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「民主制・寡頭制・独裁制」どれがダメで、どれがいいの?

人間なんてものは、時代が変わったからといって変わるものではない。もちろん、農業革命や産業革命、情報革命など時代において生きる環境は変わるが、その中でもがいて生きている人間自体、考えることも行動することもたいして違いはない。

たとえば、政治の統治体制について日本で「独裁制がいい」などという人はあまりいないだろう。北朝鮮やロシアや中国などを見れば「あんな統治者、ごめんだ」と思うからだ。

しかし、一方で「民主制は本当にいいのか?」という疑問のある人も多いだろう。

勘違いが多いが、「民主制=多数決」ではない。みんなで話し合った結果折り合いをつけるというのが本来の民主制であり、多数決はそのための手段でしかない。

しかし、今の国会を見ても、多数派が何をしてもいいんだ的な振る舞いが多く、実はこれは民主的ではなく、「多数による専制」に近い。


今から2500年前にペルシャで記されたという本、ヘロドトスの「歴史」というものの中に、民主制・寡頭制・独裁制のどれが理想の政治体制なのかを論じている部分がある。
2500年前といっても、そのまま現代に通じる。示唆に富んだ話があるので読んでみてほしい。

ざっくり簡単に、この本で書かれている「民主制・寡頭制・独裁制のどれがいいの?」議論について以下に書く。

まず、独裁制反対・民主制支持の論。

「なんらの責任を負うことなく思いのままに行なうことのできる独裁制が、どうして秩序ある国制たりうるであろう。このような政体にあっては、この世で最も優れた人物ですら、いったん君主の地位に坐れば、かつての心情を忘れてしまう。現在の栄耀栄華によって驕慢の心が生ずるからで、さらには人間の生得の嫉妬心というものがある。このふたつの弱点をもつことにより、独裁者はあらゆる悪徳を身に具えることになるのだ。彼にあまたの非道の行為があるのは、ひとつには栄耀に飽き驕慢の心を起こすからであり、ふたつには嫉妬の念の仕業である。
大衆による統治はまず第一に、万民同権(イソノミア)という世にもうるわしい名目をそなえており、第二には独裁者の行なうようなことはいっさい行なわぬということがある」

だから、独裁制はクソで、民主制がいいのだと言っているのだが、これはまた現代のどこぞの国で起きている状況と一緒で、なるほど感がある。

しかし、それに対して、独裁制反対は同意するが、民主制はダメで寡頭制にするべきだという論が以下である。

主権を民衆に委ねよというのは、最善の見解とは申せまい。なんの用にも立たぬ大衆ほど愚劣でしかも横着なものはない。したがって独裁者の悪虐を免れんとして、狂暴な民衆の暴戻の手に陥るというがごときは、断じて忍びうることではない。
われらは最も優れた人材の一群を選抜し、これに主権を賦与しよう。もとよりわれら自身も、その数に入るはずであり、最も優れた政策が最も優れた人間によって行なわれることは当然の理なのだ」

要するに、民衆に委ねれば衆愚的になる。だから、優秀な一部の人間が仕切るべきだと言っている。衆愚になるというのは間違ってはいない。

それに対し、民主制も寡頭制もダメだ。独裁制がいいのだという論が以下である。

「最も優れたただ一人の人物がいるならば、その卓抜な識見を発揮して民衆を見事に治めるであろうし、また敵に対する謀略にしても、このような体制下で最もよくその秘密が保持されるであろう」

最後のやつはこれだけ読むと疑問しかわかないかもしれないが、ポイントは寡頭制と民主制の欠陥を鋭く指摘している点にこそある。

寡頭制がダメなのは、公益のために功績を挙げんと頑張るのはいいが、この数人の間で必ず敵対関係が生じる。利害関係が食い違う。すると、それぞれは自分の利益のために、自分の意見を通そうとし、結果、内紛になる。内紛はやがて流血を呼び、流血を経て、敵を一掃した時には独裁制になっている。だから寡頭制をしいても結局独裁制になる、というわけだ。

民主制がダメなのは、結局大衆なんて愚かなんだから自分のことしか考えない。まとまるわけがない。しかし、大衆は寡頭制のように敵対関係になるのではなく、互いに強固な友愛関係を作りたがる。いいこと、わるいことなどの判断はなく、たとえ悪事でも仲間同士で結託して自分らとは違う悪を集団で排除しようとする。勝利するのは、より多くの大衆から熱狂的に支持されることであり、熱狂的に支持されるがあまり、結局は一人の独裁者が誕生することになる。

なるほど。これなんかはまさにヒトラーそのものである。彼もまた民主的に選ばれ、国民を熱狂させて独裁者となった。

最後の論は、民主制だろうと寡頭制だろうと結局は独裁制になるのだから、だったら最初から独裁制でいいじゃないかというものである。

さて、それらの論争を聞いて、読者は3つのうちのどれを選ぶだろうか?

どれが正しいという話ではないし、上記の議論が正しいという話ではないが、結局2500年前のペルシャ人は、皮肉にも独裁制を多数決によって選び、王政となって、やがて滅びることになる。

だからといって、彼らの選択が間違いだったというものではない。何を選んだところで、最期の論にあるように、統治体制は循環していくのだ。

独裁制は失敗する。うまくいっても独裁者が死ねば滅ぶ。それは秦の始皇帝でも証明されている。
独裁制の後は、大抵寡頭制がいいと言い出す、しかし、大体内紛になり結局、敵を殺しまくる恐怖政治に陥る。フランス革命がよい例だ。
じゃあ、民主制がいいのかという話も、衆愚ポピュリズムになってにっちもさっちもいかなくなる。やがて大衆は熱狂させてくれる誰かを求めるようになり、独裁者が生まれる、と。

こうした歴史を何度も人間は繰り返して今に至る。何も学習していないともいえるが、学習したところで歴史は必ず繰り返すともいえる。

ここで大事なのは、「人間なんて変わらない」という部分をきちんとふまえることである。変わらないのだから、失敗の事例も歴史上にたくさんある。そうした事をちゃんと把握しておくべきだ。把握しても同じ轍を踏むけど。

SNSによって、その時の感情だけで炎上させることは可能になったが、それはまさに全体主義を生んだあの頃と何も変わっていないわけだ。

今、日本で起きていることは、愚かな寡頭制のようなもので、どうしようもないのだが、さりとて「この人になら任せられる」という誰かも存在せず、気に入らない奴はクビをすげかえればいいというのをずっとリピートしているだけだろう。

民主制でもなく、寡頭制でもなく、独裁制でもない。誰も責任を取らない無責任制といったらいいだろうか。

もしかしたら、日本は歴史書の残る天武天皇以降、ずっと無責任制だったのかもしれないね。

児童手当拡充という名目で保険料という形の国民負担増。月500円なんだからいいでしょ感を醸しているが、その500円単位で何十年もステルスやってきた結果が今の国民負担率だからねえ。

後期高齢者の医療自己負担をほんの少しだけあげれば済むという話もある。何も今の1割負担を全部3割にしなくても間に合うはず。
なのにそこに手を付けられないのは、票田の多いシルバー民主主義だというだけではなく、そもそも医療界の利益の問題だからだ。ここにも愚か者による無責任な寡頭制が垣間見られる。


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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。