失われるニュアンスが愛しいので、倍速視聴はしない
今回のCOMEMOお題は「タイパ」に関わる由。
・・・タイパ?
なんだそれ??
上記リンク記事より、タイパにかかる説明を引用すると
「電通メディアイノベーションラボ主任研究員の天野彬さんによると、コストパフォーマンスが「費用対効果」を表すとすれば、タイパは、「かけた時間に対する満足度」のことを指す。例えば動画のコンテンツなどについて、「時間をかけて見たのにつまらなかった」と思ったときは、「タイパが悪い(低い)」というように使われる。」
とのこと。
ううむ。
筆者はこの「タイムパフォーマンス」という語感から「時間当たりの生産性」という意味だと勝手に解釈し、仕事のスループットを語るような概念かと思った。
しかし「時間当たりの満足度」を指すということは、仕事というよりはもう少しプライベートなこと、見たり読んだり聞いたりしたいもの=コンテンツに触れることによって得られる感覚を意味していそうである。
で、それを高めるために早送りをして時間当たりのコンテンツ吸収量を上げる、というのが「倍速」視聴であり、そうして見たい対象は何か、というのが今回のCOMEMOの問いである。
と、問われて考えてみたものの、筆者は、倍速視聴してタイパを上げることはしたくない、という結論になった。
例えばインタビューの確認や、文字起こしなどをしている場合は、大いに倍速で見たい。しかしこれは満足度とは関係がない、単純な業務効率の話である。
筆者には大した発信力はないが、しかしこうした形で考えをしたためると、時折反論や批判をいただくことがある。
その中には、抜け落ちていたことを補完いただけたり、別の視座をお知らせいただくことにより考察の綜合性が一段上がったりするような、有難いものもある。
一方で「この人本当に中身ちゃんと読んで言ってるのかな?」「題名だけしか見ずに言ってるじゃないかな?」と思わせるようなものも少なからずある。
自分の筆力を棚に上げた物言いを許していただければ、そうした反論・批判は、主張をまず理解する、という最低限のことすらスキップしたある種のヤジのようにしか感じられない。
念のために断っておきたいこととして。
文章に限らず、映像や音楽など、全ての表現は、作り手を離れた瞬間に独立し、一人で歩き始める、という考え方は言うまでもなく正当なものであると思う。
また、その観点から、誤読など、作者の意図と異なる形で受け手が理解することは悪いことでもなんでもないし、むしろそれによりその表現の新たな側面が浮き上がったりすることもあると思う。
何が言いたいかというと、表現をどのような形で読み解くか、は、読み解く側の自由であるし、それは表現側にとってもえてして良い作用を及ぼし得る、ということである。
しかし、誤読(など作者の意図と異なる形で受け手が理解すること)と、読み飛ばしは、全く違う。どのような表現を対象にしたものにしろ、読み飛ばしは、作者が意味を持って仕込み、あつらえた重要かもしれないパートを見逃しても良い、という態度に思われる。そこには表現や作者への敬意がない。
現在の技術は非常に洗練されているので、動画を倍速で鑑賞しても、音程のずれや音飛びがない、しかるにこれは読み飛ばしとは違う、という向きもあるかもしれない。
しかし、音がない「間」にだって意味はある。
我々が日常で他人と行うコミュニケーションの中で、何も発話しないことにより怒りやためらいなどの情緒が表現されるように。
言葉が詰め込まれていない時間だからといって、そこを省略してしまっては、作り手が意図を持って入れ込んだニュアンスが消失してしまうかもしれない。大筋は追えるかもしれないが、それでは表現全体を咀嚼・理解(または誤解)したことにならない。
また、アニメ・実写の非常に美しい場面に邂逅した時、筆者は全体とディテールを交互に愛でるような見方をしたくなる。こうした鑑賞も、倍速ではおぼつかない。
海外ドラマをネットフリックスで見るときなど、20話x5シーズンというようなコンテンツ量に圧倒されることは、筆者もままあり、そういう時に倍速で見られたら時間的な負荷が軽くなると考える気持ちはわからないではない。
が、上に記したように、たとえ誤読しようとも、作品世界に描かれたことをできるだけ見逃したくないので、筆者はやはり倍速視聴はしない。
昭和生まれの時代遅れな考え方なのかもしれないけれど。
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