる情報を編集し、モデル化してきた大阪
池永 先日、「大阪くらしの今昔館」で、外国の方を招いて上方文化体験プログラムを行いました。自国との違いに気づく一方、自国との共通項を見たという外国人が多く、まさに文化の本質で「ルネッセ」の原点になると考えています。一方、私たちが自らの文化を説明できなくなったということにも大阪の弱体化を感じています
松岡 それは大阪だけではなく、日本全体が抱える問題でもある。日本人が日本文化を説明できていないのです。まず大阪が率先して、上方の文化経済や歴史を説明していくべきです
なぜかといえば、かつての都としての京都、貿易港としての神戸、古都としての奈良、王申の乱を抱えた滋賀、こういった地理・時間軸のなかで商都大阪が大きな役割を果たしてきました。海保青陵のいう「利」は、いわば実学です。そこを実地でやれたのは大阪だけでした。最先端の外からの情報を編集し、大阪モデルをつくり先頭を切ることができたのは大阪だったのです。
古代に難波京があり、遣唐使がそこから出て入り口となり、竹内街道を越え飛鳥京へとつながるパイプがあった。中世では渡辺党が上町台地をつくりあげた。大阪は上町台地にできた街だから、まず上町台地型の摂津・船場文化と畿内の各都市文化、歴史の違いを説明できなければいけません。
私は懐徳堂が好きなのですが、5人の豪商がつくりあげてからの三宅石庵時代は素晴らしいけれど、中井竹山時代に権力にへつらうようなことが起きた。現代も、おもしろいことをやっても、後には評判が悪くなったり、余所に出ていったりする。こうなってしまうことを、もう一度考え直さなければいけません
池永 私は大阪が「大阪のためのものだ」と思った瞬間から大阪が弱体化したのではないかという仮説を立てています
松岡 成功した早い段階で編集力をきかせ、モデル化を行い、外に展開するところまでができれば、大阪も成功していたのではないでしょうか。たとえば吉本興業は、じっくりと大阪で吉本モデルをつくりあげてから全国に展開して成功しました。芸人を続々と、全国のメディアや劇場にぶつけて、日本全体のタレントにしていく。大阪発のものは吉本以外にもありますが、モデル化ができていない段階で全国展開しようとしたのでうまくいかなかった。せっかくできつつあるものを仕上げず手を抜いて、「利に対する編集力」を弱くさせている。大阪の企業は、外に出す前に、「大阪モデルにしてから外に展開する」という大阪合意のようなものをつくった
3 産業構造の変化・上方文化の衰退
池永 編集し、モデル化することが弱くなったのは、大阪市内に大学がなくなったことも大きいと考えています。
松岡 それはどうしてだったのでしょう?
池永 高度経済成長時代、大阪市域での工場増加に伴う人口増加が問題になり「工場等制限法」ができたのですが、それは工場だけでなく大学の新設・増設をも制限するものでした。そして大阪市内に大学が減った。学生が減り学びの場がなくなり、ビジネスだけの場になってしまった
松岡 商都大阪の失敗ですね。イギリスが、ランカスターやバーミンガムなどの工業都市の大学を大事にしてきたのとは違う。イタリアのミラノやローマも、アルマーニに見られるファッション産業やチネチッタに見られる映画産業をつくりあげてきたのに、大阪の現状は非常に由々しきことです。メディアの華も咲かなかった
池永 水上物流から鉄道物流への移行につづき、明治末の電話開通も関係する。電情技術の進展に伴う銀行決済システムの変化などで大阪に本店をおく必然性がなくなった。そのときに大阪としての情報の流通網の組み替えができなかった
松岡 やはり、才能とかキャパシティといったソフト面、それから情報という目に見えないものに対し、「利」とは何か、型にするにはどうしたらいいのかと考えるところが甘かったのでしょう。
それでも阪急文化圏のようなものをつくりあげることはできました。なぜそういうものをもっとつくれなかったのでしょう?
池永 時代背景として、「大大阪時代」であったことが挙げられます。関東大震災があり、東京の資本が大阪に移り、東京の代替機能も取り込み「大大阪」として伸びました。が、上方の本質である「トランスファー文化」とは違う産業システムがつくりあげられたのではないでしょうか
松岡 小林一三は阪急をつくったけれども、ほかに挿し木してハイブリッドにするのではなく、小林文化だけが残ったという感じですね。アメリカ村と小林文化が合体するなんていうことにはならなかった
池永 本来の上方モデルであれば、外国や日本の優秀な若者を集め、坩堝(るつぼ)にして、新たなものを生み出せたはずです
松岡 江戸の研究者たちと上方のことを話すと、惜しむことが三つあります。まず木村蒹葭堂(けんかどう)がアジア文化をメディアとして取り込んで、知の一大センターにしたのに、それを引き継ぐものが生まれなかったこと。次に「雨月物語』を書いた上田秋成のように自由に編集できる上方モデルが生まれたのに広がらなかったこと。さらに、近松門左衛門と井原西鶴という編集力と早さの両者を語れる人がいないこと
池永 天下の台所をつくりあげたトランスファー文化を失い、明治に入り大きな産業資本、分業モデルに呑み込まれ、ものづくりと商いの強みであったデザイン力が弱まってしまった
松岡 商業文化を経済にできなかったのですね。大阪は大きくなりすぎ、コストのかかる大企業・産業構造に巻き込まれ、大阪商人の本質や付加価値を生み出す力が消えてしまった。大阪府や市を小さくすることはできないので、モデル化やプロジェクト化を図り小さく分け、機能性の高いものに切り替えていけばいいはずです
4 日本的な文化、精神性を引き継ぎ、アジアの拠点に
松岡 私は、大阪はもっと「煎茶」に賭ければ勝てたと思っています。抹茶ではなく、秋成も蒹葭堂も好きだった煎茶文化ですね。抹茶文化がつくりあげたしつらえ、ふるまい、おもてなしに対して、一杯一銭のやり取りを広げてほしかった
池永 船場・商人文化のなかにはあったのではないでしょうか
松岡 あったんだけれど、大阪独自の作法や仕切りにしなかった。何でも無料サービスにした
池永 住文化でいえば、京都と外観は似ていますが、大阪らしい実利的、機能的な商人文化が障子や掛け軸にも表れています。大正・昭和初期の住宅には江戸以来の文化が残っていて、外国人の方が「スマート」と感じとっています
松岡 茶室はどこにでもありますが、大阪は茶室空間を増やすべきたった。もうひとつ大切なことは、ヒョウ柄のようなケバくてギトギトした文化と、「ええなあ」「上品やなあ」という船場の高踏(こうと)美学とを両立させていくことです
池永 1960年代に、心斎橋の百貨店が「おいでやす」という挨拶言葉を「いらっしゃいませ」に変えたことが、ターニングポイントだったと言われています。この100年で大阪の言葉は大きく変わった
松岡 上方文化には江戸の分節力にはない「間」があるんです。
それから、女性文化も大切です。「夫婦善哉』のような女性がしっかりした作品もあれば、かつてマヒナスターズが歌っていたような男性すら女性的になってしまう文化がありました
池永 女性文化が花開かないのは、女性の働き場が少ないということもあります。東京一極集中になってしまい、大阪で働きたいという女性はいるのに、活躍する場が少ない、不適合が起きてしまっています
松岡 儒教、仏教、道教といったものを捉え直す必要もあります。儒教はまさに懐徳堂以降の商人がもっていた心学で、道教はエビスさんみたいな仙人的なものですよね。こういうものをもう一度出して、大阪とアジアのトランスミッションを起こすべきです。かつてのアメリカ村のように、大阪のアジア化、アジアとのトランスネットワークを取り込み融合させた拠点を大阪は目指すべきです。観光客が来る街づくりではなく、イコンとアイドルに満ちた儒・仏・道を加えた方がいい。アジア圏の多くはまだ新興国で、儒・仏・道をきちんと考えるまでには至っていませんが、そのうち精神や心を振り返りはじめるでしょうから、大阪が先取りできれば強みになります
池永 恵比須さんは商人の神様や福の神として知られていますが、障害をもって生まれたエビス(ヒルコ)が西宮にたどりついたヒルコ伝説が起源にあり、外から来たものを受け入れ、弱者に対する温かい目線がこの地にはありました
松岡 それが大阪の隠れたよいところです。四天王寺、蓮如、日想観、俊徳丸、説教節、観音めぐりなど、みんな弱者救済型です
池永 近畿にそのイデオロギー、精神が脈々と流れています
松岡 恵比須さんを「えべっさん」と呼ぶのは大阪だけです。正負がひっくり返り、負が正になっていく。ヒルコ的なものが恵比須的なものになるというのはとても大事なことで、百太夫、淡島言仰とか全てもっている。それを出すべきです
池永 そういう精神的な部分が、近畿圏のみならずこれからの日本にとっても大切ですね
松岡 決して大阪だけがダメなのではなく、日本全体がダメだから、大阪はチャンスと考えるべき
(第2回「交流(つながり)を問い直す」につづく)
https://www.og-cel.jp/search/__icsFiles/afieldfile/2017/06/29/02-10.pdf
(発行 大阪ガスエネルギー・文化研究所 編集 平凡社)